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2011年9月25日 (日)

「冬の小鳥」「わたしを離さないで」「母をお願い」

「冬の小鳥」「わたしを離さないで」「母をお願い」
文学と映画 行ったり来たり 第15回
母は幻想かそれとも実存するのか!?
Yjimage
 ウニー・ルコント監督映画「冬の小鳥」の主人公9歳の少女ジニは、運命を受け入れられず周囲に反発する。
 監督自身の経験から生み出されたこの映画に、とりたてて劇的な展開は映し出されない。ただ、捨てられた少女が貰われていくまでの過程が淡々と描かれていく。ジニは大好きなお父さんに捨てられてカトリック系の児童養護施設に預けられる。再婚する父がジニを捨てることに決めたのだ。
 食事を拒否し、施設からも逃げだそうとするが、もはや行くあてもない。幼いジニには、彼女を迎えてくれる母親も故郷もない。結局妥協に妥協を重ねていく。やっと親しくなった友だちもアメリカの夫婦に貰われて行ってしまう。ここには未来はなく、ここから貰われていくことだけに未来はある。幼い子どもには余りにも辛い現実が運命として迫る。ジニは小鳥を埋葬したように、自身を埋め、顔まで土をかぶせる。
 捨てられた少女ジニは、見知らぬフランスの養父母のもとに旅立つ。ラストの場面。空港の出入口から出てきて歩くジニ。首を伸ばして養父母を捜す素振りが、運命を受け入れた彼女の微かな希望の姿として映る。
 人間は誰しも過酷な運命に束縛されている。ジニは運命を受け入れることによって光を捜した。余談だが、年かさで足が悪く、条件の良いもらい手のいない少女イェシンを、「漢江の怪物」で怪物に掠われた娘をコ・アソンが好演している。
 カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』(早川epi文庫)も、今年(2011年)映画が日本公開されて話題になった。寄宿学校に暮らす生徒たちの物語だが、この寄宿学校は「冬の小鳥」の施設のような養父母を捜すためのものではない。彼らを待ち受けるのはもっと過酷な運命である。
 カズオ・イシグロは不可避な運命のなかで生み出され、育てられ、生きる主人公のキャシーたちを創造した。
 一九九〇年代末のイギリス。キャシー・Hは31歳で介護人を11年やっている。彼女はヘールシャムという特別な寄宿学校出身だ。
 キャシーに、トミーとルースたちはヘールシャムで教育を受け、育てられている。トミーは体格が良くてサッカーが上手、腕力もあったけれど癇癪持ちで、遠回しなイジメにあっている。ヘールシャムでは交換会という行事が年4回催され、生徒たちは絵・彫刻・詩などを出品し、できばえに応じて交換切符を貰えた。トミーは絵を描くのが嫌いではなかったけれど稚拙だった
 キャシーとルースとトミーは親しかったが、ルースとトミーがカップルになる。トミーをめぐるキャシーとルースの心理的やりとりは思春期の少年・少女をめぐる物語として成立している。つまり彼らは正常な人間として生きているのである。なぜならば。ヘールシャムでは情操教育がなされ、彼らは人間として育てられたからだ。保護官と呼ばれるジェラルディン先生やエミリー先生、また「マダム」と呼ばれたマリ・クロードらは、生徒たちに心があることの証明として彼らに詩を書かせたり絵を描かせた。そういう運動を体現した人道的施設のモデルとしてヘールシャムはあった。
 18歳になるとヘールシャムを出て、コテージと呼ばれる農場での共同生活が始まる。コテージでは複数の施設からやってきた生徒たちが共同生活している。実社会に慣れて自活していくための施設だ。ヘールシャムから来た生徒たちは羨ましがられた。ヘールシャムでは、臓器移植のために生み出されたクローン人間たちに、情操教育を施していたからだ。
 キャシーたちはルースのポシブル(複製元=親)を探しにノーフォークへ旅行する。ノーフォークでルーシーのポシブルらしい人を見たという話を聞いて探しに行くのだ。
 しかしこの小旅行で彼らは、「親」なんて彼らをこの世に生み出す技術的要件の一つに過ぎないということに気づかされる。
 ヘールシャムという寄宿学校はキャシーたちにとって、故郷であり母的存在だった。それはたとえ彼女たちにとっての理想ではなかったとしてもそうだし、幻想だとしてもそうだった。
 この小説は臓器移植問題を扱った作品ではなく、前作『わたしたちが孤児だったころ』と同じく、依存すべき母の不在を描いている。彼らは母を捜すが、母は理想のあり方としては存在しない。『私たちが~』が国家や民族の枠をいとも簡単に破壊したように、『わたしを離さないで』は母的存在を否定した。我々は孤児だし、母や父や祖国や故里は後追いの知識で作り出した幻想に過ぎないのだと……。
 申京淑の『母をお願い』(集英社文庫)は逆に失踪した母の実在感が強烈だ。私たちの存在如何に関わらず母も故郷も実存する。そう語りかけるような小説だ。
〈母さん(オンマ)の行方がわからなくなって一週間目だ。〉で始まるのこの小説の全体は「あなたは」「あなたの」という二人称で構成され。主人公が誰という訳でもなく、長男や娘たち、夫などが、ソウル駅で行方不明になった母(妻)を探し続けるうちに、忘れられた母、ないがしろにしていたけれど、実は存在した母、母の実存性を発見していく過程が描かれる。子どもたちも夫もオンマを知らない。姉が妹に、「あんただけが知っているオンマのこと話してごらん」と言うと、妹は「オンマのことか、わからないなあ、オンマがいなくなったってことしか。」と応える。似た人を見たという薬剤師を訪ねると「それにしても何をしていてお母さんを見失ってしまったのかな?」と聞かれる。彼らは実はずっと母を見失っていたのだと気づかされる。
 字も読めない田舎暮らしの母は、一生を子どもたちや家族に捧げるように生きてきた。大学を出てそれぞれ「出世」した息子・娘たちは、一人の人間として実存する母を見失っていた。見失ったことに気づくことによって母の存在は大きくなっていく。忘れていた母は、彼らがそもそも知らなかった母は、確かに存在して、この社会で一人の人間として生きていた。母たる故郷もまた、彼らの「思い」とは関係なしにそこに有ったのだ。
 母は存在するのかしないのか、本当の故郷は現実か幻想か? そんな愚問が、運命をどこまで受け入れなければならないのか? という疑問と重なってくる今日この頃である。

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