フォト
無料ブログはココログ

« 詩 霧雨 | トップページ | 『根の深い木(景福宮の秘密コード)』 »

2011年12月16日 (金)

ハン・ガン『菜食主義者』

文学と映画 行ったり来たり
    ――不急順不同、起承転結なし(主に韓流)

                                              林   浩 治
                                       
第16回 本は読むべし、映画観るべからず

 韓国ドラマはたいてい主人公の出生からはじまる。彼らの両親、生まれ育った環境、時代から語られる。歴史がドラマの土台として据えられるのだ。歴史の重みがドラマの重みとして表現される。文学も同じことだ。だから、たとえ直接歴史が描かれないとしても、現代韓国文学の背後には現代史が透けて見える。
 ハン・ガンの『菜食主義者』(CUON)は個人の狂気と家族の崩壊を描いていて、まことに恐ろしい小説だ。しかし、その見えない土台になっているのは、現代史だと言って過言ではない。
 『菜食主義者』は、「菜食主義者」「蒙古斑」「木の花火」という三つの中編から構成されている。「菜食主義者」の主人公は中流の会社員で、その妻ヨンヘは地味で、取り立てて魅力的でない代わり、短所もない女である。その妻があるとき突然菜食主義者になる。否、あらゆる肉類を家の冷蔵庫から廃棄してしまう。妻の姉が分譲マンションを購入した祝いの席で、肉を食べない妻を、田舎から上京した義父は殴りつけ、無理矢理に酢豚を口に入れる。妻ヨンヘはそれを吐きだして、ナイフで手首を切る。
 「蒙古斑」では、精神を病んだヨンヘを、姉の夫は芸術的対象として、性の対象として扱うようになる。姉の夫はヨンヘと自分の身体に花々を描いて交わりそれを撮影したが、寝ているあいだに妹を訪ねてきた妻に観られ、救急車を呼ばれてしまう。
 「木の花火」では郊外の精神病院に入ったヨンヘは木になることを望み、何も口にしないようになる。
 さて、このように変遷するヨンヘの出自だが、父親は家父長的で〈ベトナム戦争に参戦し、武功勲章を受章したことを最も誇りに思っている〉ようなやからで、ベトコンを殺した自慢話をすぐする。家族に対しても暴力で牛耳っている。これは特異な例を仮想しているわけではあるまい。豊かな生活を送っている中流社会がどうやって形成されていったのか。経済成長し、豊かで幸福な韓国社会の根源の歪みが前提となっているのだ。
 ヨンヘの夫の「中の上」意識も歪んでいる。一流大学を卒業し、大企業に入って競争社会で勝ち抜くよりも、そこそこの大学を卒業し、そこそこの「能力」で重宝がられる中小企業で生きていく。いわば上を目指さず下を蔑視して満足していこうというわけだ。選んだ妻も特別な美人でも優秀でもないが、おとなしくて文句を言わない女を選んだ。
 ヨンヘが父の暴力の対象になったのに比して、姉インヘは父の横暴からは上手く逃れて成長し、化粧品店の経営で自立して経済的にはそこそこ成功した。選んだ夫の家族は教育者と医者が多い家柄で、本人は芸術家だった。芸術家と言っても夫は収入のない芸術家であった。その夫は、妻の経済力を頼りにして「芸術」と称するビデオ撮影に明け暮れている。妻は夫の芸術を理解している訳ではないので、この夫婦は相互に理解し合わない夫婦である。それはヨンヘ夫婦も同じだ。
 彼らは一見幸福に満ちていて、姉の家に両親・兄弟姉妹が集まってパーティーを催す様子は傍目には成功した家族関係の表象のようだ。だが、果たしてこうした家族関係が「まっとう」だろうか? そうではないから、作者はこのパーティーの席での暴力をわれわれに見せつけたのではないだろうか。
 資本主義社会の中流で歪んだ人間関係、腐敗した家族、本能的で利己的な「芸術」、経済成長した民主主義と称する社会の根底の狂気。そういった真実のテーマを見ないで表層だけで読み解こうとすると失敗する。
 この小説、映画にもなった。日本でのタイトルを「花を宿す女」と言う。DVDは、翻訳が朝日新聞で紹介されたために急遽発売されたと思われる。パッケージに本のカバー写真が出るのは珍しい。
 正直、眠い映画だった。そもそも文学作品の映画は難しい。表面的には少ししか書かれない重要な部分の表現が困難なのだろう。ヨンヘの夫は韓国社会を理解する上でも、ヨンヘを理解する上でも重要な存在だが、映画では一般的な会社員に過ぎない。ヨンヘの父親は粗暴なだけで、その粗暴さがどこから来るのか語られない。姉の抱える闇も殆ど見えない。中心であるべきヨンヘの狂気さえ充分に描けていない。ヨンヘとの異常な情欲に溺れる姉の夫だけが、画面を醜く占領している。その夫の出身も末路さえ示唆されない。
 チェ・ミンソの初ヌードが話題になったとか。「売り」だったのかも知れないが、単調なセックスシーンは美しくもエロティックでもない。ボディペンティングの花がちっとも生きてこない。同じヌードでもチョン・ドヨンの「ハッピーエンド」(二〇〇〇年)は問題提起があった。ヨンヘの抱えた闇を人間個人の病みというふうに狭小に眺めると、重層に積み上げられた歴史上の政治を捉えることはできない。
 文学作品に直接照射されない時代だったり政治だったりするものを、読み取れない者が映画を作ったりしてはいけないのだ。(もっとも映画館で観たわけではなく、DVDで観たので、省略されている部分も多いのだろうが、本質的に映画の評価が変わることはないだろう。)
Movie_2※この作品は2016年ブッカー国際賞を受賞し再び注目された。又、ハン・ガンの日本語訳された小説としては他に、ハン・ガン『少年が来る』がある。
http://kghayashi.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-018e.html

« 詩 霧雨 | トップページ | 『根の深い木(景福宮の秘密コード)』 »

「文学と映画 行ったり来たり」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/571716/53499811

この記事へのトラックバック一覧です: ハン・ガン『菜食主義者』:

« 詩 霧雨 | トップページ | 『根の深い木(景福宮の秘密コード)』 »