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2017年3月16日 (木)

温又柔「真ん中の子どもたち」のことなど

軽快なステップを踏む多国籍文学

 欲しい本があって海外文学のコーナーを探していたところ、思いがけなく温又柔の『来福の家』 があった。温又柔は同書に併載されている「好去好来歌」ですばる文学賞佳作に選ばれた作家で、『台湾生まれ日本語育ち』で日本エッセイストクラブ賞を受賞している。1980年生まれの若い作家で台湾国籍だが、作品は日本語で書いている。もともと日本語育ちなのだ。金鶴泳や李恢成の本が海外文学扱いされたのは40年も前のことで、温又柔が日本文学か外国文学か、といった設定はもはや古いと思っていたのだが、作家の知名度のせいもあるのか。柳美里は一般の女性作家コーナーに並んでいる。釈然としない。
 それにしても長く在日朝鮮人の文学を読んできた者にとって、同じ旧植民地出身作家と言っても温又柔は軽快だ。これは世代の違いもあるだろうが、時代の差も大きいのか。他言語作家温又柔には日本語に対する恨みも反発も憂鬱も劣等感もない。なめらかだ。
 戦前、日本帝国主義の植民地・半植民地支配された地域、朝鮮・台湾・満州などでは日本語で書く作家たちが輩出された。日本敗戦後、日本に残らざるを得なかった旧植民地出身者たちやその後裔の日本語文学は戦前の強制された日本語の流れをくんでいる。1972年に李恢成が外国籍作家として初めて芥川賞を受賞すると「在日朝鮮人文学」はにわかに注目された。文芸学者西郷竹彦は、李恢成文学に対して、日本の文学伝統のなかに生い立ちながら朝鮮の音楽を響かせ、それがつなぎ合わさってイメージの流れを作っている(「民族・ことば・文芸」『李恢成対話集 参加する言葉』1974年 所収対談)、というふうに評価した。作家自身の意識とは逆に、日本人文学者は「在日朝鮮人文学」を日本文学に巾を持たせ、豊かにする要素として評価していた。しかし在日朝鮮人文学は多様な議論を生み、最も重要な作家である金石範は『ことばの呪縛』(1972年)、『口あるものは語れ』(1975年)などで独自の文学論を展開した。在日朝鮮人としての主体意識と、自らの言葉である朝鮮語を表現手段として持たぬ内実の空虚との不断の闘いこそ、在日朝鮮人の日本語表現なのだと論じた。つまり戦後在日外国人の日本語文学として代表的位置にあった「在日朝鮮人文学」は帝国主義言語としての日本語と闘い続けることによってのみ可能だった。勿論異論はあり金泰生の作品に見える文体は日本文学の獲得に向かったと読むこともでき、李恢成などはむしろその流れに沿っていた。しかしどの作家にも母語ではない母国語に対する忸怩たる拘りが重くのしかかる。
 この拘りが温又柔の場合奇妙に軽快なのだ。同じ旧植民地出身作家として一つに括ることはできない。20174_2
 温又柔は『すばる』4月号に小説「真ん中の子どもたち」を発表している。中国語が話せる父と台湾人の母を持つ琴子ことミーミーは、複数言語の狭間で根っこを探し彷徨う。台湾人の母は台湾語と中国語(普通語)をチャンポンにして日本語も混ぜて話す。琴子の家では複数の言語が飛び交っている。琴子は漢語学院で中国語を学び上海に語学留学し、父親が台湾人のリンリンや、両親が日本国籍を持つ中国人で関西弁を喋る舜哉と親しくなる。ここで初めて上海語を覚え、台湾語をやや侮蔑的な「南方口音」と呼ばれたり、先生からは厳しく普通語の発音を指導される。ミーミーは時計台から響き渡る「東方紅」のメロディーにうっとりするが、小学生のとき「君が代」を自慢げに歌っていた自分を思い出す。「東方紅」は毛沢東を讃える歌だ。「君が代」と「東方紅」をあっさり並列できてしまう感じが、例えば李良枝が富士山を美しいと思えるに至る経緯と比べると、いかにも簡単だ。ミーミーやリンリンにとって毛沢東と蒋介石も対等に歴史上の人物に過ぎないようだ。
 この小説は一種の根っこ探し、ルーツものではあるのだが、ルーツに拘らなくっても良いのじゃないかという提起もしている。〈根っこばかり凝視して、幹や枝や葉っぱのすばらしさを見逃すなんてもったいない。〉という言葉はとても新鮮だ。言語も日本語を含めて複数併用が普通な社会であれば気が楽だろう。
 今やグローバル化した経済体制の日本へ、新しく流入してきた外国籍の人々による日本語文学は例外として文学史の欄外に書き記す程度の質量ではない。ユダヤ系アメリカ人のリービ英雄、スイス生まれでイタリア系だが純粋な混血を自称するデビット・ゾペティ、イラン人のシリン・ネザマフィ、中国人である楊逸、アメリカ国籍の詩人アーサー・ビナード、それに台湾系の温又柔など多様で良質だ。日本社会が門戸を開き日本語が閉鎖性を解き放てば、日本語以外を母語とする人々やその子孫による文学作品の数はまだまだ増えるだろう。日本は台湾と国交を持たないから日本にとって台湾は一つの地域に過ぎないが、温又柔の国籍がどうであれ、他言語・多国籍の文学の今後に期待しながら見守りたい。

2017年3月 1日 (水)

多胡吉郎『生命の詩人・尹東柱』(影書房)

若き民族詩人の生を追った意欲的評伝

Photo 今年は詩人尹東柱生誕100年だ。韓国ではもちろん日本でも様々な催しが企画されていると聞く。
 私が尹東柱に初めて出会ったのは1977年頃、大村益夫先生の教室だった。読んだのは「序詞」「星を数える夜」「たやすく書かれた詩」「また違う故郷」だった。1970年台まだ尹東柱の翻訳は殆ど無かった。金学鉉が『季刊三千里』に韓国詩人群像を紹介した連載の一つとして1977年5月夏号に書いたものがあった。これは1980年11月に柘植書房から発行された『荒野に叫ぶ声』に収められた。もう一つ『詩学』1977年12月に呉世栄が書いたものがあったと思うが雑誌が見つからないので確認できない。大村先生は1985年には尹東柱の墓を発見するなど、尹東柱とは浅からぬ因縁を結んでおられた。因みに大村益夫編訳で解放前後に渡る対訳現代詩アンソロジー『詩で学ぶ朝鮮の心』が1998年に発行されている。
 韓国で国民詩人と呼ばれる尹東柱とは誰か。尹東柱は1917年12月30日中国東北部のキリスト教信者の家に生まれた。朝鮮はすでに日本の植民地に組み込まれていた。詩を書く青年であった尹東柱は1942年渡日し立教大学に入学、秋には京都の同志社大学に転学した。翌年7月独立運動をしたとして治安維持法で逮捕される。そして1946年2月16日、収容されていた福岡刑務所で衰弱した詩人は帰らぬ人となった。27歳の若い命だった。尹東柱は本当に独立運動をしたのだろうか。彼は朝鮮語で詩を書いていた。それだけだ。『生命(いのち)の詩人・尹東柱』を読んでも独立運動らしい動きは見つからない。尹東柱は詩人に過ぎなかった。
 尹東柱の初の作品集である伊吹郷訳『空と風と星と詩』が出版されたのは1984年11月だった。それをきっかけに日本でも尹東柱を知る人びとが増えた。『生命の詩人・尹東柱』の作者多胡吉郎(たごきちろう)も伊吹訳『空と風と星と詩』で尹東柱詩人に魅了された一人だ。多胡吉郎は1995年にNHKのディレクターとして尹東柱のドキュメント番組を制作した経験を持つ。多胡はその後も尹東柱に拘りその生涯を追っていた。尹東柱の詩友上本正夫や同志社大学の同窓生たちの証言を探し出し、詩人の人となりを辿ることに成功した。特に同志社大学の級友たちと尹の送別会を兼ねた宇治川ピクニックの写真を発見したことはそれだけでも賞賛に値する。初夏の川辺に遊ぶ若者の姿は政治とは無縁な幸せなものだ。逮捕される直前のことだった。
 多胡の追究は尹東柱を巡る事実調べとリンクしながら詩の解釈にも進む。英国生活の長い多胡は英詩との比較によって朝鮮語単語を分析し、また蔵書に遺された尹東柱のメモや痕跡まで丹念に調べて詩人の実像に迫った。多胡は自分の翻訳を一点だけ紹介している。

     「序詞」
   
    逝く日まで空を仰ぎ
    一点の恥のないことを
    葉合いに起こる風にも
    わたしは心痛んだ
    星を歌う心で
    すべての逝く身なる生命(いのち)を愛さなければ
    そして わたしに与えられた道を歩み行くのだ
    今宵も 星が 風に瞬いている

多胡がなぜこう訳したかは本書を参照されたい。多胡自身の尹東柱の詩引用は殆どが伊吹郷訳に依っている。
 尹東柱の詩を読んで分かることは、尹東柱は決して独立運動や民族主義を高らかに歌うような詩人ではなかったということだ。あくまでも抒情詩人だった。それもキリスト教精神に則(のっと)った詩人だった。しかし尹東柱が書いたのは死んでいく民族の復活の願いが込められた抒情詩だった。これは日本語で書けるはずがなかった。尹東柱の直接の死因がなんだったのかは分からないが、大日本帝国の治安維持法によって殺されたのは間違いない。
 いつも控えめに恥じ入りながら佇んだ詩人の死を、われわれはどう受け止めようか。尹東柱は最期のきわに何かを叫んだと、遺体を引き取りに来た両親に看守が伝えた。朝鮮語であったため、日本人の看守にはその意味がわからなかった。

   今となっては、その言葉を確かめようもない。
   それはもはや、私たちひとりひとり、尹東柱と向き合う者のそれぞれの胸に、こだまするものなのだろう。

 日本語で読める尹東柱の詩集や評伝などについては「あとがき」に紹介されている。

*韓国の人気作家イ・ジョンミョンに囚われた尹東柱を描いた『星を掠める風』があるが、監獄の生活はイ・ジョンミョンの想像をはるかに越えていたようだ。

2017年2月20日 (月)

死六臣公園を歩く

麗羅の『山河哀号』の主人公成文英は死六臣の一人成三問の子孫だという設定だった。私はかつて死六臣が祀られた死六臣公園を訪ねたことがある。前回記事の付録的意味で死六臣公園を訪ねた際の記憶を写真など見ながら辿って見ようと思う。因みに現在はこの時よりだいぶ整備が進んでいるらしい、写真も古いので悪しからず。
Dsc00067 死六臣公園はソウル市銅雀区(ドンジャング)鷺梁津(ノリャンジン)にある。地下鉄1号線鷺梁津駅を下りると瞬間生臭ささが漂ってくる。近くにソウル一番の水産市場があるのだ。鷺梁津は漢江の南、国会のある汝矣島(ナジド)を東に出た側に位置する。この辺りは鍾路や明洞などの中心街とは趣を異にして郊外の感すらある。けたたましく車が走り抜けていく幹線道路の両側にはずらっと予備校が並んでいる。Dsc00069
 五・六分も歩くと鬱蒼とした林のようなところが見えてくる。整備された公園入り口の巨大な門柱に銅板に刻まれた「死六臣公園」という文字が見える。舗装されてL字溝まで設えた意外と広い道を上がっていくと、通りの喧噪を木々が塞いでくれる。大きな赤い鳥居状のものの下を通る。これは紅サル門(홍살문)とか、紅箭門(홍전문)とか、たんに紅門(홍문)と言われ、いわば神聖な地への入り口である。陵などの前に建てられている。日本の鳥居の親戚のようなものだろう。もともとこの辺り一帯の堂山として祀られている地域なのだと思われる。山頂の広場に置かれた四阿で笛の練習をしている若い人がいた。夏だったのでポプラからアメリカシロヒトリが墜ちてきた。鵲(カチ)が低空飛行して目の前を過ぎる。近隣の住人や学生の憩いの場となっているらしい。Dsc00071
 街を見下ろそうとすると、目の前を巨大なアパート群が塞ぐ。反対側に出る道の途中から松林の中の小径に足を踏み入れると、ほどなく緑の広場が目の前に開けこんもりまるい墳墓がいくつか見える。墓地の裏側から入ってきたのだ。墳墓は横から見ると正円ではなく、オタマジャクシの尻尾のようなものがついている。緑の墓地は松林で囲まれている。松の木は「トリソル(도리솔)」と言って霊魂が天に昇るときに乗る媒体なのだそうだ。墓地周囲の土手をぐるりと回ると、墳墓の正面にはそれぞれ小さな碑が置かれて姓が刻まれている。「成氏之墓」「柳氏之墓」……と。しかし、数えてみると墓は七つあった。正面から右の端の方に「金氏之墓」というのがあるが、六死臣には金某という人はいない。Dsc00079
 そもそも死六臣とは誰かというと、成三問・朴彭年・河緯地・李塏・兪應孚・柳誠源を言う。彼らは、朝鮮朝第四代の世宗の信任が厚く、病弱な五代文宗からは幼い嗣子(端宗)を良く補弼するよう顧命を受けた者たちだった。ところが、文宗が死に端宗が11歳で即位すると、叔父の首陽大君は勢力を拡大してついに1453年、端宗の後見だった皇甫仁・金宗瑞と実弟の安平大君を粛正して権力を握る。これが世に言う「癸酉靖難」だ。首陽大君は1455年端宗から王位を剥奪し自らが即位した。これが第七代世祖である。Dsc00082_2
 上記の6名はすぐさま端宗の復位を企て、同調者を糾合して機会を待った。彼らは1456年6月明国使臣の歓送の宴において世祖一派を処断しようとしたのだったが、事前に漏洩して挫折する。
 同志の一人であった金綢(김질)らが裏切って世祖に端宗復位陰謀の全貌を密告し、世祖は関連者をすべて捕まえ自ら彼らを問責した。成三問は真っ赤に焼けた鉄で脚を突き刺し、腕を切り落とされる残酷な拷問にも屈せず世祖を「전하(殿下)」と呼ばず「ナリ(나리)」と呼んで、王として対することはなかった。残った人々も真相を自白すれば許すという言葉を拒否して刑罰を受けた。成三問・朴彭年・兪應孚・李塏は灼刑で処刑、河緯地は惨殺され、柳誠源は捕まる前に妻とともに自殺した。
 また、死六臣の家族も男は皆殺害され女は奴碑として連れて行かれた。死六臣以外にも金文起・權自愼ら七十余名が謀反嫌疑で禍を被った。この金文起という人が死六臣墓地に死六臣とともに奉られていた7人目である。公園内に設置された説明文によると、墳墓はもともと朴彭年・成三問・兪應孚・李塏のものがあって、後に河緯地・柳誠源・金文起のものが祀られたという。この金文起を忠臣死六臣に加えるべきかどうかで近年論争があるそうだ。
 死六臣は1691年、粛宗によって官職が復帰され、愍節という賜額が下されたことによって鷺梁津堂山墓所の下に愍節書院を建て神位を奉って祭祀を行うようになった。
 私が訪ねたとき、五六人の老人が書院に続く石畳から上がってきた。みな体格良く、杖をついてよぼよぼ歩いているようには見えるが、どことなく殺気を押し殺したような雰囲気がある。一人は「テジャンニム(隊長)」と呼ばれていたので、退役軍人だろうか。忠臣の墓参りだ。
 墓所から木槿咲く垣根を巡って雨に濡れた石畳を踏み、愍節書院の裏側の小径に降りていった。小門を入ると「義節祠」と額のかかった書院の横にでた。書院の中には木製の位牌のようなものが、これも七つ並んでいる。振り返って石段を降りると庭園には芝生が広がる。六角の石塔は死六臣碑である。これは1955年に建てられたそうだ。Dsc00096
 大きく緑豊かな柿の木を右斜め背後にして不二門から外に出ると、公園の木々の間を白黒の鵲が歩き回っている。不二門も丹青(단청)と呼ばれるカラフル彩色だ。陰陽五行説に基づいて方位や位置など一定の秩序に基づいて五色の原色で彩られている。緑豊かな公園にマッチしている。韓国人の美意識や思想が凝縮されているようですらある。
 入ってきた坂を下っていくと梢の間から下の幹線道路を隔てた向かいに旅館が見える。祭祀のときには賑わったのだろうか。公園の外は喧噪のソウルだ。
 「死六臣」は死後230年以上復位することもなかったのだから歴史的には敗者と呼べる。死六臣が敗者なら世祖と世祖に与した輩は勝者であろうか。世祖が権力を握る過程で、これを助けた功臣たちは、その後も世祖の側近として批判勢力を弾圧し世祖に優遇された。彼らは後に「勲旧派」と呼ばれるようになる。しかし韓国で勲旧派といえば悪役らしい。日本でも流行った韓流ドラマ「大長今」(日本版タイトル「宮廷女官チャングムの誓い」)に出てくる悪役「オギョモ」も勲旧派の末裔である。
 崔碩義氏の『韓国歴史紀行』(影書房)によれば、どうやら嫌われ者勲旧派の代表選手は、韓明澮(ハン・ミョンフェ)だったようだ。この人物は世祖に従って権勢を振るった。風流人を気取って漢江のほとりに別荘を建てて「狎鷗亭」と名付けた。狎鷗亭洞(アックチョンドン)といえば現在韓国では高級なファッションストリートということになっている。死六臣公園のある鷺梁津は水産市場と学習塾の街であり死六臣を祀る堂山のある街である。最先端のファッショナブルシティ狎鷗亭洞とは対照的だ。しかし歴史に敗者と勝者の区別はないかも知れない。麗羅の『山河哀号』のもう一人の準主役である韓哲相は韓明澮の末裔ということになっていた。

2017年2月18日 (土)

麗羅『山河哀号』

「学徒兵世代」の描いた朝鮮民族の傷痕

 大日本帝国はPhoto_2富国強兵のスローガンの下、台湾・朝鮮を植民地とし、1931年からは中国で侵略戦争を展開し偽満州国を建て、1937年からは中国との全面戦争に突入した。1941年からは太平洋まで戦線を広げたが戦争は完全に行き詰まっていた。弾薬不足、食糧不足に加え兵隊が不足し、徴兵が免除されていた学生も戦線へ駆り出されるようになった。1943年10月21日の明治神宮外苑での出陣学徒壮行会の映像は度々TVでも放映されている。しかし朝鮮出身者に対する徴兵は翌年まで始まらない。その代わり特別志願兵制度に志願させられる朝鮮人青年は多かった。『石枕(トルペゲ)』の張俊河(チャン・ジュナ)『凍土の青春』の尹在賢(ユン・ジェヒョン)は特別志願兵制度で学徒出陣し中国で兵営を脱出して朝鮮独立のための光復軍に合流している。
 1924年慶尚南道咸陽郡に生まれ東京の工科学校で学んだ鄭埈汶(チョン・サムン)も、1943年日本陸軍に特別志願兵入隊した。後のミステリー作家麗羅だ。麗羅は『わが屍に石を積め』(1980年)や『桜子は帰ってきたか』(1983年)の作者として知られる。しかし麗羅の原点的作品は『山河哀号』だ。『山河哀号』は1949年に書き始め、1952年に初稿を上げたが出版されたのは1979年集英社だった。(1986年に徳間文庫版が発行されている。)

   祖国と民族が不幸に沈淪していた時代を、私は水に流される泥舟のように生きた。ただただ風向きに逆らうまいと心がけ、ひたすら沈まないことを願っただけだった。
   …略…
   私は、自分が作家になったら、まっ先にその悔恨を書こうと思った。いや、それが書きたいから作家を志望したと言える。

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 麗羅は韓国で言う「学徒兵世代」李炳注より3歳下、在日では金泰生や金石範と同世代だ。1943年明治大学講堂で開催された在東京朝鮮人学徒出陣決起大会には麗羅自身も参加しただろうと思われる。この大会に出席した青年たちの行く末は悲惨だ。『山河哀号』の主人公成文英も朝鮮人青年に出陣を強要する大会に主席させられていた。演台には当時朝鮮の最高の知識人と言われた崔南善、李光洙らが立った。彼らの演説は余りにも稚拙な論理で出陣を促すものであるのはもとよりだが、朝鮮民族を辱める内容だった。東京帝大生で朝鮮史を勉強していた成文英は思わず立ち上がり李光洙を批判してしまう。
 波田野節子はその著書『李光洙』(中公新書)で〈志願しなかった留学生は「非国民」の烙印を押されて休退学や除籍になり、あるいは遅まきながら志願に応じて軍隊で悲惨な待遇を受け、あるいは朝鮮総督府に送還され、あるいは日本で労働に従事して監視処分を受けた。〉と書いている。波田野は李光洙の学徒兵志願勧誘について同情的だ。『山河哀号』でも立ち上がった成文英を諫めようとする李光洙が描かれている。しかしこの小説の主人公はあまりにも潔癖だった。結果成文英は逮捕され拷問の末禁固十年の刑を受け秋田刑務所に送られた。
 一方、李光洙の演説に感激した者もいた。出陣決起大会には前列に第一陣に志願した学生たちが日の丸襷を掛けて座っている。その内の一人が北村哲也こと韓哲相だった。徴兵されるよりは志願したほうが待遇が良いだろうと自ら志願した麗羅自身は、この北村に近い立場だったと思われる。出征した北村は京城郊外の特別志願兵訓練所で優秀な成績を送っていたが、所内は支給される筈の糧食が中間搾取されるなど不正がはびこっており、訓練生たちは暴力で押さえつけられていた。北村の同僚のなかには逃亡する者もあった。
 日本の敗戦、朝鮮の解放を迎え成文英はようやく帰国できたが、アメリカ統治下の南朝鮮で様々な政治勢力の台頭に翻弄される。一方、8月14日に形だけの反乱を起こして独立運動家になった韓哲相は政治的野心を大きくする。左右の対立は民族を統一から遠ざける。人々は植民地時代に親日行為をした負い目から激しく反日を旗幟とした政治運動へと導かれていた。一方学究として生きたい成文英は京城帝大に転学し、できるだけ目立たないようにしているが状況が許してくれない。また資産を持つ名家出身の成文英は結婚相手も自由には選べない立場だった。解放後親日派から左翼に転身した若者たちからは嫌悪される立場でもあった。親日とは何か、民族とはどうあるべきものか。歴史にいたぶられる成文英の姿はそういった問いを読者に投げかける。
 小説の背景には実在の人物や事件が配色される。李光洙らの文化人だけでなく、呂運享などの政治運動家も登場し歴史小説的リアリティーを持たせている。筆者としては「始原の光」と呼ばれた作家金史良が連座した朝鮮芸術座事件の逸話には心そそられた。あらゆる歴史が丹念に調査され描かれている。主人公成文英の設定が死六臣の一人成三問の隠された子孫ということになっている点も朝鮮の民族性を感じさせる。成三問はあらゆる拷問に耐えて殺された忠君と言われる人物だ。死六臣を扱った李光洙の『端宗哀史』は『山河哀号』中にも紹介されている。近年ではテレビドラマ「王と妃」にも出てくる。
 『山河哀号』は虚構に依って歴史の真実を追った小説であり、民族史に託された作家の精神の痕跡でもあった。

*この小説に主人公成文英は死六臣の一人成三問であるが、死六臣を祀った公園がソウルにある。その死六臣公園の紹介記事も書いておいた。http://kghayashi.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-5c82.html

2017年2月 9日 (木)

李炳注『関釜連絡船』のぎりぎり

学徒兵世代の文学再評価を

 第二次世界大戦末期つまり日中15年戦争末期、学徒動員以後も朝鮮人学徒は徴兵されなかった。しかし「志願」させられ大陸へ出兵していった。朝鮮人学徒の強制的出兵志願について、韓国では張俊河の『石枕』などが有名だ。張俊河は兵舎を脱走し重慶へ向かい大韓民国臨時政府の光復軍に加わった。戦後は雑誌『思想界』を創刊するなど活躍したが登山中に謎の死を遂げる。李承晩、朴正煕と続く軍事政権に批判的だったことと無関係ではないと言われる。
 朝鮮人志願兵の実際をモチーフにした作品として日本語で書かれた作品としては、尹在賢『凍土の青春』麗羅『山河哀号』などがある。麗羅『山河哀号』は戦中から戦後にわたる青年の苦闘そのものが朝鮮の近代史として読者の前に立ちはだかる。これらの作品はほぼ忘れかけられていたが、『凍土の青春』は2014年3月に韓国で翻訳出版されている。『世界文学の構造』などの著書を持つ韓国の評論家ジョ・ヨンイルも『すばる』2月号のインタビューで『凍土の青春』に触れ〈学徒兵はこれまで歴史学からはもちろん、文学界からも疎外視されてきました。〉と言っている。克服すべき対象だったのだと。
 ジョ・ヨンイルは、〈近代文学は戦後文学と同義語なのです。近代国家になる「国民戦争」という共通の経験を通して成立するものなのです。〉と言い、また長編小説を指すとも言う。「国民戦争」という民族統一の経験を持たず、ろくな長編小説もないから韓国には近代文学は成立しなかったと言いたいようだ。長編小説が近代文学の前提であるかどうかは疑義を挟む余地があるがここではさておいても、私たちが李光洙を「朝鮮近代文学の祖」と呼ぶのは間違っているのだろうか? 『林巨正』の洪命憙や韓雪野や李箕永など北朝鮮に行った作家たちをまるっきり無視して良いものだろうか。確かに日本の近代文学史に比べれば李光洙からプロレタリア文学までの期間が極端に短い。だからといって近代文学の規定を、柄谷行人に任せて朝鮮の民族文学に当て嵌めて解釈するのが妥当だろうか。因みに大村益夫は北は中国の朝鮮族自治区から南は済州島までを朝鮮文学の地理的範囲としている。最近在日朝鮮人作家金石範の『火山島』が韓国で翻訳出版されたことが民族文学理解に投じた意味も小さくない。Photo
 さて韓国の作家李炳注(1921-1992)も朝鮮人学徒兵としての経験を持つ一人だった。作者死後25年も経って今年『関釜連絡船』が日本語訳された。『関釜連絡船』の主人公たちも学徒兵として出兵している。物語は、1966年「私」であり「李先生」である語り手に日本留学時代の友人から手紙が届くところから始まる。柳泰林を探して欲しいという。柳泰林がこの小説の実質的主人公と言える。語り手である李先生が反共右翼としての立場を明確にしているのに比して、柳泰林は政治に対して超然としたいという立場ながら、思考の端々に容共的発想を表し、左翼的独立運動家であった呂運享に対する尊敬を隠さない。訳者あとがきによると、『関釜連絡船』は1968年4月から1970年3月まで雑誌『月刊中央』に連載された。朴正煕軍事独裁政権の時代だ。自由に語れない時代の文学作品をどう読み解くかは難しい。独裁政権下での文学に制限があるのは仕方ないとしても、文学を支える精神が阿てはいけない。李炳注『関釜連絡船』はぎりぎりのところではないだろうか、というのが筆者の見解だ。
 小説は「柳泰林の手記」をあいだに挟みながら、朝鮮が日本に植民地支配されていた1930年台から朝鮮戦争が始まる1950年までと現在である1966年を往来する。私や柳の日本でのややデカダンだが知的でもある学生時代の描写のなかにも、常に官憲の目にさらされている朝鮮人としての苦悶が表れる。日本と朝鮮が平行に描かれるが、朝鮮の舞台は主に「C市」として表記される晋州だ。解放後、私や柳泰林はC市高校の教師として左右政治勢力の闘争に巻き込まれ悪戦苦闘し、柳泰林は朝鮮戦争時に消息を失う。
 戦前戦後の混乱の中で朝鮮民族が味わった苦渋のどれほどを、我々は知っているだろうか。しかしその抵抗と苦渋のなかに民族の文学は身悶えしていなかったか。帝国主義戦争を闘った側だけに近代文学は成立したのだろうか。否、植民地支配された側にも近代文学は成立した。ただその成立過程と性格が異なるため朝鮮近代文学には多分に抵抗的要素があり、また見かけ上はいくつにも分断されている。柳泰林や登場人物たちと同様、作者も朝鮮の特権階級出身、日本で知的教養を身に付け日本の軍人とし出兵した学徒兵世代だ。学徒兵世代の知的教養に関して翻訳した橋本智保はこう書いている。

  李炳注にとって日本(語)を媒介に接した近代文学とは、人類普遍の価値を体現するものであり、植民地になった朝鮮の運命や、学徒兵になった自分の運命を、親日・反日という図式を超えたところで説明してくれる根拠になっていると考えられる。
                                         (訳者あとがき)

 金鍾国が『親日文学論』を書き、金允植は『傷痕と克服』を書いた。韓国文学は一旦強制された日本語、帝国主義言語としての日本語を徹底的に批判しなければならなかった。文学に於ける帝国主義の克服は、韓国文学に於いても日本に於ける朝鮮人の文学に於いても必須だった。だから訳者あとがきの当たり前の言説も新鮮なのだ。最近、韓国では学徒兵世代の教養が見直されているようだ。同時に独裁政権時代の文学も見直されなければならない。植民地支配や軍事独裁とせめぎあいながら書かれた文学の再評価の時が来たのかも知れない。

2017年1月26日 (木)

柳美里『人生にはやらなくていいことがある』

柳美里文学の旋回─孤独から連帯へ

 柳美里と鷺沢萠が2日違いという近い年齢で親しい関係だったということは知らなかった。(私とは띠동갑だ。)そもそも私のなかで柳美里と鷺沢萠は結びつかない。柳美里は在日韓国人家庭に生まれ育ち、その崩壊した家族との格闘からアイデンティティを築いた作家だった。在日朝鮮人である実存性ゆえの誹謗中傷を受け続け闘い続けた。(愚銀のブログ「『貧乏の神様』を読んで『仮面の国』を再読する」 を参照されたい)つまり柳美里のアイデンティティは否応なく在日朝鮮人として存在し、柳美里の文学はそうした実存からいかに飛びだすかという藻掻きだった。
Photo_2 逆に鷺沢萠は常に自分の依るべきアイデンティティを探していた。鷺沢の初期の作品は、経済発展する資本主義日本において、帰るべき故郷を失った人々の彷徨を描き、ついには東京大森界隈に根っことすべき場を発見したかに錯覚した。しかし所詮せんない空理で心を満たすことなく、次には祖母の出身地である韓国にアイデンティティを探す。鷺沢萠は朝鮮人の血が4分の1混じるクオーターだ。韓国に自分の根っこを探し、留学して韓国語を勉強した。鷺沢萠が、どうしようも無く在日朝鮮人である柳美里にシンパシーを感じようとしたのは自然な成り行きだった。しかし柳美里は鷺沢萠が〈朝鮮半島にルーツを持つ同胞だからという理由で親しくしていたわけではなかった。〉探しに探して書いた鷺沢萠に対して、柳美里は〈多くのことを諦め、行き場を失ったわたしに残された唯一のもの、それが「書くこと」だった〉と言う。二人の方向性は真逆なのだ。
 しかし柳美里は仲違いした鷺沢萠に謝罪したかったと言う。柳美里は10数年前自らの出自への旅と深く関わる『8月の果て』(2004年8月)を書いている。北朝鮮に行くと『ピョンヤンの夏休み』(2011年12月)を書いた。鷺沢萠が自殺したのは2004年4月だった。

    人は、物語がないと生きられないのではないでしょうか。
   生まれてから死ぬまで、自分が生きてきた物語はもちろんですが、自分が生まれる前のファミリーヒストリーを求めているのではないか。それは、自分は何故ここに居るのか?というアイデンティティの問題にも関わってくるわけです。自分はこれからどこへ行くのか、その行き先を知るためにも、物語は必要なのです。

  2011年の3月11日、東日本大震災は柳美里の生を変えた。柳美里は居住する鎌倉から福島まで通って臨時災害放送局「南相馬ひばりエフエム」に無料で出演していたが、2015年4月からは南相馬市原町区に移住して現在に至っている。18歳で書くことで生きると決め、書くことだけで生活費を稼いで来た柳美里にとって、お金にならない「書く」行為の意味はなんだろうか。それは名誉でもない。社会的地位の確立でもない。〈本を読む人は「消費者」ではなく「読者」なのです。〉読者は、柳美里が泥臭く地を這うように書いてきたことを知っている。道徳行為の受け手としての生き方から担い手としての苦闘を生きていきたいという発想は、高1で中退した彼女が高卒認定試験に合格して大学で学びたいという指標にも結びついている。絶望の文学から希望の文学へ。孤独から連帯へ。柳美里文学は緩やかに旋回していた。
 『人生にはやらなくていいことがある』は柳美里の近況と思考を書いただけのものではない。熱心な読者であれば文章読本とも読める。ようやく小説の頂きが見えてきたような気がすると言う柳美里の「書く」方法論としても読み逃せない本だ。

2017年1月15日 (日)

梁英聖『日本型ヘイトスピーチとは何か』(影書房)

レイシストヘブン差別の王国 日本を撃て

Photo 崔実『ジニのパズル』で表出された在日朝鮮人を覆う日本の現実は、読者の一部がいかに曲解しようとも、悪の北朝鮮教育をする朝鮮学校などではなく、レイシズムに犯され傷つく少女の姿であり、朝鮮学校は彼女を懸命に支えようとしながらも力足りず、ジニの同級生の心さえ痛めてしまうものだった。ジニや朝鮮学校の同級生たちが安んじて学べるほどには、日本の市民社会は成長していない。梁英聖(リャン・ヨンソン)の言葉を借りれば〈日本社会に反レイシズム(反民族差別)という社会規範が成立していない〉のだ。
 朝鮮学校は高校無償化の対象から外されている。このようなあからさまな上からのレイシズムがヘイトスピーチ、ヘイトクライムを生んでいることは言うまでもないだろう。
 在日朝鮮人はなぜ日本に住みながら日本国籍を持たないのか。そして朝鮮学校は制度的に差別され続けるのか。1952年法一二六によって〈無理やり国籍を失わせた在日に対し、当面は日本にいてよいとする、極めて場あたり的で差別的な措置〉が行われた。かつて帝国臣民として労働や売春を強制した朝鮮人から日本国籍を奪い、一般の外国人と同じ扱いにするという見事な歴史抹消がなされた。つまり歴史否定主義政府にとって、侵略も植民地支配もしなかったがアメリカとの正々堂々とした戦にたまたま負けた日本なのであって、不名誉な歴史を証明する朝鮮人や朝鮮学校はそもそもあってはならないものなのだ。だから安倍政権は慰安婦を象徴する小さな少女像の設置に血眼になって抗議し対抗処置まで講ずる。
 日本では政治空間からの差別煽動(上からに差別煽動)が公然と行われ、朝鮮人従軍「慰安婦」の否定、南京大虐殺の否定などの歴史否定がまかり通っている。これは人種差別撤廃条約を批准している欧米各国とは根本的に異なり、欧米極右勢力の目指す見本・目標とさえ思える。もともと安倍晋三は塩崎泰久、菅義偉
(スガヨシヒデ)、高市早苗、下村博文らの現官僚たちとともに、従軍「慰安婦」関係の教科書記述の撤廃や日本の戦争犯罪の歴史否定を進める政治家グループに属していた。彼らは歴史否定を主眼とする国家主義者政権を運営し、ヘイトスピーチに力を与えている。しかし在日朝鮮人に対するレイシズムは今に始まったことではない。戦後すぐに戦前の体制を受け継ぎ、旧植民地出身者の日本国籍が剥奪された1952年体制の成立とともに差別構造は確立された。
 梁英聖は日本に於ける在日朝鮮人差別の実態の歴史を追い、その根源を明らかにしながら、欧米と比較しながら民主主義の行くべき道を明らかにしようとした。その視線は日本の資本主義的構造にまで及ぶ。新自由主義的市場原理及び日本型雇用システムが生む差別構造だ。
 黄英治の小説『前夜』では製パン工場で非正規労働者として働く在日朝鮮人青年を通して、工場での重層的な差別体制内での絶望的な労働に焦点を当てた。彼はやがてヘイト団体に加わって活動していくようになる。日本型雇用システムが生み出したものは単純に貧困労働者だけではなく、それを赦し補完する思想だった。〈市場原理にゆがめられた「戦後日本的人間らしさ」は、人権侵害に奇妙なほど寛容であり、場合によってはそれを「美徳」とみなし助長さえしてきた。……吹き荒れる生活保護者への異常なバッシングは、むしろ市場原理に侵食された「人間らしさ」から正当化されてこなかっただろうか。〉
 反レイシズム規範の確立を妨げる日本型資本主義に、私たちは充分に対抗できていなかった。労働運動が盛んな頃でさえ、運動内部に女性差別や民族差別は蔓延していた。民主市民派の選挙運動のさなかでも同じだった。レイシズムに対抗し、これを規制する連続した闘いこそあらゆる民主主義運動に通底しなければならないのではなかろうか。そのための指針としてこの本は間違いなく役に立つ。
 *『日本型ヘイトスピーチとは何か』は在日朝鮮人に対するレイシズムを中心に論じているので、
岡和田晃 マーク・ウィンチェスター編『アイヌ民族否定論に抗する』なども併読されたい。

2016年12月16日 (金)

ハン・ガン『少年が来る』雑感

霊魂の言葉に耳を傾けよ!

 2000年5月、光州ビエンナーレの帰り、終点の道庁前でシャトルバスを降りると運転手も降りてきて尚武館(サンムガァン)を教えてくれた。1980年の民衆抗争時に犠牲者の遺体が安置された建物だ。ハン・ガンの小説『少年が来る』の冒頭、二人称で語られる少年はこの尚武館の入口階段に座っている。この小説は光州事件をモチーフにしている。
Photo_3 光州事件とは光州民衆抗争とも呼ばれる。朴正煕暗殺後に芽生えた短い民主化の春を踏みにじる全斗煥による所謂「粛軍クーデター」に始まる軍事独裁政治に対峙した光州市民の民主化運動と、それを徹底的に弾圧した軍との凄惨な抗争だった。光州事件は1987年の6月民衆抗争で結実する韓国民主化運動の原点とも言われる。歴史的事実については文京洙『新・韓国現代史』(岩波新書)などに譲るが、空挺部隊による残虐は臨月の妊婦の腹を銃剣で切り裂くほどの非道に至っていて、韓国の表現者は小説、詩、映画など数多くの芸術作品を生んだ。『少年が来る』もその中に加えられる。
 今年(2016年)作家
ハン・ガンは『菜食主義者』でブッカー国際賞を受賞したので、日本でも知る人が増えたと思う。ハン・ガンは光州市生まれで事件の時は満9歳だった。父親は韓国の大物作家、韓勝源(ハン・スンウォン)だ。
 『少年が来る』は二人称の「きみ」で語られる少年の視線を通して、無惨に殺された人々を描きながら、少年の周囲の人々の時間的経緯をも複数の始点から描いていった。
 まだ中学三年生だったトンホ少年は、ソンジュ姉さんや女子高生のウンスク姉さん(血のつながりのある姉ではなくとも親しい年上の女性を「누나」姉さんと呼ぶ)らとともに尚武館で遺体の管理を手伝った。民主化運動に参加して軍人に殺された人々の遺体だ。少年の知っていたイム・ソンジュは忠壮路にあるブティックの裁縫師だった。しかしその前、ソンジュはソウルの紡績工場で働いていた。そして労組員として仲間とともに闘い、私服刑事に蹴られ踏まれて腸破裂し、入院中に解雇され、光州に帰って裁縫師見習いとして働いていた。
 戒厳軍によって鎮圧された市民軍の中に彼らはいた。幼く無抵抗の少年たちにさえ銃弾は撃たれ、銃剣は無惨に刺し込まれた。きみを語る僕であるもう一人の少年チョンデとともに、この小説は文字通り魂の小説、殺された霊魂が語る文学でもある。

   彼らの顔を見てみたい、寝入った彼らのまぶたの上でゆらゆらしてみたい、夢の中にすっと入り込んでみたい、その額、そのまぶたの上をゆらゆら飛び回ってみたい。彼らが悪夢の中で血を流している僕の目を見るまで。僕の声を聞くまで。なぜ僕を撃ったんだ、僕をなぜ殺したんだ。

1282_08_12 光州闘争で逮捕収監されたソンジュは、アカと呼ばれ〈地方都市のブティックに四年間潜伏して、スパイの指令を受けてきたというシナリオを完成させるために〉毎日出血で気を失うまで拷問された。
 ウンスクは4年前に浪人してソウルの大学に入ったが、そこも全斗煥政権打倒を訴える学生たちと彼らを阻止しようとする私服警官たちの闘争の場であった。結局学費が払えず教授の勧める出版社に就職して働いた。指名手配中の翻訳者の本を担当したため当局に呼ばれ、頰から血を流してもびんたされ続け脅される。〈おまえみたいな女はここでどうなろうが誰も知らんぞ、薄汚いアマ。〉指名手配中の男の高校の同級生である出版社の社長兼編集長は警察署に呼ばれても、無傷で戻ってきている。取り調べの場にはミソジニー(misogyny)が満ちている。
 この小説には無論個々の名前のある人間が多数登場するが、実のところ固有名詞で語られない。主人公は「きみ」であり「僕」であり、「あなた」であり「私」である。普通名詞で呼ばれる大勢が犠牲になったという意味もあり、また彼らの犠牲は普遍性を持っているからとも言える。私は1982年に光州を訪問したさい知り合った同世代の青年にまだ17歳の幼い妹がいて、裁縫の修行をしていたのを思い出した。
2000年光州民衆抗争20周年記念集会に参加したとき、死んだ娘の顔写真の入った名刺をそのお母さんから貰った。明るい笑顔だ。今日光州は韓国民主化闘争の聖地と呼ばれる。韓国の民衆は光州でもソウルでも、勝ち取った民主主義を奪われまいと闘い続けている。
 光州事件の犠牲者が埋葬された旧望月洞墓地へ通じる小道に石碑が埋め込まれていて、人々が踏んで行くようになっている。それは近在の村に全斗煥大統領が立ち寄ったさいに記念して建てられた石碑だそうだ。私が見たときは전の字が見にくかった。地面に微かに浮かんだ「전두환」の三文字はまだ見えるだろうか。土に埋もれても石が削れても、この石碑を踏み続けて民主主義は守られるに違いない。

2016年11月26日 (土)

温又柔『来福の家』のことなど

多言語社会は楽しい
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 今年(2016年)韓国の作家ハン・ガンがブッカー国際賞を受賞して話題になった。ブッカー賞は日本では、1989年に日系のカズオ・イシグロが『日の名残り』で受賞したさいに知られるようになった。選考対象は、イギリス連邦およびアイルランド国籍の著者によって英語で書かれた長編小説だったのだが、ブッカー国際賞は翻訳作品を表彰するもので、2005年のアルバニアの作家イスマイル・カダレへの授賞に始まる。国際賞は将来はブッカー賞に統一される予定だそうだ。翻訳作品と英語での執筆作品との垣根を取り払おうという動きだ。日本語とドイツ語で執筆する日本人作家多和田葉子がドイツのクライスト賞を受賞したのも今年だ。社会のグローバル化(アメリカ一極支配という意味ではなく、経済や政治が国家の枠を超えて、一国一民族では成り立たなくなってきた事実を意味する。)に伴い、文学の世界も着実に世界化の道を歩んでいる。
 日本とは地政学的に緊密な関係にある朝鮮の近代が、帝国主義宗主国としての日本の植民地として被支配を強いられた事実は、当然ながら文学にも大きな影響をもたらした。明治・昭和帝国の終焉後朝鮮での生活の地盤を失ったまま日本で生きることになった朝鮮民族の子孫たちの文学は、今なお完全には日本文学に収斂されることなく生き続けている。ところがいかに日本が島国とは言っても現代は多くの国際交流と、政治的、経済的難民の流入を押しとどめることができないまま、新たな外国人日本語文学の発達を促している。リービ英雄やアーサー・ビナードのような欧米系の作家も出てきているし、中国人作家楊逸やイラン留学生だったシリン・ネザマフイも無視できない日本語作品を残した。彼らの多くは日本に於ける語学の習得の過程で文化の違いに葛藤し、煩悶し、壁にぶつかりながら、その鮮やかな生を表明していった。
 その表層的には逆の立場から、岩城ケイは『さよならオレンジ』『Masato』などの作品で、民族文化を持って生きることと、生活の場である社会の言語を修得して、多文化社会を生きることの統合を、困難さも含めながら見せてくれた。
 沖縄の作家目取真俊に対して大阪府警から派遣された若い機動隊員が「土人」と罵ったのも今年のことだった。自民党政権は差別発言ではないと取り繕りたいようだが、政権による引き続く犠牲の押しつけに異議を唱える沖縄人に対して、醸成された優越意識から発せられた言葉だった。
 リービ英雄の『模範郷』に「土語」という言葉が出てくる。広大な中国の田舎村で〈その村以外に通じないし、通じる必要もないと思われている方言〉を示す言葉だ。これは日本本土の警察官が「日本」にしがみついた虚栄心から沖縄人を「土人」と罵るのとは違う。標準語を意味する「普通話」に対置される言葉だ。作者は〈土語の声を聞き、理解できないときは黙り込み、理解できる分だけ普通語で答えた。〉リービの村人との会話は沈黙を挟みながら、村人の土語を尊重しつつ交わされた。それは平等な会話だ。
 『模範郷』には、土語、普通語の他に都市の方言や北京語、台湾の国語(グオユー)など多様な言い方で表わされる中国語が登場する。台湾に降り立ったアメリカ人日本語作家リービ英雄は、台湾生まれ日本育ちで日本語ネイティブな台湾人作家温又柔らと合流し、少年期を過ごした場所を探す。
 温又柔は今年『台湾生まれ日本語育ち』で日本エッセイストクラブ賞を受賞した。温又柔は2009年にすばる文学賞の佳作に入った作家で、受賞作を含む『来福の家』が今年白水社Uブックスの一冊として再版された。2011年発行の集英社版は知らなかったので読んでいない。収録作品はすばる文学賞佳作の「好去好来歌」と「来福の家」。
 「好去好来歌」の主人公縁珠は台湾生まれだが三歳のときから日本にずっと住んでいる。両親は1950年代生まれで幼児期は台湾語を遣っていたが、小学校では中国語を強制された。中国語が国語だった。祖父母は日本時代に覚えたので日本語が出来る。日本育ちの縁珠は日本語ネイティブで、中国語と台湾語の聞き取りは出来る。楊縁珠は自分の名前を「ようえんじゅ」と思っているが、パスポートには「YANG YUAN CHU」と表記されている。発音はYáng Yuán zhūとなるが、英語の時間に自分の名前をアルファベット表記するときYANG YUAN CHUと書いたらバツになってしまった。「ようえんじゅ」だから「You Enju」なのだろう。
 母のしゃべり方は、〈中国語になったり、台湾語がまじったり、接続詞だけは日本語だったり〉する。日本語も「どうして電気を開けないの?」などとピジン語化している。しかしそこに大きな否定感は見当たらない。在日朝鮮人文学に比べると、自己否定から始まる反社会性、体制に対する抵抗感のようなものが小さい。概ね屈託のない小説と言える。
 しかし主人公の日本人ボーイフレンドが中国語を勉強していて、中国への留学が決まると「日本人のくせに、どうして中国語を喋るの?」と言ってしまう。これは私も若き日に経験がある。言われた方だ。「なんで日本人なのに、朝鮮語勉強してるの?」と在日朝鮮人であり母国語を解しない友人に訊かれる。これは答えにくい。フランス語やドイツ語だったらこんな風には訊かれまい。これは、なんで自分は朝鮮人なのに朝鮮語が出来ないんだという、自分に対する反問なのだった。自己のアイデンティティに対する不安なのだ。
 「来福の家」の主人公である少女許笑笑は中国語専門学校に入学する。普段はエミちゃんと呼ばれているが「きょしょうしょう」であり、本当は「Xǔ Xiàoxiào」なのだが、カタカナで表そうとすると正確には表現できない。母は家で何語で会話しているのかと聞かれると「──おうちでは、適当適当!」と答える。大らかだ。おそらく母の母語は台湾語(福建省南部方言をルーツとした閩びん南なん語)で、母国語はリービ英雄の書いた「国語」なのだろう。そこに生活語である日本語が混じってくる。笑笑の姉歓歓は外国から日本に来て住んでいる子どもに日本語を教える仕事をしていて、日本人の小学校教師と結婚した。そしてタガログ語の勉強を始めようとしている。希望に満ちている。多文化共生社会を小説で先取りしたかのようだ。ここにはヘイトスピーチも、嫉みや憎悪をマイノリティーに向ける感情の起伏も描かれない。
 Uブックス『来福の家』の帯には〈台湾生まれ、日本育ちの主人公は、三つの母語の狭間で格闘する〉とあるが、格闘と言っても爽やかな青春の一頁ほどのもので嫌みが無い。在日朝鮮人の小説は李恢成も金鶴泳も、もっと若い柳美里もどこか暗い塊を抱えている。どろどろしているのだ。それらは現代史の現実と人間の実存を嫌というほど突きつけてきた。温又柔の小説は爽やかだ。台湾人の文学と言ってもまだ数少ないので比較するのは無理なので、この爽やかさは温又柔に限って言うのだが、多文化・他言語共生社会の未来の良さを象徴しているようで好感がもてる。多言語を押し出す、小説で表出する温又柔の態度は新鮮ですらある。
 なぜこれまで在日台湾人の文学は現れなかったのか。朝鮮に先駆けて、日清戦争後大日本帝国の植民地となった台湾は、朝鮮よりも日本化が進んで当然だったろう。日本の敗戦前、台湾人による日本語小説も登場している。楊逵、呂赫若、張文環らである。これらは現在は『〈外地〉の日本語文学選』(新宿書房)によって確認できる。黒川創編集の労作だ。戦後には邱永漢が頭角を現した。多くの小説を『文學界』『新潮』などの雑誌に書き残している。これらの作品は見直されて、1994年に『邱永漢短編小説傑作選 見えない国境線』(新潮社)として一冊にまとめられた。(邱永漢はその後金儲けの神様と呼ばれて一世を風靡したことがある。)しかし戦前戦後に渡る台湾人作家の系譜が温又柔まで続いているとは言いがたい。邱永漢以後めぼしい台湾人日本語作家は出ていなかった。李恢成や金鶴泳が各種文学賞を受賞して脚光を浴びた1970年台、日本は中華人民共和国と国交を回復し中華民国とは断交した。パンダが上野に来ると中国ブームが起きた。在日台湾人は日本人の目から遠ざかったし、在日中国人は日本語で日本文学に抵抗する意味を持たなかったということなのかも知れない。これは憶測に過ぎない。
 温又柔は今後中国語でも書くようになるだろうか。日本語に拘泥する必要はない。文学表現の手段は自由だ。でも取り敢えずは日本語か。

2016年11月 6日 (日)

柴田翔「地蔵千年、花百年」

生と死を巡る小説

69 『されどわれらが日々』の作家柴田翔が30年ぶりの長編「地蔵千年、花百年」を発表したと、東京新聞夕刊の文化面で知り、メジャーとは言えない雑誌『季刊文科』69号(2016年8月発行)を購入した。商業ベースでは厳しそうな雑誌でもネットでは簡単に注文できる点は今日の利点と言えるのかも知れない。
 初めは、東京郊外に暮らす男が昭和の歴史とともに自分の半生を振り返る私小説風のものかと思いながら読み進めたのだが、そこに込められたのは近代史的視点に加え、文化史的、人類学的、且つ広範囲な地域からの照射によって生と死の交差を魂の伝達として表そうという試みだった。無論私小説ではない。背景に政治史がしっかり敷かれているにも拘わらず、嫌みが無く読後感が爽やかだ。
 1975年頃の東京郊外の商店街と小住宅地の風景から始まった小説は、昭和の家族の物語を予測せしめた。しかし敗戦の年に10歳だった男の半生は長閑ではなかった。加見直行は、若き日山間の温泉宿で知り合った〈仮初めの男〉の誘いに乗って、我知らず赤道に近い海辺の小国で幸せな3年を過ごしていた。そこは〈南半球から赤道へ拡がる大陸の北端、わずかに赤道の北側に位置する海辺の国〉だ。実は逃亡中の過激派リーダーである〈仮初めの男〉に替わって現地で貿易を営み、ここでしかほぼ使われない古イタリア語方言を習得慣れ親しむうちに、淡い褐色の肌の女性グレティーナとの幸せな時間を過ごすことになる。しかしある日突然、政治の陥穽に落とされ急遽帰国せざるを得なくなる。日本に帰った直行は日本で貿易事務所を開き若い妻を得て息子を儲ける。
 直行と家族の生活は、昭和が終わりベルリンの壁が崩れるという歴史の変遷の中で商店街とともに変化していく。駅ビルの晴れやかな開業と対照的に商店街にもたらされる小さな事件の連鎖は、馴染みの歯科医師の死に象徴されるような繋ぎ目をいくつも持った。それぞれの戦後を生きた商店街店主たちの変転変遷に続き、妻晃子の若い死を迎える直行の生は〈骨の孤独を誰が癒すのか〉という問題に突き当たる。そしてやがて老いたる直行の生はハイブリッドな孫であるニカへと受け継がれていく。コーカソイド、モンゴロイド、ネグロイドの混血である南米出身の母と、日本人の混血性に自覚的である筈の父を持つニカの表出こそ希望だ。
 加見直行を中心とする登場人物たちの会話は、日本語のほかアメリカ英語、日本式英語そして海辺の町で使われる古イタリア語方言と多様で、その世界も東京郊外の町、海辺の小国、直行の成人した息子夫妻が暮らすアメリカ南端の大学町と広がりながら繋がる。
〈文化も歴史も、死者たちと生者たちの思いの感応がなければ生まれない……。永遠無量の時空の片隅で、死者と生者の思いが重なって、そこから初めて文化や歴史が生まれてくる〉
 この小説では不穏なるもの、光を潰す陰湿なものが殆ど描かれないか、背景に押しやられて、生と死の理想形だけが追求されているようにも読めるが、この小説の美しさは、そうした構成が功を奏したものとも言えようか。若く過激な批評家であれば不満は残るだろうが、読後感として物足りなさはない。生と死を巡る魂の小説と言ったら大仰だろうか。グローバルでありながらも民族的な価値観の表出、あるいは狭隘な場(トポス)を表現しながら人類史に辿り着く表現だ。

2016年10月 9日 (日)

文学と映画 行ったり来たり 第12~31回――不急順不同、起承転結なし(主に韓流)

*愚銀のブログ開設の主な理由は、休刊したさいたま市のミニコミ紙『市民じゃ~なる』に連載していた「文学と映画 行ったり来たり」の続きが書きたかったからだ。ブログに書き始めると、元々縛りの少ない連載ではあったのだが「文学と映画」というタイトルから外れる書評や雑文が増えてきて、このタイトルを付けた文は第31回で止まってしまった。それで一応の区切りとしてまとめておくことにした。リンクを張っておくのでクリックすると該当ページに飛ぶ。

第1~11回 〈『市民じゃ~なる』に連載した分〉

 

第12回 海角七号 春が来れば 私の小さなピアニスト──名誉なんかいらない、音楽映画の楽しみ

第13回 そもそもの初めは「馬鹿宣言」だった

第14回 映画「ハピネス」「母なる証明」小説「楽しいわたしの家」──女性に犠牲を強いるマザコン男性社会を告発

第15回 「冬の小鳥」「わたしを離さないで」「母をお願い」──母は幻想かそれとも実存するのか!?

第16回 ハン・ガン『菜食主義者』──本は読むべし、映画観るべからず

第17回 『根の深い木(景福宮の秘密コード)』──権威主義者は堕落している

第18回 孔枝泳『トガニ』(コン・ジヨン「るつぼ」)──苦痛と悲愴の背後に、偽善と暴力の巨大な世界がある

第19回 ク・ヒョソ『長崎パパ』――アイデンティティは自分で決める 

第20回 「闇の子どもたち」「わたしの中のあなた」「わたしを離さないで」──臓器移植とは何か 

第21回 チョン・イヒョン『マイスウィートソウル』──現実は見えないところで歪んでいる

第22回 映画「詩」――詩はどうしたら書けるのか

第23回 キム・リョリョン『ワンドゥギ』 ――差別に負けない爽やか青春小説 

第24回、映画『道―白磁の人―』──朝鮮に慕われた日本人 

第25回 キム・ヨンス『波が海の業ならば』──文学の深淵に語りかける声なき声

第26回 三浦しをん『舟を編む』――言葉を生み出す心は自由だ

第27回 韓流ドラマ「済衆院」と大城立裕の『小説琉球処分』──偏執的なナショナリズムを克服せよ!!

第28回 イ・ジョンミョン『星を掠める風』──詩人尹東柱の死

第29回 「明日、ママがいない」「バービー」──醜い現実に子役たちは煩悶する

第30回 佐藤泰志『そこのみにて光輝く』──生きる価値を問い直す文学

第31回 キム・リョリョン『優しい嘘』──誰によって誰が救われるのか!!

2016年10月 5日 (水)

パク・ミンギュ『亡き王女のためのパヴァーヌ』

愛には想像力が必要かも知れない

Photo 第1回日本翻訳大賞大賞を受賞して少し話題になった『カステラ』の作者パク・ミンギュの長編『亡き王女のためのパヴァーヌ』は、1985年の韓国ソウルが主な舞台になっている。そして意表を突く恋愛小説だ。
 1985年、韓国はどんな社会だったか。一口で言えば「民主化の時代」だ。全斗煥が第五共和国を率いた軍事独裁国家に対して学生運動などの民主化運動が復興していた。労働運動も台頭した。申京淑『離れ部屋』にも描かれた九老工団のストライキは有名だ。もう一面では88年のオリンピックに向けてインフラ整備が進んでいた。
 1985年、ぼくは何をしていたか? 無論20歳ではなかったが彼女はいた。「良い大学」出ていて、多分綺麗な方だった。李良枝、金鶴泳、金石範、桐山襲、山代巴、黄晳暎などを読んでいた。「鯨取り」などの韓国映画を観た。大宮で在日朝鮮人文学を読む会に参加していた。韓国にも行った。ソウル―光州―木浦―伽倻山―河回とまわった。金準泰の詩など韓国文学の原文読解にも挑んでいた。ぼくの中での第一次韓国ブーム期だったと言っていい。
 『亡き王女のためのパヴァーヌ』という小説は、もしかするとこうした時代設定を無効にするものかも知れないと訝る気持ちが少し蟠る。
 学歴社会の韓国で女子商業高校出身だというだけで目の前に大きな壁を置かれたような状況だってことは、映画「子猫をお願い」を観ても分かる。この小説は日本以上に見た目を重視する差別社会において、商業高校出で「ブス」というレッテルを貼られた女性を巡る恋愛の物語だ。まだ携帯電話もなく家の電話で互いの所在を確認しなければならなかった時代だ。これは日本でも同じ。今ならすれ違わないで繋がる思いが、空中で交差して交わらずに落ちる。地下鉄も整備されていないソウルではバスを何回も乗り換えて会いに行く。〈中風の父親と幼い弟、行商に出る母……描写するまでもなく世の中の過酷さが光を放っていた。〉チェ・ジウ主演のドラマのように貧しいけれど美人で頭の良いヒロインという設定が韓国ドラマの王道だろう。正直、容姿のために生きていくのが大変なんだ、あの子は弱者なんだと断言される(しかもシンパシーから)ほどのヒロインなんて想像がつかなかった。
 〈人間は果たして失敗作なんだろうか、人間は果たして……成功作だろうか?〉〈失敗作か成功作かという以前に、ただ「作品」としてだけでも価値があるのではないか、〉という主人公の煩悶は読者の煩悶でもある。1985年、開発独裁が末期に近づいている年、オリンピックを3年後に控えて益々豊かさを社会が追究していた時代。彼と彼女とヨハン先輩の3人はそれぞれ傷を持ち闇を抱えて、お互いを必要としていた。
 パク・ミンギュの小説は意表を突く改行で驚かせる。既成の概念に囚われることをよしとしないのだろう。我々を覆い尽くす社会の常識、資本主義の足枷を一旦すべて取り外せないものかと足掻いた文体だ。〈二十歳の男なんてAMラジオみたいなものだ…どんなにチャンネルを回しても、女という電波をとらえられない。〉しかし、こんな斬新に見える比喩も金融資本主義の枠の中に収まっているということを作者は知っている。
 想像力を持たない者は人を貶(おとし)め辱め見下す。資本の論理に従って豊かさを奪い合う。パク・ミンギュが「自分だけの想像力」を持っているかどうかは分からない。しかし「自分だけの想像力」を持とうとしていることは確かなようだ。

2016年9月27日 (火)

平野啓一郎『マチネの終わりに』

「過去は変えられるか」問いかける世界文学

 感想をまとめるのは難しい。小説と言っても主題が音楽であり知識の乏しい私の理解がどこまで到達し得ているのか疑問だ。ギタリスト福田進一の同タイトルのCD発売(10月19日)を待つかと思ったが、聞いてからでも私の理解の至らなさは変わらないだろう。無知は音楽に関してだけではない。主人公二人の抱えているものが大きすぎて、簡単に触れられない思いだ。

Photo これは世界的ギタリスト蒔野聡史と国際ジャーナリスト小峰洋子の出会い(2006年)から別れ、そして再会(2012年5月)までの物語だ。この間に二人はほんの数回しか会っていない。40歳を前後して始まる大人の純愛小説だ。
 洋子はクロアチア系ユーゴスラビア人映画監督と長崎で被爆した母との子として生まれジャーナリストとして活躍し、派遣されたバクダッドで爆弾テロに巻き込まれる。舞台は東京─パリ─バクダッド─マドリード─ニューヨーク─長崎と広範囲だ。登場する言語も英語、フランス語、ドイツ語、ラテン語、ルーマニア語、アラビア語、クロアチア語そして日本語と多様で、その大半が洋子の駆使する言語に因んでいるが世界で活躍する蒔野も語学が達者だ。作者平野啓一郎の語学力や音楽に関する広い知識と深い洞察力がこの物語を支えている。この小説はもはや国家や民族言語の枠に囚われていない。
 蒔野と洋子の芸術と政治にかかわる会話が魅力的で、知性で裏打ちされているためか衒学的な嫌みをまったく感じさせない。蒔野は「イラクで一体、俺の音楽に何の意味があるんだろう」と語る。バクダッドで心を傷めPTSD(心的外傷後ストレス障害)のカウンセリングを受けている洋子は、「わたしは、実際にバクダッドで蒔野さんのバッハの美に救われた人間よ。」と応える。洋子はバッハを30年戦争後の荒廃した世界で人々を慰めたのだと譬えた。こういった会話は現実の戦争を肌で感じ蒔野の音楽から信念を得る洋子という理解者と、自分の音楽を模索し苦悶する蒔野という芸術家との良き関係を見事に表出した。それは蒔野を支える年若いマネージャー三谷早苗には理解出来ないものだった。
 パリの洋子の部屋での蒔野の演奏は楽しげで美しい。バクダッドから逃げてきて洋子に助けられたイラク人難民ジャリーラのために洋子が朗読するリルケの詩と、それに合わせて蒔野がギターを奏でる場面は心を打つ。この共感こそ救いなのだと感じさせる。ギタリストとして行き詰まりつつあるためか、蒔野聡史のギター演奏が楽しげである場面は多くない。この場面は後のCD発売時のクレジットに繋がり、愛が確認される遠いきっかけになる。
 更に洋子による蒔野の音楽の正当づけは、芸術家として苦闘する蒔野にとって必須だ。洋子が対峙し同時に内包する世界は、戦争と民族対立そしてテロの恐怖に満ちた現実である。そうした現実を抱える洋子に、あなたの音楽は人類的に愛されているのだと励まされることが、どれだけ蒔野の芸術家としての矜持を立てただろうか。この一夜があってこそ、後に蒔野は東日本大震災後の公演を成功させたはずだ。実はそうした芸術の意味(力)を確認することは、洋子にとっても《ヴェニスに死す》症候群(中高年になって突然現実社会への適応に嫌気が差して、本来の自分へと立ち返るべく、破滅的な行動にでる)からの解放という意味を持った。
「美しい一夜が終わろうとしていた。あとに一体、何があるというのだろう?……」読者への問いかけに、今になって読者である私は肯
(がえ)んじるのだ。
 しかし運命は好転しないことの方が多い。裏切りが二人を分断し、二人は別々の愛の形を求める。洋子の別の愛の破綻はやはり世界に対する価値観の相違が根本にある。金融資本主義支配下における人間性喪失の問題を洋子は看過出来ない。一方、蒔野が早苗を赦し煩悶しながらも寛容な態度を選ぶのは何故か? そこには平野啓一郎が『空白を満たしなさい』で表現した「分人主義」が蒔野の無意識の底辺に横たわっているに違いない。
 洋子の父ソリッチ監督の映画「幸福の硬貨」の思索的背景をリルケの詩「ドゥイノの悲歌」が飾っている。「誰の、誰の歓心を買おうとしてでしょう、決して満足することのない意志に、その身を絞らせるとは。」
 ソリッチが娘洋子に語る言葉は肉親に対する愛情だけではなく、過去を持つすべての読者に差し出されたものだ。「自由意志というのは、未来に対してなくてはならない希望だ。自分には何かが出来るはずだと、人間は信じる必要がある。」
 読者はマチネの終わりに再会する二人の運命をそれぞれに予測し、自身に問い返す。過去は変えられるか?

2016年9月15日 (木)

津島佑子『狩りの時代』

「美しい日本」に対峙する文学的営為

Photo 津島佑子の死後発見された最後の小説『狩りの時代』は、障害者や性的あるいは民族的マイノリティーに共感し続けた彼女らしい作品だ。
 読んでいて相模原の障害者殺人事件を想起させられた。犯人はBeautiful Japanなどと、為政者のよく言うキャッチフレーズ「美しい日本」に連動した合い言葉に自らを誘ってヘイトクライムを実行した。26歳の植松聖容疑者は、2016年7月26日未明に神奈川県相模原市にある障害者福祉施設に潜入し、刃物によって施設の利用者である障害者19人を殺害し26人に重軽傷を負わせた。植松は障害者は生きている資格がない、国家のお荷物であり、彼らに死を与えるという自らの社会的役割を果たすことによって自分が国家政府に認められると考えた。
 『狩りの時代』は、戦前日本がナチスドイツと同盟関係にあった時代から現代に渡って、ある大家族の記憶を行き来しながら、日本人の差別意識に切り込んだ小説だ。絵美子は幼い時に耳元で囁かれた「フテキカクシャ」という言葉に怯え続けた。絵美子には障害者の兄耕一郎がいて、その言葉が耕一郎の存在を脅かすものに感じられたからだ。絵美子の母カズミたちの世代の兄弟、創、達、ヒロミらは戦中の少年期に、来日したヒットラー・ユーゲントに遭遇した。そして実際とはやや異なる記憶の中で、少年たちは金髪に青い瞳の少年たちに見とれひれ伏し、戦意高揚のポスターのように醜い敵を殺せという悪を集約した記号に囚われた。
 肺がんから腎臓と肝臓へと転移していた病状の津島佑子渾身の遺作は「差別の話になったわ。」と語られた。差別の話は原子力とリンクしている。家族史は原子力発電所の爆発にまで至る。絵美子のおじである永一郎は、敗戦後の日本からアメリカに渡って核エネルギーの研究に携わったが、晩年に原発事故を受けて、〈わたしはいま、この狭い地球で原子力と人類は共存できないだろう、と思うようになっております。〉と発言するようになる。
 役に立たないものを容赦なく切り捨て、逆に役に立つものは奪い尽くして、ナチス・ドイツとかつての日本帝国は繁栄した。ファシズム同盟が反ファッショ統一戦線によって敗れると、ドイツは近隣諸国の理解を求めて変わる努力を重ね、日本は変えようとせず今も復活を企んでいる。原発は大日本帝国復活の象徴的存在だった。役に立たないものの対極にあると思われ、争奪の対象である原子力は実は人類も地球も滅ぼす悪の力だったと、作家は気付いていた。
 今度は負けないためにアメリカと同じ夢を見たくて仕方がないアベ政権は、沖縄では辺野古での新基地建設を急ぎ、また高江の森を切り裂いて住民の抗議を暴力で排除しながらヘリパッドを建設している。本土から派遣された機動隊の暴力は目に余る。沖縄では法の下の平等がないかのごとくである。差別は政治に利用される。

 描かれているのは、差別とはなにか、いや、人間とはなにかという問いだ。どうしたら差別を乗り越えられるかと言っているだけで差別をわかったつもりになっていた。目をそらしていた心のなかを突きつけられて、人間の複雑さを思い知らされた。この作品をいま、差別のなかで生きる人々に届けなくてはいけない。

 作者の娘津島香以の言葉を、力強いと言ったら本人は嫌がるかも知れない。

2016年9月 2日 (金)

キム・グァンソク김광석/アン・チファン안치환

とりとめもなく音楽について語る

 私は将棋も囲碁もさせないのに棋士の書いた本について書いたし、将棋が題材になった小説についても書いた。今回は音楽に関連して書こうかと思う。音楽の知識がないので、これまで音楽の事を書いたことはほぼない。音楽そのものについては好きか嫌いかしか言えないし、若い韓流ファンの支持する新しいミュージシャンについては本当に知らない。昔カラオケなどでチョー・ヨンピルを歌ったことぐらいの経験はあるが、だいたい聞くのが専門だ。韓流歌謡に関する知識と言っても若い方ではBoAくらいで止まっている。
 映画好きなので挿入歌には気持ちが傾く。「その年の冬は暖かかった」のオープニングで童謡「오빠 생각(兄さんを思う)」が流れたとき、それだけでも涙が流れそうになった。ペ・ドゥナ主演の「子猫をお願い」の主題歌はCherry Filterの「浪漫子猫」だった。「幼い花嫁(日本版タイトル「マイ・リトル・ブライド」)」で主演のムン・グニョンがカラオケで踊りながら熱唱していた。
 BoAは2004年「太極旗を翻して(日本版タイトル「ブラザーフッド」)」の主題歌「우리 We」を歌った。感動的なバラードだ。
 「JSA」の挿入歌「二等兵の手紙」の哀切は象徴的だった。南北の兵士が仲良く語り会う場面が話題になったが、北側の兵士が「キム・グァンソクて良いよな」と嘆息する場面があった。「JSA」は38度線の南北共同警備区域での殺人事件の深層が明らかになっていく過程で、当事者たちの複雑な心情が民族の置かれた立場と重なって切ない。「二等兵の手紙」はキム・グァンソクが歌った曲だ。

  家を出て列車に乗り、訓練所に行く日
  両親に挨拶して門の外に佇ったとき
  胸の中になんとなく未練が残るけれど
  草一本 友の顔 すべてが新しい
  いまもういちど始まる 若き日の生よ
                            (「二等兵の手紙」部分)

 キム・グァンソクは若者の苦悩を切々と美しく歌った歌手で、韓国でいう「民衆歌謡」の代表格だった。映画は2000年公開だったがキム・グァンソクは1996年に32歳の若い死を選んでいる。
Kimgaongsok_anthology 私もキム・グァンソクのCDを何枚か持っているが、2000年11月発行の「김광석 ANTHOLOGY」が好きだ。このCDには彼を慕う友人や後輩歌手たちが参加している。イ・ソラ、カン・サネ、ユン・ドヒョン、アン・チファン、キム・ゴンモなどそうそうたるメンバーだ。彼らが死んだキム・グァンソクの歌声に合わせてデュエットしたり合唱している。アルバムに付属した冊子には参加者の声も掲載された。

  夜明けにブルースハウスに行けば、
  あなたが煙草を吸いながらお酒を飲んでいる姿を 今も思い出します。
  会いたい……
        イ・ソラ
 
  兄貴 今も曇った秋の空に手紙を書いているんですか。兄貴、これからは澄んだ空にだけ手紙を書いて。いつも澄み切った高くて青い空のようだった兄貴の心に、僕たちみんなが出会えるように。
        ヨヘンスケッチ

 死後も愛され続けるキム・グァンソクは、没20周年の今年追悼イベントが各地で催されたようだ。
 70・80年代の民衆歌謡といえば、「朝露」やキムジハの「金冠のイエス」などで日本でも知られるキム・ミンギが有名だが、韓国ではキム・グァンソクやアン・チファンも愛される歌手だ。私がアン・チファンを知ったのは、2000年5月光州民衆抗争20周年集会でのことで、記憶に間違いが無ければ、台湾の飛魚雲豹音楽工団と、沖縄の喜納昌吉が共演した。飛魚雲豹音楽工団は少数民族のグループでこれも凄かった。
Anchifang6_5_3 さてアン・チファンはキム・グァンソクの繊細さと対照的に、骨太な力強い歌声だ。この年の新作が「An chi hwan Vol.6.5─Remember」だ。「Vol.6.5」というのは「Vol.6」と「Vol.7」の間ということで、完全オリジナルのアルバムではなく、故金南柱詩人の詩を歌ったものだからだろう。金南柱は南民戦事件で逮捕された光州の詩人で、ドラマティックで喜怒哀楽烈しく、欺瞞に対する痛烈な罵倒と、同志に対する厚い信頼を歌った。アン・チファンの激しいが優しい声は金南柱の詩に合っている。
 冒頭の一曲は「糞蠅と人間」だ。

  糞蝿は、糞がたくさん積もったところに行って
  ぶんぶんいって、群れて生きる
  そこが どこだろうが、汚水溜でも汚物の山でも
  かまわない かまわない
  見ろ
  人間は金がたくさん積まれたところに行って
  勢い盛んに 群がって生きる
  そこが何処だろうが、生き地獄だろうが、戦場だろうが
  かまわない かまわない
  糞がない綺麗で清潔なところ 泉のようなところ
  そこで群れて生きる糞蝿どもを見ることがあるか
  見ろ
  つきつめてみると おれたち人間なんて
  たいしたことはない そりゃたいしたこたぁない
  糞蝿どもと違いがない 違いがない
  糞蝿には もっと糞を
  人間には もっと金を
                                    (これは愚銀の試訳)

 凄まじいロックだ。金南柱の詩をアン・チファンは自分の歌にしている。それは彼の生き方に反映しているのだと思う。

  万人のための私が努力するとき
  わたしは 自由だ
  汗を流して精一杯働かないで どうして
  わたしが自由だといえるだろうか
  万人のためにわたしが闘うとき
  わたしは 自由だ
  血を流してともに闘わないで どうして
  わたしが自由であるといえるだろうか
      (「自由」より部分 金南柱詩集『農夫の夜』1987年 凱風社)

Photo 引用した金南柱詩集『農夫の夜』は、発行当時売れなかったに違いないが貴重な本だ。金南柱の詩65編に合わせ、民衆芸術運動を牽引した作家黄晳暎(ファン・ソギョン)や尹東柱(ユン・トンジュ)と親しかった文益煥(ムン・イカァン)牧師らの文が載り、南民戦事件の解説を歴史家の梶村秀樹が書いている。詩人の年譜も附いている。

Photo_4 さてさて、ここではキム・グァンソクとアン・チファン、二人の二枚のCDしか紹介しなかったし、今後音楽について書くことはないかも知れないが、韓流ブームに乗らなかったけれど素晴らしい音楽家は少なくない。例えば、リー・サンユンとか、トゥーボンチェタル(二番目の月)とか。SOL FLOWERも良い。紫雨林(チャウリム)は日本でも知られたが、ボーカルのキム・ユナのソロアルバム「Shadow of your smile」が20001年に発売されたのはそれほど知られていないだろう。甲午農民戦争の英雄全琫準を讃えた民謡「青い鳥」を切々と歌ってもの悲しい。これは冊子附きだ。
Photo_2 わたしは音楽も温泉卓球なみの素人だが、やはり良い音楽は心を打つ。文学とは切っても切れない仲ではないだろうか。

2016年8月26日 (金)

金重明『幻の大国手』再読

将棋の小説も面白く読める

 『世界最強の囲碁棋士、曺薫鉉の考え方』を読んで、囲碁ではないが将棋にかかわる金重明『幻の大国手』(新幹社)を再読した。1990年の出版である。金重明は『算学武芸帳』で1997年朝日新人文学賞を受賞して文壇デビュー、『皐(みぎわ)の民』(2000年講談社)、『抗蒙の丘』(歴史文学賞受賞、2006年新人物往来社)など東アジアを視野に入れた力のある歴史小説を書いた作家で、岩波新書『物語 朝鮮王朝の滅亡』(2013年)などの著書もある。──ついでに言えば、『13歳の娘に語るガロアの数学』で2014年度日本数学会出版賞を受賞している。翻訳も多い。
Photo 『幻の大国手』は金重明の原点的作品と言える。
 朝鮮と日本の将棋が重要なモチーフになっているので、将棋を知っているとより面白く読めるかも知れないが、私のようなまったくの無知でも、文学と近代史に興味があれば魅了されること間違いない。
 戦中「七段殺し」の異名をとりながら、ある日忽然と行方不明になった新進気鋭の将棋指し金相鎬の行方を、1980年台に生きる在日朝鮮人で日本将棋の学生チャンピオンである金民石が追跡していく。金相鎬は、強制連行されて日本に来たチャンギ(朝鮮将棋)指しであった。金相鎬は北海道の炭鉱から必死で脱出しアイヌに助けられる。最果ての森に追いやられたアイヌの生活が美しく描かれるのは、神に感謝しながら自然の恵みを受け取るアイヌの生活に、作者が強いシンパシーを持ったからに外ならない。反対にシャモ(日本人に対する蔑称)は、自然を「資源」と呼んで破壊し収奪する。作者の資本主義文明に対する嫌悪も読み取れる。
 朝鮮に帰りたい金相鎬はアイヌ部落での生活に終わりを告げ、本州に渡って日本将棋の真剣師とよばれる賭け将棋師として転戦した後、東京で将棋の名人に弟子入りして専任将棋指しになった。将棋界ですぐに頭角を現した金相鎬だったが、心の中では朝鮮へ帰ってチャンギの名人とチャンギを打つことだけを願っていた。金相鎬は将棋の修行の間にも、チャンギの新しい定跡の研究に余念無くその成果を書き綴っていた。
 現代(1980年台)の金民石は、金相鎬が遺したチャンギ研究の原稿を手に入れ、書き写して韓国へ行く。金民石は韓国でチャンギ指しの女子大生と親しくなり一緒に金相鎬を追うが、北朝鮮のスパイとして保安司令部に逮捕されてしまう。
 戦中の金相鎬はチャンギ一筋で他のことに関心を持たなかったが、日本の朝鮮支配という歴史に翻弄され、最後は同胞の裏切りにあい、大国手(チャンギの名人)白基徳と自宅で対戦中に、特高警察によって殺されてしまう。
 将棋とチャンギの天才金相鎬に魅かれて、チャンギの世界に入って行く金民石の姿には金相鎬が重なって見えてくる。金相鎬が日本の憲兵に捕まって受ける拷問と、金民石が韓国の保安司令部で受ける拷問の様子も時代を超えて二人を結び付ける。
 『幻の大国手』は日韓の近代史を将棋とチャンギを題材にダイナミックに描いた傑作だ。文体にまだ荒さがあり誤植も残っているが、作品の文学的価値を損ねるものではない。改訂版の再版を期待したい。
            (金重明『幻の大国手』1990年 新幹社発行 草風館発売 本体2000円)

2016年8月19日 (金)

曺薫鉉『世界最強の囲碁棋士、曺薫鉉の考え方──考えれば、必ず答えは見つかる』(アルク)

「考え」は時代も国境も遙かに超える
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 私は、卓球はまったく分からない。経験も殆どない。温泉卓球でも低レベルだ。オリンピックで観る卓球の解説もさっぱりだが、それでも面白いと思って観ている。囲碁番組はさすがに見たことがない。囲碁・将棋・麻雀及び賭け事に興味がないからだ。
 韓国語勉強のために賭博師を主人公にした韓国ドラマ「オールイン」は観た。イ・ビョンホン主演で、ソン・ヘギョ、パク・ソルミも出ていた。ソン・ヘギョの子ども時代を同い年のハン・ジミンが演じた。出演者だけ見ても面白いに決まっている。このドラマのモデルになった実在の人物は囲碁の世界でも活躍したことをこの本を読んで知った。私が棋士が書いた本を読むことになるとは思わなかった。『世界最強の囲碁棋士、曺薫鉉の考え方──考えれば、必ず答えは見つかる』は、温泉卓球レベル以下の囲碁知識の者にも読める。囲碁知識は有った方が良いかも知れないが無くっても差し支えない。では人材育成のハウツー本かと思いきやそうでもない。ハウツー本の持つ(あるいはそういうセミナーの持つ)単純明快な一貫した論理性にかけている。矛盾に満ちた本だ。
 曺薫鉉(チョ・フンヒョン)は貧しい家庭に生まれたが囲碁の才能に恵まれ満10歳の時に日本に留学して、80歳を越えた瀬越憲作の内弟子になる。瀬越は知る人ぞ知る日本囲碁の立役者だ。瀬越は生涯で呉清源、橋本宇太郎、曺薫鉉の三人しか弟子を取らなかった。呉清源という名は門外漢の私でも聞いたことがある。中国、日本、韓国から一人ずつ弟子を育てた瀬越憲作ににわかに興味が湧く。
 瀬越は言う「答えはないが、答えを探そうと努力するのが囲碁だ」
 瀬越は囲碁の打ち方を一切教えず放任した。自分でもがき苦しむ環境を与えただけだった。曺薫鉉は〈本当の幸せはしっかりとした自我から来るのだ〉と言う。しっかりした自我を植え付けることが瀬越の教育なのだった。
 曺薫鉉はもう一人藤沢秀行の研究会にも参加した。この二人が曺薫鉉の師である。藤沢秀行が破天荒な棋士であるということは聞いたことがある。曺薫鉉という棋士は、囲碁を芸術として道を究めた瀬越と、人情家の酔っ払いである藤沢の影響を同時に受けた。その人生は最初から矛盾の中にあったと言えよう。
 2014年に「未生(ミセン)」というドラマが韓国でヒットした。人生を囲碁にかけていた若い棋士がサラリーマンになり囲碁になぞられて人生が語られる。このドラマが大ヒットしたこともあって、囲碁は一寸したブームになったらしく、この本もベストセラーになった。「未生」は日本でもこの1月からBSで放映されたらしいが、私は観ていない。日本版リメイクのドラマ「HOPE─期待ゼロの新入社員』も放映されている。
 曺薫鉉の哲学は副題にもあるように考え抜くことだ。考えに考えて疑問を持ち質問し、共同して検討する。その考えの根本に人格を置く。なんだかビジネスシーンにおけるPDCA(Plan Do Check Action)みたいだと鼻白むことなかれ。中田英寿も「何をやったかといえば、考えること。考えて考えて準備した」と言っていた。でもこの本は人生の勝ち方指南の書ではない。確かに〈高い年棒をもらうのは、それに見合う能力を認められたということ…自慢すべきことだ。〉とも書いているが、「勝利を貪れば得ることはできない」とも言う。矛盾に満ちているが、人生を知っている者の言葉だ。
 曺薫鉉はドラマ「オールイン」のモデルとなった車敏洙(チャ・ミンス)とも親しい。「オールイン」は車敏洙をモデルとしてその半生を描いたのだが、実話の方が余りにもドラマチック過ぎて嘘っぽいので、ドラマではリアルに見られるように脚色したという話題のドラマだった。
 車敏洙は囲碁の実力も大したものなのだ。アメリカでも成功した車は、1980年台まだ韓国と中国に国交がない時に、中国棋院との関係をつくり中国囲碁の発展に力を尽くした。世界の囲碁が発展するためには中国の囲碁の成長が必要だと思ったからだ。家元とか民族といった狭い枠の中に止まっていてはならない。
 曺薫鉉は幼いときから囲碁という狭い世界に囚われ、運転免許もクレジットカードも持たず、スマホどころか携帯電話も使わない。それなのに彼の「考え」は一人の勝敗より世界への囲碁の広がりへ発展していった。囲碁は時代も国境も遙かに超えていた。人生なんて短いがけっこう奥が深いのだ。
 この本には結論はない。小説ではないのでまとまりもない。途中に著者の「無心」と書いた書が挿入されている。無心なんて書く人間は無心になれないから書くのだろう。曺薫鉉は今年国会議員になった。翻訳した戸田郁子さんに尋ねたら「悪手と知りつつ打ったのでは…」と返ってきた。曺薫鉉はオンラインゲームに参戦したこともある。囲碁人口を広げるための悪手だった。なりふり構っていないなと思う。藤沢秀行なら笑うだろうが、瀬越憲作には叱り飛ばされるのでなかろうか?
 そうそう囲碁・将棋に興味がないと冒頭に書いたが、一作だけ韓国将棋指しのことを書いた傑作小説を読んだことがある。金重明『幻の大国手』だ。この作品については別途書くことにする。

2016年8月15日 (月)

リヒター『あのころはフリードリヒがいた』

 『あのころはフリードリヒがいた』という小説はドイツ人作家ハンス・ペーター・リヒター(Hans Peter Richter 1925-1993)によって1961年に発表され、1977年に上田真而子訳で日本語版が出版された。現在は2000年6月に新版が発行されている。
 ここに掲載する書評は、1993年にシアレヒムの会発行の『粒(RYU)』第7号に発表したものの再掲載だ。アベ極右政権による中国・朝鮮を敵視する排外主義扇動が排外的憎悪を導き、凄惨なヘイトクライムを引き起こしている現在に抵抗する文学だと確信するからだ。読み返してみると決して出来の良い書評ではないが最低限の紹介にはなっていると思うのでそのままアップすることにした。

歴史に対する自己批判

 しまったと思った。この本の書評はたいへん難しい。この本は、中学生向けの文学書Photo_2であり、決して小難しい社会学の本などではない。むしろ平易に書かれている。しかし、ここに描かれた人間の営みのどうしようもない愚かさをいったい人に伝えることができるだろうか。
 これから読む人のために、ストーリーを紹介するのは憚かれるのだが、主人公の少年「ぼく」やその友だちフリードリヒは、作者ハンス・ペーター・リヒターと同じ一九二五年に生まれている。そして、その年から一九四二年までを、少年の目でユダヤ人の友とその家族を追って展開していく。ヒトラーがドイツ帝国首相になりユダヤ人排斥運動が開始されるのは一九三三年である。つまり、「ぼく」はそういう時代に遭遇し自らも飲み込まれながら、フリードリヒを見詰めているのである。
 「ぼく」の両親とフリードリヒの両親は子供を介して親しく付き合っている。こんな場面がある。二人の小学校入学の日、二家族はお祭り広場で遊び、最後に六人で伸び縮みのする木馬に乗って記念写真を撮って大笑いをする。貧しくても幸せな日々だ。「ぼく」の父さんは初めのうち失業していて貧しいが、ナチスの党員になることによって職を得る。フリードリヒの父シュナイダーさんは郵便局を首になり、徐々に排斥を受けていく。
 「ぼく」は少年たちの憧れであるドイツ少年団に入る。フリードリヒも入りたがるが、フリードリヒはドイツの敵ユダヤ人である。「ぼく」が知らず知らずのうちにユダヤ人迫害に参加して行く過程は恐ろしい。破壊者たちがユダヤ人の寮を襲撃に行くのについて行き、参加してしまう。破壊者たちがドアを壊す場面がこうだ。

   そのときだった。その「よいしょ。」につられて、ぼくの口から声がでた。そして、一声一声、ぼくはドアに体をぶつけている人たちの方に近寄っていったのだ。気がついたときには、ぼくは力いっぱいドアを押していた。どうやってドアのところまできたのか、自分自身、もうわからなかった。そのときには、見物している人はもう一人もいなかった。

 恐ろしい力に曳かれて破壊者になっていく。現在のヨーロッパのファシズム台頭もこのようにして過激化していくだろう。日本の外国人差別もまた、同じ道を辿るに違いない。
 終わり近く、一九四二年ドイツは連合軍の空襲を受けているころだ。十七歳になっているはずのフリードリヒが「ぼく」の家を訪ねて来る。「ぼく、父と母の写真がほしいんです。(略)小学校の入学式の日、長い馬に乗って写したの、──あれお宅にあるでしょう。ぼく、覚えてるもの。(略)」
 フリードリヒと彼の両親がどうなったのか、歴史の示す通りである。
 訳者の上田真而子は、こう書いている。

 自分たちの歴史の、辛い一時期のあのできごとから眼をそらせて、簡単Photo_3に忘れ去ろうとするのではなく、もう一度、問題としてはっきり受けとめようとするドイツ人の態度、外国人であるわたくしにまですすめてくれた若い女店員の態度──その他、大勢のドイツ人がこの本を推薦してくれました──に、わたくしは深い感銘を受けました。

 違う文化、違う宗教を持った者を受け入れる態度と、過去の歴史を常に批判的に学ぶ強い姿勢、日本人が学ぶべきものがここにたくさんある。

(『あのころはフリードリヒがいた』ハンス・ペーター・リヒター 作 岩波少年文庫)

2016年8月 3日 (水)

葬式の話

 佐伯一麦の『還れぬ家』を読み終えて思い返すと、ここのところ葬儀の場面が描かれた小説を続けて読んでいるような気がした。振り返ってみると、山崎ナオコーラ『美しい距離』、滝口悠生『死んでいない者』などが思いついた。
 私自身もこの年までには覚えていられぬほどの数葬式を経験してきた。なかでも東日本大震災の前年冬の伯母の葬式は印象的だった。その葬式は寒い風の日の非常に簡素なものだった。89歳で逝った伯母の遺影を白い花で飾っただけの祭壇に焼香台が置かれていて、無宗教なのに焼香はするのかと訝った。その頃すでに足腰の弱っていた母は家に置いて従兄の車で荒川縁に近い葬祭場に行った。故人の娘である従姉の夫が異常にうなだれていて、隣に座った従姉の娘に「お父さん大丈夫」と訊くと、「アル中でダメなのよ」とあっさり応えられてしまった。その時は次は母の番だと漠然と思ったのだったが、90になる今年もなんとか自分の足で歩いている。
 父の葬式は1996年だから20年以上前になる。あれは大変だった記憶だけで詳しいことは覚えていない。埼玉の葬式は略式が多い。死者が出ると葬儀屋が手配して葬儀場で通夜から葬式まで行い、火葬場まで案内されるのが普通だろう。初七日も葬式の日にやってしまうし、香典返しも葬儀の帰りに一様に渡してしまうのが普通だ。ところが東京生まれの母は四十九日過ぎてからの半返しに拘った。一人ひとりに違う品を渡さなければならなかったので、喪主で会社員の私は香典をくれた数十人の同僚への香典返しが面倒だった。葬式も斎場を借りず自宅でやった。母は張り切ったが私はうんざりした。母の葬式は絶対簡略に質素にしてやると思ったものだ。葬式は故人の意向を反映しない。そもそも真言宗の我が家の葬式が日蓮宗の僧侶で行われたのを、農家出の父はどう思っただろう。死者はともかく父方の叔父や従兄弟たちは鼻白んだのでなかったか、と今になって思う。母に信仰があった訳ではない。僧侶と母は、もともと呉服屋と客の関係だった。在家仏教で僧侶になった呉服屋さんは廃業した後は仏教で身を立てている。今も法事の連絡は僧侶のほうからかかってくる。
 40年程昔に参列した父方の伯父の葬式も印象に残っている。父の実家は鴻巣あたりの農家だったので、同じ埼玉と言っても会社員家庭育ちの私からすると随分な田舎の因習のように感じられた。なにしろ遺体を担いだ列に並んで墓地まで歩いたのは最初で最後だ。土葬だったのだ。土葬は禁止されていなかったのだろうか。寝棺は寺の墓地に埋められた。映画で観るように皆で少しずつ土を被せた。古い墓穴の跡は棺桶の形に凹んでいる。墓穴の上に白木で組んだ骨組みだけの屋根が置かれたような気がするが記憶が定かでない。あったとすればタマヤ(魂屋)だったのかも知れない。
 埼玉の葬式と言えば、終始葬式の周囲の出来事を描いた滝口悠生『死んでいない者』が連想されるが、あちらは入間など埼玉県西部が舞台。浦和・大宮・上尾と高崎線で北上する地域との文化的交流は少ない。とは言え、地域性の感じられなさは同じ埼玉らしさか。葬儀会場が寺でも専用葬儀場でもなく地区の集会場である点に中途半端な田舎っぽさが感じられ、現さいたま市を中心とする県中南部とは違う気がする。この小説の葬儀は徹頭徹尾儀礼的で、地方の風俗らしきものや、地域特性といったものが感じられない。もっとも地方の人間が読んだら特異な地域性が表れているのかも知れない。埼玉に住む鹿児島出身の友人が葬儀後の精進落としに寿司が出てきたのに初めはショックだったと書いている。
 佐伯一麦『還れぬ家』で描かれた葬式にも寿司は出てくる。主人公の母親は急な仮通夜にもかかわらず無理して寿司を振る舞おうとする。悪気がある訳ではないけれど、人目を気にして頑固な自分のペースに周りを巻き込むところなど私の母とよく似ている。母親は息子に相談なく近在の黄檗宗の寺の檀家になっていた。この小説を読んでいても、母に信仰それも禅を学ぶ知的な信仰があるとは思えない。墓所を確保するという形式の安定を求めてのことだ。仏教儀礼としての法事に頓着するのではなく自分の見聞きした慣習には頑なに拘泥する。
 『還れぬ家』は認知症に罹った父をめぐる夫婦の日々を、3・11を挟んで描いた典型的な私小説で特別なドラマはないが、妙に同調するのは母・息子の関係に親和感があるのだろうと思う。それに主人公幼児期の原体験が、被害者であるにもかかわらず母親の叱責の対象だったり、家族の相互不和の原因が意外と小事であったりするところが、日本人私のリアリズム感覚と合うのかも知れない。韓国文学であれば背景に歴史的大事が設定される場合が多いし、幼い息子が辱められたと知った母親ならば大仰に相手をとっちめるだろう。そうした境遇とは著しく異なる。
 芥川賞を今回も取り損なった山崎ナオコーラの『美しい距離』は、死期の迫った妻との関係のあり方を距離という言葉で表した。生命保険会社に勤める夫は、サンドウィッチ屋の経営に生きがいを感じていた妻の葬儀から社会慣習を払いのける。自分の会社関係の立派な花輪を排除して、妻のサンドウィッチ屋を愛する人たちの小さめの花輪だけを飾る。死んだ妻の生を尊重しようとする夫の態度が、一般的な社会慣習や会社社会の常識と背理していて危なげだけれど好感が持てる。山崎ナオコーラは死者を弔う葬式を描いた。
 葬式のない死も文学は弔った。木村友祐『イサの氾濫』所収の「イサのその後、そしてあとがき」には、身寄りのない人のための施設で死んだイサじちゃんの葬儀のない火葬について書かれている。売店で買った骨壺に「白く乾いた骨」を入れて抱く様子は、金泰生の『骨片』を彷彿させる。生き別れた父の骨片を警察病院の一隅に探し当てた葬式のない死の描写だ。忘却という二度目の死は文学によって免れたのだ。
 因みに映画では伊丹十三監督「お葬式」(1984年)や、林權澤監督「祝祭」(1996年)などがあり、前者は現代日本の一般的葬式を、後者は韓国の伝統的葬式に際した人間模様を描いて面白い。

2016年7月13日 (水)

木村友祐「野良ビトたちの燃え上がる肖像」

反撃は周縁から始まる
Photo 参議院選挙の結果はアベ政権の与党自民・公明の勝利に終わり、改憲勢力によるソフト国家主義への道がまた一歩進んだ。政権に媚びへつらったマスコミの控えめな選挙報道や争点隠しのせいで、今回も低かった投票率では実際の政権支持を表していないとは言え、政治的プロセスは画期を迎えた。しかしながら原発事故汚染後、復興の遠い福島をはじめとした東北各県や、基地問題に揺れる沖縄などでは民主勢力の巻き返しも目立った。
 小説『イサの氾濫』(未來社)で東北のまづろわぬ民の怒りを表した木村友祐の新作は、前作を凌ぐ迫力で統制されようとする社会に生きる野良ビトたちを表出して見せた。トリクルダウンのオコボレにしがみつく我々に生きる意味を突きつけてくる。
 河川敷の住人の一人柳さんはアルミ缶を集めて、生活費とキャットフード代に充てている。河川敷には野良ビトだけではなく、野良猫も共生しているのだ。柳さんは近頃嫌な雰囲気を感じている。アルミ缶の買い取り価格が落ちこんでいる為だけではなさそうだ。流入者がやたら増えてきた一方で、河川敷に住む猫がクロスボウの矢で射殺されたり、空缶やダンボールを提供してくれていた商店がおおっぴらには協力してくれなくなりつつあった。
 ゲーテッドタウンと称される超高級住宅地は高い柵に囲まれ出入りはガードマンによって規制されている。柳さんたちホームレスはもちろん住民以外は招かれなければ侵入することのできない柵のなかには「火葬場と墓地以外はすべてある」と言われている。庶民とは隔離された社会が現れ、周囲に隣接する一般人の街もまた重層的差別社会へと変貌しつつある。まさに1%の富裕層をより豊かにするための法整備が進み、彼らの使った金が下層市民の所得になっていく。庶民は階層ごとに分断され相互に監視支配を強化し排撃する。そんな戦時中のような社会の復興がアベノミクスの指標だろうと、木村友祐は気付いているに違いない。
 「野良ビト」とは多摩川ならぬ弧間川河川敷に住んでいるホームレス全体をさし、彼らは近頃「野良ビト(ホームレス)に缶を与えないでください。」などという看板に行く手を阻まれている。東京オリンピックならぬ東京世界スポーツ祭典の開催を二年後にひかえ、街の再開発と美化運動やテロリストを警戒した警備体制の強化、自警団の跋扈によってホームレスは行き場を失いつつある。自警団は刺股をもってホームレスを追い回している。やがて河川敷の野良ビト共和国は柵で覆われ火を付けられる。白色テロは現実にも目の前に迫っているのだ。
 不景気煽動罪で報道が規制されるなか、最下層の人民は河川敷に貧しく暮らすことさえ赦されない。その行き先は放射能汚染廃棄物の処理労働要員かそれに類する使い捨て労働現場だ。それにしても深刻な社会問題のただ中に、一人ひとりがそれぞれの違った個人史を抱きながらも野良ビトたちはユーモラスと思えるほどに逞しく生きている。彼らを不良債権と断じるのか、貴重な社会の人材と尊重するのか人間性が問われるところだ。
 ホームレスや非正規労働者を主人公においた小説は最近少なくない。なかでも柳美里『JR上野駅公園口』は、主人公の出身地が東北ということで『野良ビトたち~』と共通点がある。柳美里は東北の人民が差別された歴史の襞を上野に見つけて書いた。木村友祐が選んだ河川敷は言わば周縁地域だ。いよいよ追い立てられ逃げに逃げた先だ。これ以上先はない。反撃は常に周縁から始まるのだ。

2016年7月 1日 (金)

キム・ヨンス『ワンダーボーイ』CUON

苦しみさえ伝えられない
Photo
 『ワンダーボーイ』と聞いて、韓国の女性ボーカルグループ「ワンダーガールズ」や、はたまたカン・ドンウォンとコ・スが闘った映画「超能力者」を思い浮かべた人はいなかっただろうか?
 まったく違った。この小説の主人公は人の悲しみ苦しみを理解してしまう。人の心に同調し、人の思いを読んでしまう。そして自分の悲しみを他人に反映させ涙をうつす。父を失う交通事故に遭遇してから、少年は彼を取り巻く環境と正反対の能力を得てしまったのである。その時代は拷問で反政府活動家たちを葬り去る社会だ。少年キム・ジョンフンは人の心を読む能力のために、取調室で拷問を受けている男の心を読まされた。
 韓国の女性作家千雲寧も小説『生姜(センガン)』で拷問社会を描いた。しかしそこに描かれたのは韓国民主化後1988年から1999年まで、ファッショ政権の残滓たる拷問技術者とその娘の11年間だ。キム・ヨンス『ワンダーボーイ』が描いた時間は1980年から1987年まで、拷問の時代まっただ中だ。光州民衆抗争を鎮圧し権力を握った全斗煥から盧泰愚と続く軍事ファッショ政権によって自由な意思表示が禁止された時代、反政府的言動をすれば北朝鮮のスパイと断じられ、拷問によって口を割らされる(捏造される)時代だ。そして1987年の6月民衆抗争によって韓国社会が民主主義を勝ち取る端緒についた年までの7年間、孤児となった少年の成長の記録は韓国社会の希望への変遷史でもある。因みに翻訳者は著者のあとがきを〈時代背景にとらわれずに読んでいただきたい〉と解釈したようだが、時代を変えたら別の作品になっていただろう。
 1980年台を振り返って見ると、国は違ってもぼくもそれなりに走り抜けていた。李恢成や張赫宙について書き、山代巴や在日朝鮮人文学の読書会に参加し、朝鮮語の学習グループにもいた。1982年、83年、85年に韓国を旅し、作家李東哲や映画監督李長鎬に会った。10年に渡る文学同人雑誌を始め、地元の住民運動にも参加した。あの頃の若いぼくにワンダーボーイ=キム・ジョンフンのような共感と同調の能力があったなら、その後の10年に別の形の個人史が築けたかも知れない。
 閑話休題
 小説は主人公への問いなのか読者への謎なのか不明のまま質問していく。誠実な読者は立ち止まり頭を悩ませながら読み進めなければならない。ひ弱な主人公の超然に読者は身をひきながらも共感するのだろう。
〈あの子は人の苦しみをすべて理解して、それをそのまま人に伝えられる能力がある〉
 ジョンフンは男装の麗人カントたちの助けを借りて、父や生まれてすぐ死んだと聞かされていた母の実像を知っていく。背景に朝鮮の分断という民族的課題も見え隠れする。カントであるヒソンも時代の犠牲者であり、大きな傷みを抱えて生きている。ジョンフンの人の心を読む超能力は失われていたが、ジョンフンが獲得していった真理は小さくはない。ジョンフンは、自分の時間と他人の時間の流れがそれぞれ違うことを知っていたし、わかり合えないとしても、独りでは決して自由になれない、ということももう理解していた。
 人間はどんな大きな苦しみを持っていても、それをそのまま人に伝えることはできない。苦しみさへ伝わらないのだ。言葉など伝わるわけもない。心に思った表層の言葉を「超能力」で読めたとしてもその奥深く沈んだ真実の言葉の理解にはほど遠い。われわれは伝わらない言葉を必死になって伝えようと努力する。発した本人さえ充分に分かっていない言葉を表現しようとする、その努力が文学なのかも知れない。まあそう考えれば一寸ヘボい日本語訳も一興に思えなくも無いかな。
 김연수キム・ヨンスは韓国では人気作家だ。こうした質の高い文学作品が大衆的に評価されるところに韓国社会の知的センスの高さが窺える。本作が単著翻訳としては2冊目、もう一冊『世界の果て、彼女』(CUON)がある。なお愚銀のブログでは『波が海の業ならば』についても紹介している。これも翻訳出版が待たれる。

2016年6月 6日 (月)

千雲寧『生姜(センガン)』

歴史の傷痕は人間の心に刻み込まれる
千雲寧(チョンウニョン)『生姜(センガン)』 橋下智保訳 新幹社

Photo 韓国ソウル市の再開発事業に伴い、西大門刑務所の向かいに存在する옥바라지골목(okbaraji kolmok)=「差し入れ横町」の解体が進んでいる。
 韓国ソウルの西大門刑務所博物館は、朝鮮独立運動弾圧の象徴としてかつての刑務所をそのまま博物館として遺した場所で、韓国の青少年や日本人旅行者に対する歴史教育の役割を果たしている。しかし西大門刑務所に収監されたのは独立運動家だけではなかった。李承晩─朴正煕─全斗煥と続く反共軍事独裁政権に抵抗する民主化運動に参加した多くもここで苦汁を嘗めさせられた。その多くが拷問によってでっちあげられた「罪状」によってだ。
 「差し入れ横町」は収監された人々を支援する名も知れぬ市井の人民のための旅館などが集まった場所だ。中野重治が詩「その人たち」で表したような運動家を支える庶民の横町だ。独立運動や民主主義のために闘った人々を支える抵抗の痕跡を消し去ろうとするなら、それは蛮行と呼ぶべきだ。(韓国の新聞ハンギョレ掲載の藤井たけし氏のコラムを参照されたい。http://www.hani.co.kr/arti/opinion/editorial/732467.html
 ファシズムを含む全体主義政権下では、多くの抵抗者たちが拷問によって自白を強要された。戦前のプロレタリア作家小林多喜二の拷問死は、アベ政権下の日本では心ある作家の将来を憂えさせる。韓国のファッショ政権による拷問の様子は、自らの経験をルポした徐勝『獄中19年』(岩波新書)には淡々と書かれた。小説では趙廷來『太白山脈』や金石範『過去からの行進』などにも描かれたし、映画「ペパーミントキャンディ」や「大統領の理髪師」などにも拷問シーンが登場する。
 これらの中で拷問者を葛藤する一人の人間として表出したのは、光州事件を背景とした「ペパーミントキャンディ」ぐらいだ。ましてその家族の煩悶を描いた作品など寡聞にして知らない。(『生姜』に触発されて作ったというチョン・ジヨン監督「南営洞1985」は当然拷問による人間破壊が主題となっている。)
 千雲寧の『生姜(センガン)』は、ファッショ政権下で拷問を手段に民主活動家や、何の関係もない市民を「北」のスパイにでっちあげてきた男と、彼を尊敬していた高校を卒業したばかりの娘の物語だ。
 全斗煥政権に反対した者を徹底的に弾圧してきた男「安」も政権の終焉とともに凋落し逃亡しなければならなくなる。男は行き場を失い自宅の屋根裏部屋に隠れる。男の上司も部下も彼を庇う余裕を持っていない。
 娘「ソニ」は意気揚々と大学に通いはじめるが、そこでできた人間関係によって父親に保護されてきたこれまでの生活を見直さざるを得なくなる。やがて自分の父親が社会の嫌われ者で、多くの市民を虐待した犯罪者として追われていると知る。拷問技術者として悪名を轟かせた男と、まだ純情だった娘の従属と反駁の11年が、屋根裏部屋の床板である娘の部屋の天井板一枚を挟んで過ぎて行く。
 大学を中退し人気のポップソングが流れるヘアサロンで働いていたソニは、母が経営していた昔ながらの美容室で客を待つようになる。古い独裁政治の時代と新しい民主主義の時代は板一枚を隔ててせめぎ合っている。ソニは古い時代に従属しながら、そこから逃れようと足掻いているのだ。
 自己保身を正義と信じる安の姿は、ハン・ガンの小説『菜食主義者』の父親を彷彿させる。彼はベトナムでの勇ましい虐殺を誇って家父長としての自己を保っている。あるいは日本人にとっては靖国神社だ。軍国主義の亡霊を祀って心安んじるのは、その時代に死んでいった人々ではなく、軍国主義に従属し続ける人々だ。『生姜』のエピローグ、母親のアカを呪う言葉は、分裂する韓国の保守派のボヤキであり、現代日本においては反動政権に従属して軍国主義復活のオコボレを狙う「保守派市民」の声に聞こえる。
 韓国の民主主義は韓国の人民が幾多の犠牲を払って闘いとったものだが、それでも民主主義を守りぬく継続した抵抗が維持されなければ、差し入れ横町はただ取り壊され、歴史は無かったものとして葬りさらえてしまうだろう。しかし開発行政が反植民地、反独裁の痕跡を塗り潰したとしても、文学には深い傷痕として永遠に残される。

2016年6月 2日 (木)

韓国文学

韓国文学の頁を紹介します。(クリックして下さい)

パク・ミンギュ『亡き王女のためのパヴァーヌ』 

キム・ヨンス『ワンダーボーイ』


キム・ヨンス『波が海の業ならば』


千雲寧『生姜(センガン)』 

鄭智我『歳月』

金承鈺『ソウル1964年冬』

ハン・ガン『菜食主義者』

ハン・ガン『少年が来る』

チョウ・チャンイン「クミョンに灯る愛」

孔枝泳『るつぼ(トガニ)』 

孔枝泳『楽しい私の家』

申京淑『母をお願い』

イ・ジョンミョン『星を掠める風』 

イ・ジョンミョン『根の深い木(景福宮の秘密コード)』

ク・ヒョソ『長崎パパ』

尹在賢『ある独立運動家の祖国』

李炳注『関釜連絡船』


チョン・セラン『アンダー・サンダー・テンダー』

キム・リョリョン『優しい嘘』

キム・リョリョン『ワンドゥギ』

チョン・イヒョン『マイスイートソウル』

鄭棟柱『神の杖』

2016年5月28日 (土)

津島佑子『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』

「大切なものを収める家」としての文学
    ──津島佑子『ジャッカ・ドフニ』集英社

Photo 津島佑子の遺作『ジャッカ・ドフニ』は、和人に犯されて出産したアイヌ女性の子どもの物語であり、日本の前近代史が日本人を形成していく過程で起きたアイヌ迫害という過ちが背景に描かれている。しかしこの小説は日本の近代史がそうしたように、限られた範囲にアイヌの生死を閉じ込めたものではない。これは一人のアイヌ女性の生涯を東アジアの歴史に追った壮大な虚構だ。物語は17世紀初頭を時間的トポスとし、マツマエからツガル~ナガサキを経てマカウ、バタビアへと場を移していく。つまり読者は主人公の少女とともに、北海道から九州を経て中国から更にインドネシアまで広がる旅を経験する。登場人物の中にはイスパニアまでも辿り着く者もあり、閉ざされたイメージのアイヌの可能性を大胆に押し広げて見せた。
 この小説はしかし小説の構造も展開もそう単純ではない。小説は二重構造になっていて、全体としては近世として設定されているが、もう一つの時間である現代は二人称の「あなた」の物語として過去の記憶へ向かって進む。しかしこちらは骨のような神経のような役割を持っていて作者の個人史を思わせながら、その魂の揺らぎはもちろん読者に対する問いかけになっている。津島の作品の特徴とも言えるシングルマザーが「あなた」として語られるが、あなたは息子を失った傷みを抱えながら原発事故から逃れるようにシレトコを旅する。あなたは放射能から逃れるかのようにアイヌモシリを旅し、アイヌやウィルタなどの少数民族への共感を確認している。
 一方、16世紀末アイヌと和人のあいのことして生まれた幼いチカップは軽業師の親方に売られるなどの苦難を経てキリシタンのパードレ(神父)に救われ、隠れキリシタンの一行と同行する。チカップはチカと呼ばれ、兄と慕うジュリアンの想像力によってアイヌとしての自覚を呼び起こしていく。そして美しいアイヌの歌を口ずさむまでになる。
 ジュリアンはマカウでの勉強でパードレになるという目的を持っている。キリシタン一行は激しい迫害から逃れて海を渡る。キリシタンは日本人であっても被迫害マイノリティである。キリシタンに対する普通のニホンジンの憎しみをジュリアンたちは理解できない。理解しないという抵抗が描かれる。一方的に襲いかかってくる暴力の醜さは、屈辱であり人間が崩れ落ちる怖さなのだ。
 一行には子どもの頃チョウセンから連れてこられたペテロがいて、マカウでのチカの助けになる。秀吉の朝鮮出兵の残像がペテロに照射されている。その他にもマカウやバタビアでは混血の人々が多数登場するのが印象的だ。津島佑子の他の小説例えば『ヤマネコドーム』と同じように、単一人種幻想を打ち捨てたハイブリッド感覚が表出される。
 津島文学は男尊女卑的家制度に対する抵抗、単一民族幻想に対する批判を根幹にしている。成長したチカの自由な生き方にはその両方が表れている。届くかどうか分からないジュリアンへの3通の手紙は文学の根源的な形を見せ、途中に挟まれる代筆者の言葉こそ文学評論の譬えなのだろう。この作品自体がジャッカ・ドフニ=大切なものを収める家としての役割を果たしている。これを叙事詩と呼んで差し支えないと信じる。

 筆者はアイヌの文化や文学に関して無知だが、16年前の5月、韓国の都市光州から近い智異山の宿舎の一室で上西晴治の『十勝平野』(筑摩書房)を薦められたことがある。薦めてくれたのは哲学者・住民運動家で北海道大学教員経験のあるH氏だ。『十勝平野』は騙され続け奪われ続けたアイヌ民族の来歴を徳川時代から戦後までに渡って描いた壮大な歴史ドラマであり、アイヌ現代文学の金字塔と言える。また、岡和田晃編『向井豊昭傑作集 飛ぶくしゃみ』(未來社)には「うた詠み」「耳のない独唱」などアイヌをモチーフとした小説が収録されている。参照されたい。

2016年5月11日 (水)

崔実「ジニのパズル」

繊細で壮絶な抵抗
  ──崔実「ジニのパズル」(『群像』6月)第59回群像新人文学賞受賞作

 崔実(チェ・シル)「ジニのパズル」は「当たり前のこと」にされていることに異議を唱える小説だ。主人公のジニはどこにあっても異分子だ。
 ジニはオレゴン州の高校に留学しているが退学しかかっている。学校生活になじめないジニはマギーとだけは親しく話す。マギーはジニのただ一人の友だち。マギーとの会話は筆談だ。おそらくマギーは聾唖者なのだろう。ここに作者の言語との格闘の真摯が窺われる。読み書き話すことは自明ではない、という当たり前の前提を作家は提出している。
 しかしこの小説は岩城ケイ『さよならオレンジ』のような、外国に行った日本人が言語を獲得する過程で人生を再確認するといったドラマではない。なぜならジニは在日朝鮮人なのだ。ジニは東京、ハワイ、オレゴンと漂流するが、日本語を母語とする〈日本生まれの韓国人〉として実存する。母方の祖父は北朝鮮に「帰国」している。小学校までは〈日本学校〉に通っていたが、ある決意をして中学から朝鮮学校に通う。1998年のことだ。長野オリンピックが開催され、サッカーワールドカップフランス大会に日本代表が初参戦した年。新しい歴史教科書を作る会が日本の戦争犯罪を隠蔽した戦前回帰の教科書を作ろうとして、所謂自由主義史観という日本主義的言説がもてはやされていた。北朝鮮のミサイル発射訓練をネタに在日朝鮮人にたいするヘイトや暴言が広まっていた。戦後民主勢力の一翼を担った社会党はとうに壊滅し後継の社会民主党も分裂、民主党が結成された。日本社会の右傾化は目に見えていた。
 街頭では右翼の宣伝カーが「朝鮮人は、出ていけー。朝鮮人は国へ帰れー」とがなり立てている。そんな時代にジニは育ちチマ・チョゴリと呼ばれる民族衣装で通学する朝鮮学校に入学したのだ。「在日韓国人」と言っても朝鮮語は殆ど分からない。まるで異文化の教室にジニは神経を尖らせて、猫が毛を逆立てるように入って行く。朝鮮学校の生徒たちのなかには敵意を剥き出しにする者もいるが親切に接してくれる友もいて、先生もまたジニが学校に溶け込めるように配慮している。クラスの授業をとうぶんのあいだ日本語で進めてもくれる。
 しかし北朝鮮バッシングと在日ヘイトのうねりの中で、ジニは自己の存在に嫌悪を抱き始める。黄英治『前夜』では在日でありながらヘイト団体に加わる共田浩規の重い役回りを、崔実はまだ幼い少女に負わせた。社会の現実はジニが思うより過酷だ。成長とともに少しずつ見えてくる恐怖に立ち向かうにはジニは幼すぎた。壊された魂は朝鮮学校の友人たちや職員に向かわざるを得ない。ジニの生は優しい親切な友の心を傷つけることでしか確認できなかった。こんな残酷な小説が書かれるのは、この日本が腐敗しているからに外ならない。ジニの魂の恢復がアメリカでなされようとする展開に納得しつつ悄然とする。納得の部分は、小説では描かれない背景にもう一つの言語(英語)との闘いが潜んでいる筈だからだ。
 日本人であることが自明であると、何も疑うことのない足枷を我々は塡められている。日本人であるから日本語が喋れると思い込んでいる。しかしインターネット上には理解しがたい「日本語」が溢れている。日本人であることにしがみついて他者ヘイトを繰り返している人々の日本語リテラシーの低さは度し難い。朝鮮学校の生徒・学生たちははっきり意識して朝鮮人になろうとしている。これが民族教育だ。努力せず、せいぜい戦前の大日本帝国への回帰しか念頭にない自称「右翼」は恥を知るべし。
 朝鮮学校を描いた小説は今までにもあった。姜一生『私の学校』(1982年 同時代社)や權載玉『青春教師』(1995年 朝鮮青年社)は繊細で毀れやすいが希望に満ちた民族教育を教師の立場から描いた。金城一紀『GO』(2000年 講談社)の主人公も在日で、朝鮮高校に通う学生たちが登場する。これは映画にもなった。映画では「パッチギ!」が有名だ。どちらもエンターテインメントで面白おかしく在日の青春を表現した。
 しかし、「ジニのパズル」ほど切なく厳しい朝鮮学校の青春を描いた作品があっただろうか。そこには一色に染まらない多様さへの希求がうっすらと見えてくる。単一民族幻想に染まった「島国」での生きがたさは打破されなければならない。魂を揺さぶる繊細な文体の裏側に読者が読み取るべきものは少なくない。

2016年3月31日 (木)

金承鈺『ソウル1964年冬』

屈従と暗澹の不条理な社会に生きる
         ──金承鈺 青柳優子『ソウル1964年冬』(三一書房)

1964 ユ・シミンは韓国現代史には二つの主体が存在すると書いている。〈ひとつは5・16軍事クーデターと産業化の時代を代表する勢力〉〈もうひとつは4・19革命、光州民衆抗争、民主化の時代を代表する勢力〉だ。(『ボクの韓国現代史』)
 「4・19革命」とは李承晩独裁政権を倒した1960年の学生革命のこと。学生を中心とした民主主義勢力よって独裁政権は打倒され、思うが儘に権力を振るった李承晩はアメリカの庇護の下ハワイへと逃亡した。ところが翌1961年、朴正煕らによる5・16軍事クーデターが起きた。民主主義への短い希望の時間は消え再び軍事独裁政権が成立した。結局〈1948年の大韓民国成立から1987年までの40年間、国民は国家権力に屈従して生きてきた。〉
 日本を振り返ると2016年3月29日安全保障関連法が施行され、国会前や大阪、沖縄など各地で反対集会が開かれた。全体主義国家への回帰を怖れる多くの市民が安倍政権に反対する声を上げている。「経済成長」の名の下に、報道が統制され政権の思いのままに法が解釈される。司法も立法も政権の支配下に置かれる。戦前の日本がそうだったが、1960年から40年間の韓国も恐怖政治に支配されていた。そんな社会で生きる屈従と暗澹を金承鈺は描いた。
 金承鈺は1941年12月生まれ。4・19革命と5・16軍事クーデターのときはソウル大学の学生だった。学生時代から作品を発表して注目され、1965年雑誌『思想界』に発表した「ソウル1964年冬」で東仁文学賞を受賞してを同世代(4・19学生革命世代)を代表する作家として認められるようになった。しかし1980年の光州民衆抗争の敗北を経て、執筆活動を止めてキリスト教の修道生活に入ってしまった。
 金承鈺の小説はこれまでも翻訳されていたが、青柳優子訳『ソウル1964年冬』(三一書房)は金承鈺作品だけを集めたものとしては初の単著だ。表題作「ソウル1964年冬」の冒頭は〈一九六四年の冬をソウルで過ごした人なら誰でも知っているだろう〉で始まる。この意味深な出だしは、直接には立ち飲み屋台の雰囲気を表している。しかし実のところ誰であれこの時代の閉塞性を感じるだろうということに思える。
 1964年と言えば、前年末朴正煕第五代大統領の第三共和国が発足、軍事独裁政権の地歩を固めた年だ。この年の春には軍事政権の進める韓日条約に反対する学生デモが頻発し、ソウル一円に非常戒厳令が敷かれた。夏には人民革命党事件がでっちあげられ、「4・19革命」派の勢力がことごとく逮捕された。民主主義が排除され「産業化」の時代が到来した。
 「ソウル1964年冬」の読者は夜の屋台で偶然出会った3人の男たちの空論に付き合わされる。士官学校を落ちて区役所で働いている田舎者と、金持ちの息子である大学院生、月賦書籍売りのさえないサラリーマン。しかし彼らの空論は切実なのだ。自分が独自の存在であることが否定される時代だ。夜間外出禁止令が出されたソウルの夜、ノンポリ青年たちの一晩はたわいないが無情だ。妻の遺体を売った金を火事場に投げ入れてしまうサラリーマンの絶望は凄まじい。僅かな支えを失った瓦礫の崩落を思わせる。他の二人の状況も大差ない。健全な生への執着が失われ、諦観から来る自己欺瞞が良心をねじ曲げるのだろう。独裁経済の成長は人間の希望を踏み台にする。武器輸出を可能にし戦争経済で儲けようという安倍自公政権のあり方の先に韓国第三共和国がぼんやり見えてくる。金承鈺が描く不条理は独裁経済と全体としてリンクしている。それはその時代のその場だけの特殊ではあるまい。
 「ソウル1964年冬」と並ぶ代表作「霧津紀行」などについては、かつてさいたま市のミニコミ『市民じゃ~なる』に「不条理な社会に個人の厭世は対峙しえるか――金承鈺『霧津紀行』」として書いた。PDFで読めるので参照願いたい。作家紹介と作品解説は青柳優子氏の解説に譲る。そのほかに、韓国歴史問題研究所研究員である藤井たけし氏の「切れて繋がる─朝鮮戦争における〈残された人々〉」(『現代思想』2003年9月号)は金承鈺を読み解く上では重要な評論だ。

2016年3月24日 (木)

まづろわぬ文学

木村友祐『イサの氾濫』(未來社)
 朝日新聞の日曜版Globeの連載「世界の書店から」は各国のベストセラーを順番に紹介していて、特に戸田郁子「ソウルの書店から」を面白く読んで参考にしていたのだが最近のは読んでいなかった。去年の10月から朝日新聞のだらしなさに怒ってという名目で、安い東京新聞に切り替えてしまったからだ。その旨をメールで戸田本人に伝えると、2月の記事は反響が大きかったとPDFを送ってくれた。
 紹介されたのは、尹東柱(ユン・トンジュ)『空と風と星と詩』の復刻版、金素月(キム・ソウォル)『つつじの花』の復刻版、申榮福(シン・ヨンボク)『監獄からの思索』の3冊と、お坊さんの書いた新刊1冊。
 尹東柱『空と風と星と詩』は日本でも数冊の翻訳があり最近は比較的良く知られ、追悼会や朗読会など遺業を顕彰する運動も各地で開催されている。尹東柱は1945年治安維持法違反で服役中の福岡刑務所において28歳の若さで死去した。彼の死には様々な疑問が呈されていて小説(イ・ジョンミョン『星を掠める風』)にもなっている。
 金素月もまた32歳という若さで死んだ。表題となった「진달래꽃(ジンダッレ)」はツツジの一種で、大村益夫『詩で学ぶ朝鮮の心』(青丘文化社)には「山つつじ」と訳されている。これは戦前の詩だが今日まで朝鮮の南北を問わず愛され、2003年には韓国の歌手MAYAがこの詩をロック調に編曲して歌いヒットした(maya born to do it+@)。「ジンダッレ」は日本の一般的なツツジとは違う品種のようだが、ツツジとサツキの区別も儘ならぬ身としては写真を見ても説明をつけられない。
Photo_3 申榮福は聖公会大教授で哲学者として知られるが今年1月に逝去した。申榮福は詩や書芸にも秀でその書と詩が韓国で人気の焼酎「처음처럼チョウンチョロン(初めてのように)」のラベルに使われている。韓国では申榮福に対する嫌悪からこの焼酎を飲まない輩もいるようだ。申榮福は戸田郁子も書いているが1968年に「統一革命党事件」で逮捕され20年に渡って獄中に囚われ、仮釈放後の1988年に出版された獄中書簡などをまとめて1998年に編まれたのが『監獄からの思索』だ。監獄生活が彼を哲学者にしたということのようだ。戸田郁子の引用から又引する。
「人を助けることは、傘を持ってあげることではなく、共に雨に打たれながら歩いて行く、共感と忍耐の確認なのです」
 この言葉に東日本大震災を想起した。

震災後は、だれもが急に善良な人になっていた。テレビCMを筆頭にいきなりみんな「日本人」意識にめざめて連帯を口にし、これまで東北のことなど見向きもしなかったくせに、貧しさのイメージが余計に同情をそそるのか熱いエールを送りはじめた。

Photo これは木村友祐の小説『イサの氾濫』の主人公将司の苛立ちだ。将司は40歳になっていたが、東京での暮らしを止めて八戸に帰り、刃傷沙汰の絶えない荒くれだったイサ叔父について調べていた。『イサの氾濫』は全体が東北弁(南部弁?)で満たされていて、その音楽的なリズムには明治以降の日本近代史において作られた標準「日本語」に対する抗いが感じられる。西から来たやつらの支配に従わぬ蝦夷の子孫としての矜持が、荒ぶるイサの氾濫として描かれる。〈蝦夷征伐で負けで、ヤマトの植民地さなって〉〈戊辰戦争でも負け〉〈震災ど原発で痛めつけられ〉た無言の民としての東北が、荒々しく雪崩を打つように東京に攻め込み弓引く小説なのだ。イサこそは荒ぶる東北の象徴である。おとなしく黙って「頑張れ日本」という言葉に収斂されようとする東北よ怒ってよいのだ、と語りかけているようだ。
 東日本大震災後全国に散った避難民や地元の仮設住宅に身を寄せる方々に、当初は同情的だった世論のなかに、最近は罵詈雑言が混じってきた。「避難民ヘイト」である。そもそも雨に濡れる人に傘を差し掛ける程度の軽佻浮薄な同情で、震災後の東北に接した我々に、共に雨に濡れながら歩く共感と忍耐などなかった。東北人の生活も破壊された原発の汚染処理も後回しに、東京オリンピックに巨額を投資して「頑張れ日本」と声を上げる笑顔に汚染されてはなるまい。連帯を模索すれば自分も傷みを伴う。東北の傷みを踏み潰して目の前のささやかな餌にとびついてなるものか、と作者の自問は読者の自問でもある
 木村友祐の作家としての煩悶と闘争は併録された「埋み火」にも表れている。公害を垂れ流して東京という資本に収斂されていく者と、東北の無言の暗さに止まり非文明の象徴としての鏃(やじり)を保管する者との再会と別離。後者の姿に柳美里『JR上野駅公園口』の福島県相馬郡出身ホームレスを連想した。ともに3・11後の小説で主人公は東北出身だ。
Photo_4 未來社発行の『イサの氾濫』の帯に白崎映美の写真が載っている。もと上々颱風のボーカルだ。『すばる』掲載時に「イサの氾濫」に触発された白崎映美は「とうほぐまづりオールスターズ」を結成、ライブを行いCDを作った。『まづろわぬ民』だ。これも東北弁満載でエネルギッシュだ。しかも木村友祐による「イサの氾濫」朗読も収録されている。「まづろわぬ」言葉、標準語の支配を受け入れない言葉が音読によって生き生きと再現された。
 東北の怒りと怨念を解放する文学には、「ガンバロウ日本、ガンバレ東北」などという空虚なコピーを打ち落とす冷徹な叡智で連帯したい。

*木村友祐さんの作品に関連した頁です。
 地方語・民族語・帝国主義語

2016年3月14日 (月)

ユ・シミン『ボクの韓国現代史』(三一書房)

民主主義は闘い続けなければ奪われる

 昨年、済州島四・三平和賞を受賞した在日朝鮮人作家金石範が、大韓民国成立時の李承晩(イ・スンマン)政権についてその正統性を問う発言をした。これに韓国の右翼勢力が反発し金石範の韓国入国が拒否された。金石範の李承晩政権批判は今に始まったことではない。朝鮮半島の南半分だけで、アメリカの支配下に成立した李承晩の大韓民国は、日本植民地時代の旧親日勢力を免罪糾合して人民支配の手足とした。金石範が生涯の文学的イシューとした四・三事件は、李承晩の南朝鮮のみにおける単独選挙と単独政府樹立に反対する運動から始まった。
Photo ユ・シミン『ボクの韓国現代史』は1948年に起きた四・三事件に紙幅を多く割いてはいない。しかし韓国の現代史を考える上で大韓民国の成立を無視して語ってはいない。
 ユ・シミンは植民地支配から解放された新生国に三つの条件を付加している。第一に、祖国解放を目指して努力し献身した人々が国を打ち立てて運営しなければならない。第二に、民衆を貧困から解放し物質面で暮らしを改善しなければならない。第三に、憲法によって自由と人権を保障し、主権在民の原理を実現して政治的正統性を有する政府を打ち立てなければならない。李承晩政権は〈ひたすら権力の甘い汁を吸うことにのみ没頭〉したからそこに民主的正当性は無い。
 韓国民の現代史は、民族史的正統性を持たないというマイナスから始まり、国家権力に屈従した歳月を経て民主主義を闘いとった。
〈いま僕らにできることは、韓国が民族史的な正統性を欠いたまま出発した理由とプロセスを厳しい目で評価し、哲学的に消化することのみである。〉
 さて、『ボクの韓国現代史』には「1959-2014」という副題が付くが、これは1959年生まれである著者の個人史と重なるということを示している。ユ・シミンは歴史は主観的な記録であるという正直な前提のもとにこの本を書いた。だから韓国現代史の中で著者がどう生きたかを読者は見せられながら読む。ユ・シミンは韓国現代史を二つの勢力の矛盾として書いている。5・16軍事クーデターと産業化の時代を代表する勢力と、4・19革命、光州民衆抗争、民主化の時代を代表する勢力だ。著者は後者に属している。
 著者の生まれた翌年1960年「4・19学生革命」が起き、李承晩は大統領の座を追われハワイへ逃げた。〈4・19は新生国である韓国が正統性を有する国民国家へと向かって踏み出した第一歩だった。〉しかし、翌年5・16と呼ばれる朴正煕(パク・チョンヒ)による軍事クーデターによって、その後延々と軍事政権が続く。朴正煕は民主主義を徹底的に残酷なまでに弾圧しながら、一方で「開発独裁」という手法で韓国経済を成長させた。(現代韓国が抱える財閥偏重の歪んだ資本主義はその後遺症ではないかと思う。)
 その後1980年の光州民衆抗争を経て、1987年の6月民主抗争で全斗煥政権を倒すまで、独裁政権は続いた。そこまでだけでもどれほどの犠牲を払ったか。どれだけ死者を出したのか。〈専制政治を打倒する民主主義政治革命の唯一の方法は、民衆が抵抗権を行使すること〉なのだ。著者自身も死を覚悟したことがあった。私たち日本の国民にそれほどの覚悟が出来るだろうか。懸念が脳裏をよぎる。
 今はまだ存在する民主主義を奪われてはならない。立憲民主主義を支持し戦争に反対する全ての日本の市民も知るべし。一度三権分立の箍が外され政権担当者が独裁的権力を振るい始めると、民主主義を取り戻すまではたいがいなことではない。膨大な犠牲と歳月を払うことになる。
 金石範は朴槿恵政権が歴史を逆行しようとも、選挙で選ばれた政権を否定したりはしていない。なぜなら韓国国民が自ら主体となって〈当初ゼロだった大韓民国の正統性をみずからつくりあげた〉からだ。日本人民学ぶべし。民主主義は闘い続けなければ奪われるのだ。

※この本だけでも充分に韓国現代史を学ぶことができるが、1945年以後、朝鮮戦争の時期も含めて全体的に把握しようと思えば、文京洙『新・韓国現代史』(岩波新書)が読みやすい。また現代韓国の経済的繁栄の基盤となった朴正煕時代の開発独裁について考えたければ、曺喜昖『朴正煕 動員された近代化』(彩流社)も参考になる。

2016年2月 3日 (水)

差別から何が生まれるのか──尊敬すべき白丁の文化

鄭棟柱 『神の杖』 解放出版

Photo 白丁(ペクチョン백정)が朝鮮の被差別民であることは知っていた。彼らが屠殺を生業とするということも読んでいた。この点は日本の被差別部落民と似ている。16世紀半ばの民衆反乱の指導者林巨正(リム・コクチョン)が白丁出身だったことも知っている。林巨正は腐敗した朝鮮王朝と闘った英雄だ。小説やドラマ・漫画で現世にまで伝えられる。
 だがしかし白丁がいかに迫害されてきたかという知識はなかった。彼らは賤民以下の動物扱いされた。強姦されようが、殺されようが、人間に対する罪にはならなかったのだ。人身売買の対象でもあった。
 インターネットブログ「ヌルボ・イルボ 韓国文化の海へ」で紹介された鄭棟柱『神の杖』は1997年発行だから20年近く前の本だが、ヌルボ氏が再読にもかかわらず2015年に読んだ本の中で唯一感動した本だと書いているし、なかなか興味深かったのでインターネットで探して861円で購入。定価は3800円だった。この本が凄い。
 大学教授で小説家の女性が地方の寺を訪ねる場面から始まる。主人公である朴異珠(パク・イジュ)は〈白丁の職業である屠殺と寺の関係から生まれた隠語を収集して研究してきた。〉白丁は職業・婚姻・習俗を差別されたほかに、言語も一般人と同じ言葉を使うことを禁止された。そのため白丁の間だけで通じる独特な言葉が使われたのだ。白丁は支配階級である両班(ヤンバン)とは異なる独特の文化を持っていた。支配階級の文化に対するカウンターカルチャーを、最下層の被差別民が持った意味は一考に値する。
 朴異珠は自身が書いたベストセラー小説『不遇』にまつわる訴訟で憔悴している。それに夫との不和も抱えている。20年前には、不仲だった妹が「自殺」とされる死を遂げている。寺を訪ねた日は偶然妹の命日だった。
 小説は過去と現在を行き来しながら、朴異珠の生い立ちと訴訟相手との攻防を描いていく。朴異珠の曾祖母にあたる鄭順介までさかのぼる物語は、小説中の小説『不遇』とリンクしている。白丁として迫害され、女性として二重に差別される世代を隔てた女性たちの物語でもある。鄭順介の娘、朴異珠の祖母は身体障害者であるための虐待も受け、三重の苦しみの中に死んでいった。
 朴異珠は自分が白丁出身であることを隠し続けて生きてきた。持って生まれた向上心で出世したが、友だちも作らず愛のない結婚をし、生まれた娘の世話も家政婦に任せっぱなしだった。朴異珠の書いた小説『不遇』は〈李氏朝鮮時代に抑圧され差別を受けた一つの身分階層である白丁の生の哀歓と、現代社会で抑圧され差別を受けている階層の実情を、絶妙に比較しながら描い〉ていたが、作者である朴異珠自身が白丁出身であることを読者は知らされなかった。
 表題の「神の杖」は屠殺に使う包丁を示す。屠殺は単に商業的価値を追い求めるものではない。そこには命に対する畏れがあり、神聖な行事としての手順が決められている。自然と生命を尊んだ作業なのである。
 知っているようで知らない白丁の習俗、仏教との繋がり、特殊な言語、何より現代に繋がる差別の実態、軍事独裁政権時代を含む現代韓国史の抱えた歪み。軍事政権と闘った朴異珠の妹明珠は恋人とともに死んだ。朴異珠は妹の死を単なる自殺と思いこむ(ことに決めている)。

  知性人は自分の知識で社会を救うけど、知識しかない知識人は社会が自分の利益のために腐敗することを望んでるの。忘れないで。姉さん自身が積み上げてきた知識のかけらが、いつか姉さんの胸に突き刺さる刃物になるかもしれないってことを。

 明珠の言葉どおり、今まさに朴異珠の胸に刃物が刺さり苦悶の果てに寺を訪れたのだった。この小説を韓国版『破戒』と読むこともできる。また一方で知識人のあり方を問う文学と捉えることもできる。朴異珠は私であり、あなたでもある。もちろん差別一般を告発した小説として読むのが一番一般的かも知れない。
 現代世界は排外主義的ポピュリズムに溢れかえっている。差別する側はいつも卑屈に怖れている。両班は自分の不幸や地位の危機を他人、究極には白丁に責任を着せて迫害する。この両班の精神腐敗はネトウヨと同じだ。恵まれない(と思い込んでいる)既得権益者が、自己の薄幸を難民や外国人や性的少数者のせいにして吐く言辞はヘイトスピーチと呼ばれる。差別によって無能で脆弱な自己を保っているのだ。根拠の無い虚栄心を持つため誰かを迫害せずにいられない。嫉みの社会構造が出来ている。
 自己を隠して栄達の道を歩んでも虚しい。マイノリティーの文化こそ誇るべきだと『神の杖』は教えているようだ。

2016年1月 7日 (木)

宋恵媛『「在日朝鮮人文学史」のために──声なき声のポリフォニー』

在日朝鮮人文学史を根本から見直す、
脱植民化
の実践

Photo 在日朝鮮人文学史はこれまでも多々書かれてきた。その代表は川村湊の『生まれたらそこが故郷』だ。また在日朝鮮人文学論の嚆矢として知られる磯貝治良は『〈在日〉文学全集』を編纂した後も、『〈在日〉文学の変容と継承』などで〈在日〉文学史を展開してきた。筆者もまたこうした努力をしてきた一人に入れて貰えるだろう。『在日朝鮮人日本語文学論』(1991年 新幹社)等で在日朝鮮人文学史の構築を試みた後も、「『在日朝鮮人文学』とは何か」(2003年4月『民主文学』)、「『在日朝鮮人文学』の変容とは何か」(2009年2月『國文學』第54巻2号)などで、日本文学史の中に在日朝鮮人の文学を位置付けようとしてきた。しかしそれは日本語作品に限ったもので、「日本文学史」を「日本語文学史」に書き換えようという試みではあったが、「日本文学」のボーダーを破るものではなかった。「日本語の文学」までは広げたとしても「日本に於ける文学」とまでは追究されなかった。
 私たちが編集した『新日本文学』2003年5・6月合併号の特集「〈在日〉作家の全貌」では、〈日本に在住して、その間に日本語による小説・詩集等の文芸単行本を発行している朝鮮人〉と限定して94人の作家・詩人を紹介した。そうしたこれまでの研究の間隙を埋め、なおかつ文学の存在そのものの見方にアンチテーゼを示したのは宋恵媛だった。宋恵媛『「在日朝鮮人文学史」のために』は、少なくともこれまでの在日朝鮮人文学史の概念を覆した。
 宋恵媛はまず朝鮮人女性の識字運動から戦後在日朝鮮人文学史を始めた。それは母国語を奪われた民族が言語を回復する地点から在日朝鮮人文学を検討したということだ。特にそれまで教育を受ける機会のまったく少なかった女性たちから始めたのは慧眼と言えよう。エリート男性日本語作家中心の在日朝鮮人文学史に比し、その出発点から異論を唱えたことになる。
 言語の回復、それは当然の帰結として朝鮮語作品を「在日朝鮮人文学」の重要な一部として取り扱うことに繋がる。朝鮮語と日本語の錯綜と対峙が戦後在日朝鮮人文学発祥の根源として見えてくる。
 宋恵媛は丹念に朝鮮語の作品も発掘した。朝連の準機関誌の役割を持った『解放新聞』や在日朝鮮文学芸術家同盟(文芸同)の『文学芸術』などの紙誌を調査し、文学の痕跡を辿った。
 また死と直結すると悪名高き大村収容所内で発行された『大村文学』(1957年8月創刊)などの稀少雑誌や、戦後圧倒的に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)系の運動が大きかった時に非総連系の『白葉』(1957年)や『韓国文芸』も詳細に検討している。これらの雑誌では金学鉉・金一勉・金慶植・金潤らが活躍した。──因みに『文学芸術』に朝鮮語作品を書いた故金秉斗氏と筆者は些か交流があったので、知らなかった一面を知り、また懐かしくもあった。
 戦後在日朝鮮人文学の嚆矢として語られる金達寿について、日本の「進歩的知識人」からの視点を外して、朝鮮人文学者として再検討して見ると、違った面があぶり出される。〈金達寿は、日本人の間では最も名の通った朝鮮人作家だったが、識字教育と渾然一体となっていた初期の在日民族文化運動の中では、むしろ孤立していたといえる。〉
 そう考えると新日本文学会の金達寿に対する持ち上げ方にも、やや不公平感を感じてしまう。戦後日本の民主主義文学をリードした新日本文学会には朝鮮語作家たちを視野に入れる器量は無かったのだろう。後になっても新日本文学会周辺では、晩年の中野重治「民族エゴイズムのしっぽ」発言は殆ど理解されなかった。
 在日朝鮮人たちは〈旧宗主国の内部で脱植民地化を行うという困難な条件〉のなかでの戦後在日朝鮮人文学の果敢な闘いを展開したのだった。しかし宋恵媛も書いているとおり、〈民族語で書き、読まれるという、「解放」直後にふくらんだ民族文学の夢は一部しか実現しなかった。〉
 そんな中でもいくらかの成果はあったはずだ。例えば宋恵媛が紹介する金民(キムミン)の〈注目されることの少ない平凡な人々が、素朴な筆致でていねいに描き出された〉〈日本文学の影響がほとんど感じられない作品群〉に日の目を見せることは出来ないのだろうか。今更ながらに思ってしまう。彼らは〈脱植民化の実践〉者なのだ。
 宋恵媛『「在日朝鮮人文学史」のために』は、作品論には殆ど切り込むスペースを持たないが、それでも在日朝鮮人文学史のみならず、文学そのものの意味を原初的に考えさせてくれる。この出版そのものが現在的に脱植民化の実践ですらある。

(宋恵媛『「在日朝鮮人文学史」のために──声なき声のポリフォニー』岩波書店)

2015年12月13日 (日)

金石範「終っていなかった生」 (『すばる』1月)

闘う老作家の生きる意欲を見た

 金石範の小説の特徴に夢がある。とにかく夢か現かの状況が頻繁に出てくる。「終っていなかった生」も夢から始まる。夢の中でKの下半身には尾鰭がついていて人魚のようだ。眼を覚ますと下半身が動かない。血圧は異常に高い。幻聴も聞こえる。夜中に病院に行くが原因がはっきりしない。
 Kは作家でこのとき書いている小説は済州島四・三事件当時虐殺された島民の死刑場であった、現「済州」国際空港の遺体発掘をモチーフとした作品だ。この書きかけ小説の冒頭部は、金石範が『すばる』2014年2月号に発表した「地の底から」と同じだ。従って、時制は2013年に設定されていることになる。元来大酒飲みのKだが、このときはほぼ禁酒している。Kである金石範はこの頃既に88歳という高齢だ。
 痛む頭の中で現と夢と幻想が交差する。睡眠は夢を呼び夢はKをソウルへと導く。60年前の時空を超えたソウルから銃殺された親友チャンの声が届く。〈チャンたちは済州島四・三虐殺と同じく、場所とやり方は違うが、イ・スンマンテロ国家権力のもとで殺された。〉金石範は1945年日本帝国主義の敗北後の11月に、朝鮮独立運動に参加すべくソウルへ渡りながら、翌年夏大阪に一旦戻ったまま朝鮮への再渡航の手段を失ってしまう。その間に独立運動の同志たちは殺されていったのだ。金石範はこの10月(2015年)に韓国政府によって入国を拒否された。それは大韓民国の成立が金石範やその同志たちが目指した南北統一政府でなく、李承晩(イ・スンマン)による朝鮮半島の南半分に於ける反共政権だったことと無関係ではない。
 Kの夢は更に時空を超える。今度は夢の中で夢ではない、夢の中の現実として女性詩人ミニの山中での死と遭遇する。零下二〇度の山中で深酒自殺だ。小説の中に紹介される詩の一節は、金石範が紀行文集『国境を超えるもの』(文藝春秋)に収録した「鬼門としての韓国行」に紹介した「鳥たち あの冬の夜中へ」だ。作者は金民姫。「苦難の終りの韓国行」(『文學界』2001年11月)にも出てくる。〈ミニは明日のことを、かりに飢えに直面するにしても思い患いません。でも彼女の恐怖は、いま生きて生活していることなんです。うん、じゃ“存在”に対する怖れなんだろうか。〉
 体調不良のKは生涯の課題である「済州島四・三事件」六十五周年記念集会の準備も欠席した。精神科に通ってようやく小康状態を取り戻し、「発病」以前の散歩コースを歩けるようになった。
 小説が時制通りに進んでいると仮定すれば「回復した」Kはあるときアルバムの写真を手に取り、娘と二人での写真を見て妻に問いかける。Kは忘れていたが、一九六二、三年頃組織方針で日本人妻と別れるよう指示があったとき妻は離婚の覚悟をして実家に帰っていたが、Kは別れない道を選んだ。金石範がたとえ小説としてであれ、自分の妻との関係を在日の組織問題を介在して文章にしたことはない。
 「終っていなかった生」は、超然とした作家の姿ではなく、妻子を含む身辺に現代史をぐっと引き寄せて描いた作品だ。Kが住み散歩して歩く地方都市W市は、現実に金石範が居住する埼玉県の蕨市を思い浮かばせる。W市からKの〈混沌自在の頭の空間〉は自在に時を超え空を飛び、済州島やソウルを行き来する。そしてW市に戻り、森を彷徨い女性の満月のような臀部に魅了され、ホテルでの性交に及ぶ。尻を丸出しの女Rは人魚の身体となって海の暗い奥の方ほうへ泳ぎ去っていく。どこまでが夢でどこからが現か相変わらずはっきりしない。この小説は、文体は私小説風ではないが内容は事実と整合する部分が多いので、作家自身の体験や気分の変遷をそのまま書いていると取れる。
 性の感触は生を感じさせるに十分で、Kは不随でない自己を確認する。「終っていなかった生」とは「終っていなかった性」でもあるのだろうか? この生きる意欲は『火山島』に繋がる次作を呼び起こすに違いない。それには日韓の右翼勢力との政治的対決も付随するのだろう。何しろ齢90の老作家が自分の生きる意欲をまだ終わっていないと確認した作品だ。この小説を読み解くには金石範文学に通じていなければ困難だろうが、逆に金石範文学の全体を解き明かすにこの小説はヒントにもなっている。

*金石範文学の全体像については「虚無と対峙して書く─金石範文学論序説─」(『社会文学』第26号 2007年6月)を参照頂きたい。また、金石範の韓国訪問と創作の関係を論じた「金石範文学論・在日の実存を済州島に結ぶ」が2016年3月発行予定の『神奈川大学評論』第83号に掲載される。
*金石範文学の「私小説」的傾向に関しては『同行者大勢』第11号に発表した「『泥酔の四十二階段』の問題」がある。これはpdfで読める。http://kghayashi.cocolog-nifty.com/blog/doukousya11.htmlから入って頂きたい。
*金石範「地の底から」に関しては、
http://kghayashi.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-4bd5.html に書いている。

2015年11月14日 (土)

チョン・セラン『アンダー・サンダー・テンダー』(クオン)

人生は隠れた悪意に翻弄されるが……

Photo 青春は辛い。甘く悲しく辛い高校時代なんてありふれている。作家チョン・セランはそうした青春の場に坡州(パジュ)を選んだ。坡州は38度線に近い。北朝鮮に接し市内に非武装地帯がある。坡州からおんぼろバスで学校に通う6人の高校生たちは、窓外に迷彩服を着て匍匐前進をする兵士と目が合ったりする。不穏な空気が漂う場だ。銃を持ったままの兵士が脱走する事態が町を騒がせる。映画「猟奇的な彼女」でも銃を持った脱走兵が登場したが、遊園地に隠れた脱走兵はコミカルに描かれ悲壮感のないギャグでしかなかった。チョン・セランの脱走兵は首を括り、更なる悲劇を遺していった。
 ある意味坡州は80年台までの韓国的状況を縮小して90年台に遺した場だったのかも知れない。わたしは82年に、光州に入る高速バスに銃を持った兵士が入って来た光景を思い出す。道ばたに埃っぽい兵隊たちが歩く姿も散見された。当時の韓国の人たちにとっては珍しいことではなかったのだろう。20世紀末の坡州に再現されたこうした不穏な空気は次のようなことばで表象される。

  殺すのなんか簡単だ。そんなふうに、唐突に攻撃されながら生きていく。考えてみれば、私たちはそうした不運から生まれ出た存在でもあるのだ。私が三十八度線を越えた祖父の不運から誕生したように。私のルーツは不運であり、私を育てたのも不運、私が最後に到達する結末もやはり不運だ。

 歴史の不運と空間の不運を重ねた場所として坡州は描かれた。現在の坡州は出版・印刷関係の会社を集めた出版都市として日本でも有名だし、パジュプレミアムアウトレットやヘイリ芸術村のある観光地としても注目されているようだ。しかし観光としては「北朝鮮」を遠望する統一展望台があるなど、前線地帯である現実は変えようがない。
 小説『アンダー・サンダー・テンダー』は二重構造になっている。「私」は30代で映画美術を仕事としている。そして高校時代のバス友たちを撮っている。あるいは撮りながら回想しているのかも分からない。つまり高校時代と大人になった現代が交互に描かれ、それぞれの「成長」に読者であるわたしはため息をつく。
 前半はペ・ドゥナ主演の映画「子猫をお願い」を思いだした。出世から外れた商業高校を卒業した5人の女性たちの友情と、遣り切れない生活、捨てられた子猫のように自由を希求する少女たちの精神の純粋がみずみずしい映画だった。
 しかし小説『アンダー・サンダー・テンダー』は希望を持たせない。バス友たちはそれぞれ問題を抱えていて、彼らを悩ます問題は変化する。主人公の私が愛したジュワンは撃ち殺され、私は壊れる。彼女を壊したのも彼女を支えたのも坡州に住む人々だった。6人の仲間は互いに壊し壊されながら、それでも支え合って成長する。恋人の死、兄の死、弟の殺人を経て、折れ曲がり変化していく青年たちの姿は希望というより存在の実感だ。希望では癒やされない。登場人物のひとりミヌンの「ひどい家に生まれたなら、愛さなくてもいい」という言葉が沁みる。
 大人になって就職した彼らを迎えたのは矛盾に満ちた社会だ。彼女たちは仕事を持ち、その仕事から離れ、また別の仕事に出会う。坡州から離れ韓国から離れてもまた坡州に帰り集まっては別れる。現実は厳しいけれど現実の中にしか生きる場は存在しない。希望といえば、経験を経て生きる逞しさを得ていくこと。別れだって必要なこともある。憎しみだけでは生きられまい。
 チョン・セランは朝井リョウとの対談でこう言った。

  何かを嫌いだと言うことが、何かを好きだと言うことよりも簡単ならば、それは健康ではないと思うんです。社会を全般的に覆っている嫌悪の感情に、文学界の中も向き合おうとしていて、私もそのうちの一人です。
   朝井リョウ+チョン・セラン「未来の世代の読者へ向けて」(『早稲田文学』2015年冬号)

 チョン・セランは正義を語らず、されどブドウ畑のバラのように来たるべき被害に警鐘を鳴らしたり、ひっそりと隠れた悪意を浮かび上がらせたりするのだろう。好感の持てる若い作家と出会った。

2015年10月21日 (水)

金石範さんの入国を韓国政府が拒否!

済州島四・三事件の歴史学的解明は大韓民国成立の正統性に疑義するか!?

01_2 10月、在日朝鮮人作家金石範(キムソッポム)さんの韓国訪問が妨げられた。金石範さんは済州島4・3事件をテーマにした長編『火山島』などで知られる作家だ。『火山島』は今年韓国で全巻の翻訳が出版され、ソウルで記念行事が開かれることになっていた。報道によると、金石範さんが韓国訪問を申請したところ、韓国政府が入国を拒否したとのことだ。在日韓国大使館は「旅券法に基づき審査した結果」とだけコメントした。
 金さんは今年4月、済州4・3平和賞を受賞し韓国を訪問、済州島で授賞式に臨んでいる。この賞は「済州4・3平和財団」が創設したもので、韓国政府や地元自治体も関係している。李承晩による大韓民国の成立に批判的な考えを持つ金石範さんに、韓国の右翼団体や保守マスコミが授賞取り消しを求めるなどの動きがあった。在日本大韓民国民団も盛んに金石範さんを批判し〈金石範氏の受賞で汚された「済州平和賞」〉とまで言っている。こうした論調に韓国の保守的な現政権が同調したと思われる。
 そもそも「済州4・3平和賞」とは、済州島4・3事件の真相究明に貢献したり、世界平和や人権伸長に寄与した人に贈られる。済州島4・3事件とは、1948年4月に済州島で起こった島民の蜂起に伴い、島民が軍や警察などに虐殺された歴史を仮にこう呼んでいる。金石範さんは事件が公にならない内から追求し解明に心血を注いできた。受賞に相応しい。
 しかし問題は大韓民国成立の正統性に関わる。金石範さんは以前こんなことを書いている。

   慰霊堂に祀られている一万三千余の犠牲者たちは「領民虐殺」による受難者であり、それ以外はゲリラ、アカの同調者だから殺されて当然とする島民を二分化する論理であって、これは全島民的な意思の代弁である四・三闘争の否定である。……実質的に「四・三事件」が抗拒の蜂起であり、抗争であり、民族解放闘争であることの位置付け、「歴史的定立」が必要だ。
   ……
   解放後一九四八年八月、四・三抗争のさなかに米軍占領下で成立した大韓民国は、過去歴史清算を葬った民族反逆者、親日派による政権、政府であるのは、韓国の極右勢力も否定できるものではない。憲法「前文」の臨時政府の法統(伝統)を継承した大韓民国政府というのは牽強付会となるだろう。
   しかしこの大韓民国の正統性の上に、四・三特別法も四・三委員会も成立しているのであって、この論議は“国家”の介在なしにはむつかしい。改めて大韓民国の「正統性」は何かを問われねばならぬことになるが、これはまず不可能。とすると、「正名」は統一のその日でなければできぬことになる。
   学問とか真理への道はそうであってはならぬだろう。真理は普遍的であって、国家の枠とか制度の枠を超えて明らかにされねばならない。歴史家たちはこの「国家の正統性」を超えて、「正統性」を否定しかねない論議をすべきではないか。親日、民族反逆、反歴史的な「過去」を清算することによって、建国当初の大韓民国の「正統性」は弁証法的に再び新しく定立される。四・三論議はその聖域まで踏み込まねばならない。それにはやはり一方の「国家」を超越する普遍の、自由の場の早期の実現を待たねばならぬか。しかし、学問はそのタブー、聖域に挑んで踏み込むものだろう。
                                  (「悲しみの自由の喜び」『すばる』2008年7月号)

 ここで言う「正名」とは「정명 ジョンミョン」、四・三という名称は記号で曖昧だから、内容をはっきりさせる定義をしようということだ。右翼勢力は四・三事件の犠牲を「良民虐殺」と定義し、共産主義者やその同調者を排除して定義しようとしている。金石範さんのように、李承晩政権の軍・警察と手下になった暴力団によって殺されたゲリラたちすべてを犠牲者と考える立場とは対立する。
 4・3事件の発端は南朝鮮単独政権樹立に反対する運動だった。即ちそもそも大韓民国建国に反対する運動だったのだ。南朝鮮労働党が指導するゲリラと米軍政、李承晩政権、右翼暴力団との闘いは熾烈を極め、双方及び無垢の島民を含め8万人もの犠牲者を出したと言われる。島民は、日本に脱出した人々においても事件について語ることは長い間禁忌とされていた。
 韓国の現政権が李承晩、朴正煕、全斗煥と続いた軍事独裁政権の正統を継ぐものであれば、金石範文学は敵性文学だ。しかし、韓国は民主化された社会だ。民主主義を渇望した国民の長い民主主義運動の勝利だ。ではなぜ金石範さんの入国は拒否されたのか。
 世界的な右傾化と無関係ではないだろう。日本では安倍ネトウヨ政権が特定秘密保護法や安全保障関連法を強行成立させ、全体主義国家化を進めている。排外主義が跋扈し、街頭で在日外国人やアイヌ、性的少数者、原発事故避難民などの対するヘイトスピーチが叫ばれ! 政治家は国民は国家のために働けと嘯く。そんな国粋主義的、民族主義的風潮は世界に広がっている。もちろん韓国でも右翼的民族主義運動の流れは止まらない。
 金石範さんは韓国を訪れる度に紀行文を書いてきた。朝鮮籍の金石範さんにとって韓国に行く場合韓国政府当局との折衝は大変な苦労だった。しかし金大中・盧武鉉と民主政権が続くと手続きも楽になってきて、紀行文のタイトルも「敵のいない韓国行」(『すばる』2005年6月)、「自由な韓国行」(『すばる』2007年1月)となって来ていた。韓国政府による金石範入国拒否は、韓国の民主主義の危機であると同時に済州島四・三事件の歴史学的解明が暗礁に乗り上げる危機も感じさせる。

2015年9月18日 (金)

波田野節子『李光洙──韓国近代文学の祖と「親日」の烙印』

朝鮮近代文学の栄光と挫折を独りで担った作家

Photo 李光洙は朝鮮人学生に対して学徒兵志願を勧誘した。波田野節子によると、李光洙の対日協力行為として韓国で誰もが第一に挙げるのがこれだ。『石枕』の張俊河、『長征』の金俊燁、『ある独立運動家の祖国』の尹在賢などは強制的に志願させられて日本軍に入隊したが、脱出して韓国光復軍に加わった記録を残している。朝鮮近代文学の祖と言われる李光洙はなぜ、軍国主義日本に屈服するのみならず、前途のある朝鮮人学生たちを戦地に送ったのか。
 李光洙は、朝鮮近代文学の祖であると同時に朝鮮人による日本語文学の最も初期の作家でもあった。にも関わらず、あまりにもこれまで知らなかった、というのが波田野節子『李光洙』を読んだ率直な感想だ。
 1983年友人に誘われて韓国の映画監督李長鎬の宅を訪ねたことがある。その家でたまたま観たテレビドラマが李光洙原作だった。ドラマの終盤「ああ、夢だったのね」と美しい李長鎬夫人が言ったのが印象的だった。私にとってもその程度の感慨しかない。殆どの日本人は李光洙を知らないだろう。しかし韓国では大きな存在だ。韓国近代文学の祖と呼ばれながら「親日」の烙印を押されているとは複雑だ。愛されているのか嫌われているのか分からない。(一応確認しておくが、「親日」というのは日本帝国主義の朝鮮支配に手を貸したと言う意味で使われる)
 李光洙は貧しく生まれ育ったが、天性の才能とたゆまぬ努力で文学的才能を発揮した。〈崔南善、洪命憙とならんで「三天才」と呼ばれ、一八歳にしてすでに小さな名士だった。〉若くして愛国啓蒙運動家として名を挙げ、1919年には三・一独立運動の先駆けとなった二・八独立宣言を起草し、大韓民国臨時政府の樹立に加わった。また、1917年に25歳で発表した「無情」は〈韓国近代文学史で近代長編小説の嚆矢〉とされる。なのにその後の李光洙は転向に転向を重ねていく。若き日よりの友人洪命憙が筆を折って田舎で〈志操を守る態勢に入った〉のと対照的だ。洪命憙だけを讃えているのではない。こもって高邁な精神を守るのか、できうる限りの抵抗と民族を生かすためによりましな方策を講じるのか。李光洙は後者を選んだ。

  植民地時代の文章を読むときには、それがいつ、どこで、どのような状況で発表されたかを見極めることが重要である。

 波田野は〈当然のことだが〉と言っているが、こういうことは忘れがちだ。自由の無い時代の発言が深層にどういった意を沈めているのか、我々は丁寧に捲り挙げなければならない筈だった。波田野節子は実に丁寧に読み解いている。李光洙をだけではない。李光洙の生きた時代の文化史的解釈や明治期以来の日本人の精神性の変化を前提にできる深い知識を根拠とした評伝だ。
 明治期日本人に起こった〈他者を見下すことで自己を確立したと錯覚する安易な傾向〉は、今また起こっていて、政治と密接に関係している。彼らは、今日の日本を覆う戦前回帰の薄汚い主張がどれほど幼稚なものか自覚しないだろう。
 日本人学生たちが学徒出陣した後、朝鮮人学生だけ残って勉強できる訳が無かった。非国民扱いされ酷い目に遭ったのち徴用されるだろう。李光洙は若い同胞の命を戦争に追い込むしか、民族の明日を考えられないところまで追い込まれていた。
 1945年の植民地解放後、李光洙は正直な執筆を再開するが、「親日派の弁」と捉えられ人々の反発を買った。1950年朝鮮戦争の際に朝鮮人民軍に連行され、その後の詳細は詳らかではない。
             (波田野節子『李光洙──韓国近代文学の祖と「親日」の烙印』中公新書)

2015年9月10日 (木)

栗林佐知『はるかにてらせ』

生きがたい人生に寄り添う短編集

Photo 作家栗林佐知について最近まで名前も知らなかった。2002年小説現代新人賞、2006年太宰治賞を受賞している。ところが単行本の発行はこれまで2冊で、昨年11月に7年ぶりに発行されたのが短編集『はるかにてらせ』だ。出版は未知谷というロシア文学など外国文学に強い出版社らしいが、こちらもまさに未知の出版社だった。
 寡作だから売れない作家であると同時に売らない作家とも言えようか。
『はるかにてらせ』の表題作はこう始まる。

  結婚して三年。
  夫婦の枕元に、女の幽霊があらわれて、
  「結婚しないって、言ったのに」

 幽霊は妻であるサワちゃんの高校時代の先輩で、3年前にガンで死んだアリサー先輩だ。サワちゃんはアリサー先輩が死んでいたことを昨日の夕方まで知らなかった。主人公のサワちゃんは幽霊のアリサー先輩と出会うことによって過去の青春を回想する。軽音学部に属して歌を歌っていたサワちゃんは本当は歌手になりたかった。軽音のバンド仲間の何人かは今はプロになって活躍している。でもサワちゃんはコンビニでアルバイトする主婦になってしまった。〈自分で自分を嗤ったこと。歌いたい気持ちを自分で本気にしてあげなかったこと。〉そんなことを後悔した。幽霊のアリサー先輩につきまとわれたサワちゃんは〈「コンビニのおばさんの歌姫」なんてのが、世界に一人くらいいたっていいんじゃないだろうか。〉と思うようになる。ユーモラスな展開が読者を飽きさせない。
 タイトルは、和泉式部の「暗きより暗き道にぞ入りにける遥かに照らせ山の端の月」からとっている。はるか山の端から暗闇を微かに照らす月の明かりに希望を託す。「人生なんてあっという間だ」凡人の軽口が重く響く。
 あっという間に過ぎていく人生の、未来の自分が今の自分を見守っているかも知れない。過去の自分に助けられるかも知れない。「恩人」は自己を貶めるものも輝かせるものも結局は自分だと思わせる。悪意も善意も自分の中にあるのだと。
 「身代わり不動尊」の不動尊や「券売機の恩返し」の券売機は、「はるかにてらせ」の幽霊のようにきっかけであり話し相手である。主人公の心情を汲み取ってくれるが、結構人間的で一寸厳しく接してくる場合もある。これら非人間の人間性に読者は主人公の孤独を感じるのだが、同時に微かな希望が照らし出される。サワちゃんの歌のようにそれぞれに芸術的衝動がある。栗林佐知の太宰治賞受賞作「峠の春は」(解題されて筑摩書房から『ぴんはらり』として出版)に描かれた、戦国時代の少女の、唄に対する執着こそ希望だ。サワちゃんたち現代人も、生活から一歩離れた執着を再発見する。
 「コンビナート」のしまちゃんのような、はた迷惑な悪意の無い純真が憎悪を生むことも知っている。しまちゃんはアリサー先輩にも通じる表象だが、彼らは結局何ものもなさない。
 栗林佐知の小説は、読む側の精神状態によっては、面白おかしかったり、とても悲しかったり、恐ろしい小説だったりする。どんな要素も持っていて、毒の中にもユーモアがあり、悲しみの中に怒りが見え隠れしたりする。生きがたい人生の多様性にうっすらと希望を照らす山の端の月としての小説、と言ったら大袈裟か。悪霊を払う為におばさんがくれた交通安全のお守りほどの役割かも知れない。

2015年8月30日 (日)

尹在賢『ある独立運動家の祖国』 나남

朝鮮学徒志願兵の抗日闘争

 張俊河の『石枕(トルペゲ)(日本語訳 安宇植訳 サイマル出版会 1976年)に次のくだりがある。

   わたしは『ともしび』に収録された短篇小説がたいへん好きだった。これはいっしょに編集を担当している尹在賢同志の作品だった。日本で同志社大学に学んだころ、文学を志した同志だったから作品のほうも驚くくらいよい出来栄えだった。

 張俊河は解放後の韓国において雑誌『思想界』を発行した出版人として、また朴正煕軍事独裁政権に異を唱える民主主義運動家として知られたが、独裁政権によって逮捕され身体を壊して保釈中に「不慮の事故」で死亡した。『石枕』は張が学徒志願兵として日本軍に入隊し、脱走して金九が率いる大韓民国臨時政府のある重慶を経て祖国を目指す行程を描いている。日本帝国主義時代の抗日運動を描いたノンフィクションとしてあまりにも有名だ。
 『ともしび』というのは、張俊河らが、1944年安徽省臨泉の中国中央軍官学校臨泉分校韓国光復軍班で80名の同志と共に訓練を受けていた頃に発行した手書きの雑誌だ。仙画紙に手書きの貧しい雑誌を2冊作って回覧した。その時張俊河、金俊燁と共に編集に携わったのが尹在賢だった。張俊河が言う短編小説が残っていれば、解放前の1944年に朝鮮語で書かれた小説としては希有なものだ。当時、朝鮮語は禁止され日本語の常用が義務づけられていた。作家たちも日本語で書いたし、でなければペンを折るしかなかった。
Photo 尹在賢は韓国でも最近まで殆ど知られない作家だった。昨年甥である大学教授金賢柱によって編集された『ある独立運動家の祖国』の発行までは、無名な独立運動家で作家だった。この本には生前の尹が遺した3冊の本『我が臨時政府』『死線を彷徨い』『凍土の青春』がまとめられた。『凍土の青春』については以前に紹介した。
 『我が臨時政府』は大韓民国臨時政府の成り立ちと正当性を説いたパンフレットのようなものだ。1945年11月にようやく帰還した著者がただちに執筆し翌年発行した。三・一運動に起因して成立した亡命政府である大韓民国臨時政府と光復軍の歴史と価値について記された。末尾に金九による「臨時政府当面の政策」が掲載されている。
 『死線を彷徨い』は学兵脱出から帰還までの自伝的ルポルタージュ即ち体験記だ。1946年に執筆は完成しているが発行されたのは1948年。金賢柱の解題によると、光復節と大韓民国政府成立に合わせた発行になった。志願とされながら実は強制だった学徒兵の実態と、植民地の学生である作者自身の如何ともしがたい心情が描かれた。尹在賢はソウルの龍山(ヨンサン)第25部隊に入隊し日本兵となり、中国の戦線へ汽車で向かう。山海関で水を汲みに出たときをはじめ、脱走の誘惑と躊躇が繰り返される。同行した学徒兵たちは天津-済南-徐州-貴徳と移動しながら次々と配属され、拓城というところから著者を含む6名が淮陽まで徒歩で進むことになる。
 著者は前線である淮陽に配属されて訓練を受ける。訓練には生きた中国人を銃剣で刺すようなものもあり、日本軍の実態が見られる。著者は友人のキム・チュンジョンとともに、この淮陽の兵舎の下水溝をくぐり、淮陽城の城壁と壕を越えて脱出した。中国人歩哨に日本語で怒鳴って正門を出て行く体験や、逃亡中の渡河場面などは後の日本語小説『凍土の青春』に生かされている。
 無事日本軍から逃げおおせたと思ったら、中国軍に捕獲され縄で縛られ囚人扱いで長い移動が始まる。絶望的状況にうちひしがれる様子は痛々しいが、安徽省臨泉で11名の朝鮮人に出会った喜びは計り知れない。彼らの殆ども学徒兵として徴兵され脱出していた。その臨泉は中国第一戦区の捕虜収容所だったが、朝鮮人兵らは捕虜扱いされなかった。その後も朝鮮人脱出兵は増え30名くらいになった頃、第一戦区幹部訓練団内韓国光復軍班として訓練所に入った。
 ところで、日本人捕虜についての記述も少しだが出てくる。豚小屋のような所に収容され惨めだったようだ。中国軍に捕まった日本軍捕虜に関する史料は少ないのではないだろうか?
 臨泉での体験は張俊河『石枕』の記述と重複するところも多い。しかも『石枕』のほうが詳しい。『石枕』によると中国中央軍軍官候補生たちの訓練が凜々しいものだったのに比べ、光復軍のは銃に手を触れることのない中学の教練のような駆け足・整列などだった。尹はこう書いている。

  夢にまで見た光復軍になれたことはこの上なく嬉しかったが、臨泉で過ごす時間は暇で退屈だった。中国軍官学校正式訓練とは異なり我々には簡単な制式的訓練がすべてだった。時間を有意義に使うために、我々だけで雑誌を作ったらどうだろうかと、私が提案すると数名の同僚が名乗り出た。雑誌のタイトルは「ともしび」と決めて、各自専攻分野の内容を載せ、詩、小説、随筆などを集めて雑誌を発行したのは感激だった。雑誌を作ろうと忙しく働いたので時間はそれなりに流れ、臨泉に到着してすでに4月が過ぎ、11月になった。

 『ともしび』については冒頭の引用で説明した。張俊河は尹在賢の小説を高く評価している。その後、朝鮮人学兵一行は重慶へ向かう。そこには金九率いる大韓民国臨時政府があった。尹在賢は日本軍の兵営を脱出して8ヶ月後、ようやく目的地に到達した。
 ここで彼らは独立戦争への参加を宣言し、熱烈な歓迎会を催された。〈その日その場に集まった眼の色も皮膚の色も異なる世界各国の人々が自由の旗の下、一つにまとまったのだった。〉実際に中国、アメリカ、朝鮮の他にどの国の人が集まったのかは書かれていない。しかし『石枕』によると米英をはじめ連合国側の相当数の人々(軍人だけでなくマスコミや医師なども)が重慶に滞在したことが分かる。
 しかし彼ら光復軍が朝鮮に進軍する前に日本軍は降伏してしまう。ルポ『死線を彷徨い』は戦後最も早く書かれた朝鮮人学徒兵、光復軍、臨時政府などに関わる貴重な証言である。私は大韓民国の成立が必ずしも民族独立を果たしたものとは考えていない。しかし、日本の植民地支配に対して朝鮮民族が何ら抵抗せず、アメリカとソ連によって作られた国家は戦勝国ではない、といった一面的な論調には同意できない。「死線を彷徨い」は朝鮮民族の抵抗の貴重な報告として読むことができる。後に書かれた『石枕』が『死線を彷徨い』を参考にしたであろうことは想像に難くない。
 また、ルポ『死線を彷徨い』は解放後最初期の文学作品としても評価されるべきだろう。尹在賢はこれだけの文学的才能を持ちながら、1948年アメリカに留学、生物学を学び遺伝子学の研究者として成功する。その後は、1979年に日本語小説『凍土の青春』を発行するまで、尹の文学は世に出なかった。

2015年8月 8日 (土)

尹在賢 『凍土の青春』

 痛哭して壇君の後裔に祈る。期してこの恨みを晴らせ

 尹在賢(ユン・ジェヒョン)という名を知っている人間がどれだけいるだろか? 1979年に『凍土の青春』という小説を講談社から出版した作家である。しかしそれ以外に情報がなかった。
Photo_4 『新日本文学』で「〈在日〉作家の全貌─94人全紹介」と銘打った特集を編集したことがある。No.643、2003年5・6月合併号だ。〈在日〉というのは「在日朝鮮人」を朝鮮籍、韓国籍、日本籍に拘わらずトータルに捉えた呼称として使った。──因みに磯貝治良は1979年に発行した自著『始原の光』に「在日朝鮮人文学論」と副題を付けたが、2004年に出した本のタイトルは『〈在日〉文学論』としている。
 『新日本文学』の編集時に、尹在賢が些か気になった。彼は在米韓国人で〈在日〉ではない。正確な生年も不明なまま「作家総覧」に4行で紹介した。「作家総覧」の注記に、1945年の日本の敗戦以後日本に在住して日本語で出版した作家・詩人を紹介した旨を記したので、尹在賢は例外とした。
 ところが最近偶然に尹在賢の名を目にした。インターネットハンギョレ한겨레の2014年3月の記事「もう一人の張俊河、尹在賢の生(또 한 사람의 장준하, 윤재현의 삶)」だ。『ある独立運動家の祖国(어느 독립운동가의 조국)』という本の紹介だった。去年の記事に今頃気がついたのだから間抜けだ。Chosun Media pubにももう少し詳しい記事が出ていた。早速本を取り寄せた。『ある独立運動家の祖国』の作者は尹在賢윤재현で、甥にあたる大学教授金賢柱김현주が編集した。
 尹在賢は1920年8月14日咸鏡北道會寧회령市に生まれた。會寧は朝鮮北東部(現在の朝鮮民主主義人民共和国)に位置し、豆満江두만강を挟んで中国吉林省延辺朝鮮族自治区龍井용정と向きあっている。
 1939年尹在賢は日本に留学、京都の同志社大学で英文学を学んだが、3年後学徒出陣で日本軍の兵役に引っ張られた。中国河南省淮陽部隊に配属されたが、1944年6月兵営を脱出して翌月光復軍に合流した。1945年1月には重慶の大韓民国臨時政府に到着し光復軍総司令部に副尉として服務した。朝鮮本土侵入直前の8月には西安に移動し、OSS(米軍戦略情報機関Office of Strategic Service)に所属して国内浸透工作のために待機中に日本の敗戦を迎えた。朝鮮に帰還したのは11月だった。国内では赤十字社で働いたが、朝鮮で過ごしたのは僅か3年程だったという。尹在賢はアメリカに留学し遺伝学を学び、1959~85年ボストン大学で生物学教授として勤務。人生の大半をアメリカで過ごし1994年4月ロサンゼルスにおいて74歳で他界した。韓国では無名だった。
 『ある独立運動家の祖国』には、「我が臨時政府(우리 임시정부)」(1946年)、「死線を彷徨い(사선을 헤매며)」(1948年)、そして上記の「凍土の青春」の三編の作品が集められた。これについては改めて紹介したいが、日本語で書いた『凍土の青春』についてだけ簡単に書いておきたい。
 『凍土の青春』は朝鮮、日本、中国を舞台に、1930年から1945年末頃までの激動の時代を疾走する主人公たちの青春ドラマだ。大日本帝国によって植民地支配された朝鮮、物語は作者の出身地である朝鮮半島の付け根部の町会寧から始まる。遊郭や兵舎で火事が起きる。独立軍の攻撃に対抗する日本官憲の取締と見せしめは凄惨で、関係のない庶民に犠牲が強いられる。主人公の李哲は割と裕福な家庭に育った学生で、家庭教師の李斗成の影響で民族独立の意志を強くしていく。李斗成は光州学生運動に関わった後、秘密裏に独立運動を遂行していた。他に斗成の同志で材木商を営む徐星やその妹で哲と愛し合う静淑などが登場する。時代は満州事変から盧溝橋事件を経て日中全面戦争時代へと移り、日本は戦線を拡大しアメリカとも戦争を始める。
 東京に留学した哲は卒業すると家族や恋人にも黙ったまま、東京の留置場で知り合った親友の待つ北京へ向かってしまう。着いたその日に北京から逃亡して、重慶にある朝鮮の臨時政府を目指して逃避行が始まる。「朝鮮の臨時政府」というのは大韓民国臨時政府のことだ。小説の中にも「上海時代」と出てくるように元は上海で組織されたが、日本軍の大陸進出に追われて1940年重慶に移った。小説で「上海の鷲」と呼ばれる主席とは金九を想定してのことだろう。一方、徐星はアメリカに亡命しOSSという特務機関に属してやはり中国にいた。OSSは作者尹在賢が実際に勤務した機関で現在のCIAの前身とされる。対日戦に力を尽くしたらしい。
 『凍土の青春』では、主要な登場人物の多くが過酷な運命を辿るが、主人公の李哲と恋人の徐静淑は長い別離期間を経て再開する。作者自身の日本軍脱出と臨時政府勤務という経験なくして、この現代史をダイナミックに捉えた小説は書けなかったに違いない。大韓民国臨時政府や光復軍について日本では殆ど知られていない。無視されてきた日朝関係史の一断面を見る思いで読むことができる。とは言え主人公は作者自身より6~7歳年上の設定で、事実そのものではないし、充分にロマンチックに再編されている。第二次世界大戦の終結から30年以上の歳月は作者に客観的視野を広げさせたに違いない。
 作者は作品を単なる悲劇に終わらせなかったし、反日憎悪一辺倒のドラマにもしなかった。哲は解放後、日本人避難民の中に、中学生の時警官の暴行から彼を救った警部を見つけ複雑な感慨を持つ。尹在賢は大日本帝国の支配者や軍部と国民をハッキリ区別していた。長い異郷での暮らしが冷静冷徹な判断をもたらしたのかも知れない。
 〈痛哭して壇君の後裔に祈る。期してこの恨みを晴らせ〉とは作中に出てくる言葉で、三・一運動の際に息子を殺された老父が遺した。戦後の朝鮮に絶望した尹在賢の恨みは『凍土の青春』によって晴れたろうか。
 作家には誰でも書かなければならない原点的作品がある。尹在賢は遺伝学者として生涯を過ごしたが、やはり作家だった。あとがきによると『凍土の青春』は出版を前提にしないで書かれた。ではなぜ尹はこの書かれなければならない作品を日本語で書いたのか? それは誰にも分からない。ただ知られざると言えども、文学の普遍的価値は民族、言語、地域そして時間を軽々と超えるのだということだ。
*この短文を『新日本文学』「〈在日〉作家の全貌─94人全紹介」の補足としておきたい。

2015年7月24日 (金)

朝日新聞 「声」 (没)

*朝日新聞「声」欄に投稿してことごとく没になっています。一部をブログに公開します。

 政治と連続する嫌韓・反中の雰囲気
 (2015年7月16日投稿)

 国会内外で安保法案が取りざたされている。違憲だから反対という意見に対して、中国の軍事大国化など国家の危機的状況に備えるべきだとの意見がある。韓国人や中国人を嫌い敵視する風潮は世間に溢れている。在日朝鮮人は直接攻撃の対象にさえなっている。日中国交回復後の中国ブームや、最近の韓流ブームを知っている者としては暗澹とした気分だ。
 フジテレビが6月5日に放送した「池上彰緊急スペシャル! 知ってるようで知らない韓国のナゾ」で、韓国の若い女性が日本に対する印象を語った。字幕には「嫌いですよ。だって韓国を苦しめたじゃないですか」と書かれたが、実際には「文化がとても多い。そして外国人が本当にたくさん訪れてくれるようです」と応えていたことが後で発覚した。嫌韓・反中の雰囲気はこうして作られてきたと感じた。デマや捏造はこれだけではないだろう。
 ヘイトスピーチ街宣はカウンターと呼ばれる差別反対運動によって今のところ押し込められている。本屋の棚を賑わせた嫌韓・反中本も、峠を越えた。しかし作られた危機感は安保法案に繋がっていないだろうか。歪んだ正義感は相手の本当の姿を見えなくさせる。確かに日本は危機的な状況にあると思う。しかしそれは本当に隣国のせいだろうか? 冷静に考えなければならない。


 朝日新聞の社説にがっかりする(2015年3月1日)

 3月1日の朝日新聞社説は〈ヘイトスピーチ包囲網を狭めよう〉というもので期待して読んだ。ところが内容はそれほどでもなかった。
 社説は、大阪市の有識者審議会の答申にふれたものだ。第三者機関がヘイトスピーチと認定すれば事実関係や改善措置を公表し、大阪市が被害者の訴訟費用を支援するという。その条例化にあたって社説で指摘しておきたいという。
 それは「表現の自由」の問題だ。答申が公共施設の利用を制限することもあるとした点に関して社説は〈公共施設は開かれた表現の場だ。過度な制約にならないよう、慎重に検討していくべきだろう。〉と言う。被害者を想定しないピントのずれた議論だ。公共施設からも路上からもレイシストは完全に追い出さなければ民主主義は守れない。
 政府に対して被害の実態調査を勧めるに至っては、一年時期が遅れてるだろうと、開いた口がふさがらない。新聞社なんだから社で取材して政府に問うべきだ。人種差別団体が自民党の選挙応援をしているので、政権が怖くてまっとうにヘイトスピーチも批判できないのだろう。欧米のマスコミに「極右政権」と呼ばれる安部政権に及び腰の新聞に存在意味はない。権力に媚びを売るな。


 朝日新聞は社説で差別を批判せよ(2015年2月24日)

 24日の朝日新聞に精神科医の斎藤環氏がコラムを書いている。先に曽野綾子氏が産経新聞に書いたアパルトヘイト容認コラムに関してである。斎藤氏は曾野氏の弁明も含めて差別主義者の発言を残念に思う以上に、曾野氏の差別発言に対する批判が概ね海外からのものだったことを惜しんだ。曾野綾子はああいう人だから今更批判してもニュースにならないという態度が差別を免責しているというのだ。正論である。
 ツイッター上などインターネット空間では批判もあったが、マスメディアの対応は鈍かった。せいぜい「ニューヨークタイムズ」はこう報じたとか、南アフリカ大使が産経新聞に抗議したとかいう受け身の報道しかしていない。いったい日本のマスメディアは差別に対抗する気があるのだろうか?
 朝日新聞はネトウヨ政権に気を遣い過ぎていないか。これは自重ではない。報道の自由を自ら放棄した自己検閲だ。差別記事批判をなぜ個人の寄稿に任せたのか。産経新聞のように「個人の見解です」と言い逃れるためか。ここは社説を以てハッキリ曾野綾子氏と産経新聞に抗議すべきだ。朝日新聞社の方針として差別扇動発言を批判するのだという態度を見せて欲しいものだ。


 公人の人種差別扇動発言は許されない(2015年2月13日)

 ヘイトスピーチをがなり立てる街宣活動の醜悪さが報道されるようになって、世間の顰蹙を買っている。ところが優しい言葉での民族差別はこの国に溢れていて止まることを知らない。
 産経新聞のコラムに、作家の曽野綾子氏が、日本の労働人口減少に関連して移民を受け入れた上で、人種で分けて居住させるべきと書き、ツイッター上ではかなり話題になっている。曾野氏は、南アフリカのアパルトヘイトを例に出し、住居は別にした方が良いとまで書いている。黒人差別人権侵害の制度として、かつて世界の批判の的となりその後廃止された人種隔離政策に賛意を示し、日本でも労働者を輸入して隔離して働かせろと言っているようだ。
 こういった他民族に対する優位意識の表れは新聞や雑誌上だけに止まらない。フジテレビの番組『とくダネ!』(2/12)で司会の小倉智昭氏は、韓国の「ナッツリターン事件」報道のなかで、
「韓国の人は自分の責任を感じるよりも、まず他人のせいにしたがるの?」
とコメンテーターとして同席した在日韓国人医師に執拗に詰め寄った。
 これも民族差別に他ならない。一人の犯罪被告を以て韓国人全体を貶めている。
 差別扇動表現は、乱暴な言葉使いだから悪いのではない。丁寧に言っても同じこと。特に公共の場でのヘイトスピーチは厳に慎んで欲しい。

2015年6月17日 (水)

黄英治『前夜』

絶望的状況下、在日朝鮮人は実存する

Photo 在日朝鮮人は見られてこなかった。
 1973年に韓国の民主活動家だった金大中が韓国中央情報部(KCIA)によって日本のホテルから拉致されて、ソウルで軟禁状態に置かれるという金大中事件が起こった。1970年代には詩人キム・ジハの投獄に大江健三郎や鶴見俊輔が抗議した。また多くの在日韓国人が韓国の独裁政権によって政治犯として囚われた。日本の知識人や市民は金大中やキム・ジハの救援に動いた。そして金鶴泳が文芸賞、李恢成が群像新人賞に続いて芥川賞を受賞すると在日朝鮮人作家たちが注目されるようになる。ようやく在日朝鮮人が見えはじめたかに思われた。
 1980年、光州民主化抗争に伴う軍部の虐殺に日本の市民は抗議し、一部では在日との連帯が試みられた。しかし1988年のソウルオリンピック後の小さな韓国ブームでも、在日朝鮮人が日本人の視野に入ってくる機会は少なかった。この頃にはバブル経済が破綻する一方で、韓国をはじめ新興資本主義国の台頭に日本人は「自信」失いはじめていた。
 2002年日韓ワールドカップを経て、2003年にNHKで放送された韓国ドラマ「冬のソナタ」が火付け役となり、2004年に「宮廷女官チャングムの誓い」が放映されると韓流ブームが広がり、2000年代後半にはK-POPもブームとなった。しかし在日朝鮮人は脚光を浴びない。
 韓国や中国に対する日本人の持ったこれまでの優越意識は、一部では嫉妬にも似た感情を生み出していた。新大久保界隈にコリアタウンが広がり、韓国料理が珍しくなくなってきた頃、非正規労働という不安定で差別的な労働形態が一般的になってきた。暗く疲弊した日本人の、明るい韓流ブームに対する嫉みは韓国や在日朝鮮人にも向けらるようになっていった。インターネット上に差別的言辞を吐くネトウヨなる輩が増殖し、一部は路上に出て「行動する保守」と自称した。
 2012年12月に第2次安倍内閣が誕生すると「日本」を自画自賛しながら、韓国や中国を敵視し蔑視する風潮が顕著になった。
 黄英治の小説『前夜』は、韓流ブームが起きても嫌韓になっても日本社会において実態として見えない朝鮮人に光をあてて見せた。
 主人公のひとり共田浩規は大学を出てもパン工場の非正規労働者として働き、単調で過酷な労働で心身共に疲れている。父は製薬会社のリストラ担当部長で鬱病。浩規の両親は帰化朝鮮人で、浩規は父の暴力などから連想する「朝鮮」が嫌いだった。肉体的にも精神的にも疲弊して将来を展望することのできない浩規は、いつしかレイシストのデモに参加するようになる。
 一方、在日朝鮮人の尹奉昶(ユン・ポンチャン)はZTグループの朝鮮人学校襲撃にショックを受けている。奉昶は恋人の羅淳子(ナ・スンジャ)とともにレイシストに対して抗議しようとするが、黒い星屑と称されるレジスタント安三悦(アン・サミョル)が抗議を始めると集団暴行されたあげく警察に逮捕されるのを見て、恐ろしくなり何も出来なかった。
 共田浩規はZTグループのデモに加わって、気分が高揚し自分が強くなった気がしていた。浩規はデモで知り合った男を通じてグループと深く関わっていく。
 デモの現実に圧倒され傷心するが再び抵抗の計画を練る尹奉昶と、製パン工場の夜勤で体が鉛のように重くなりながらも高揚していく浩規、二人の青年は何度もすれ違いながら徐々に近づいていく。これはヘイトスピーチを扱っているが、ヘイトスピーチに抗議するための小説ではない。無論作者が「あとがき」に書いているように、意図するところは〈炭鉱のカナリア〉なのだろう。『前夜』に書かれたものは酸素の薄まった坑内で懸命に働く坑夫たちの姿だ。しかし『前夜』は絶望的状況を描いただけに終わらない。
 右傾化して排外主義がはびこる世界において、人間がいかにしたら恢復できるのか読者に問うた小説なのだ。そして少数者であるけれども在日朝鮮人がここにいるのだと、その実存を見せつけようという試みでもある。
 黄英治の文学はこれまでの『記憶の火葬』(影書房)『あの壁まで』(影書房)や単行本未収録の作品も、決して告発の文学ではない。むしろ自省の文学と呼んで良い。黄英治の批判の矢はまず先に自己を貫いて闇を照らす。

                                      (黄英治『前夜』コールサック社 1500円+税

2015年6月 3日 (水)

『さらば、ヘイト本! 嫌韓反中本ブームの裏側』 ころから

歪んだ欲求から生み出された嫌韓反中本は終焉に向かうべし!

Photo_2 ヘイト本とは、〈よその国を十把ひとからげにし、他民族を嘲笑したり、排外主義を煽る本〉のことだ。要するに『大嫌韓時代』や『マンガ大嫌韓流』などのことだが、本書で章を設けて批判されている『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった』などの一見まじめな本のように見える本でも、中身がデマで、歴史的事実をねじ曲げて特定の民族を貶める本も含まれる。
 出版社のからころは、すでに『NOヘイト! 出版社の製造責任を考える』などを出版し、差別憎悪扇動に荷担する出版に抗する動きをしてきた。
 伝説的漫画誌『ガロ』の版元である青林堂が、今日のヘイトを代表する出版社に変わっていく過程はまさにリアル。単なる儲け主義に走っただけではなく、〈スピリチュアルから右翼、そしてネトウヨの世界に近づいていった〉のだった。自分の存在に対する不安が、国家や「日本」に結びついて他者を排撃していく。これはオウム真理教などのカルトと変わらない。幸福の科学などの宗教団体の排外的な政治活動とも通じる。戦前の国家神道も、神社信仰の長い歴史を破壊して誕生したカルトだった。外国の価値観や共産主義に対峙して国民(臣民と呼んだが)を軍国主義に統合する精神的支柱として創造された。そういう意味でネトウヨを「信者」と呼んでも過言ではない。恐ろしいことだ。もちろん編集者としての「望むべき社会像」を持たないで、売れることを第一目標に掲げる花田紀凱(かずよし)のような人物もいて、嫌韓反中の風を煽っている。
 この本はヘイト本が作られる過程を紹介しただけに留まらない。制作者の心の問題にまで踏み込み、立ち直りを促す。ネトウヨは〈どうも気に入らない存在、どうしても攻撃したくなる存在〉を自分の内面に持ち、それを外部に投影する。分析心理学では、それを「影─シャドー」と呼ぶそうだ。深沢潮の小説『ひとかどの父へ』において、主人公朋美の美人で向上心豊かな友人ユリに対する感情がこれだ。朋美は劣等感から厳しい母に対しても僻み、幼いときに失踪した父が朝鮮人であることを知ると、大いに恐れおののき、結局は自己の内面を覗かなければならなくなる。
 ネトウヨにとっての「影─シャドー」は韓国・朝鮮、中国そして在日が主だ。そこにアイヌや震災避難民、障害者、被差別部落民など攻撃しやすい諸々のマイノリティーならなんでも入ってくる。攻撃には快感が伴う。これは麻薬のようなものなのだろう。しかし本書で指摘されている様に、日本は長い中国や朝鮮との関係性のなかで存在する。単独では日本民族だっていないのだ。だから人類学的にも文化的にも我々はすべて混血だ。民族はあっても純血な民族なんてあり得ないことを知るべきだろう。
 ヘイト本の出版は単純に金儲けだけのためのものではなかった。もちろん「仕事」として依頼されて参加するケースが多いのだろうが、おおもとは上記のような歪んだ欲求に依拠している。これはもう「悪意」にしか過ぎない。もう一つ、ネットユーザーの多くがヘイトスピーチを悪口や批判と誤認している点も糺されなければならない。これが意外と面倒なのだ。悪意を深く内在した者にとって、マジョリティーに依拠してマイノリティーを攻撃することは普通の悪口にしか感じられないのだ。その非道が理解できない。だから日本に対するヘイトとか、カウンターのヘイトなどと訳の分からないことを言い出す。ヘイトスピーチに関する正しい理解が国民に普及しなければ、日本は戦前と同じ道を歩むだろう。
 安倍晋三からトップダウンで排外主義的空気が降りてきて日本を覆っている今日、この靄を吹き飛ばす良心の声を大きくする拡声器として、出版関係者や書店員に限らず、一般読者、ネットユーザーにも広く読まるように願う。そして嫌韓反中のヘイト本出版は割が合わない社会になってほしい。

«深沢 潮『ひとかどの父へ』朝日新聞出版