フォト
無料ブログはココログ
2024年3月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

『在日朝鮮人文学 反定立の文学を越えて』(新幹社) 

Hyo01『在日朝鮮人文学
 反定立の文学を越えて

                                    新幹社 1500円+税
 
 *お近くの書店の他、Yahoo!ショッピング、 amazon、楽天など
  でも取り扱っていますが、
    お急ぎのご注文は、新幹社:TEL03-6256-9255へ
  

 


『在日朝鮮人文学 反定立の文学を越えて』所収論考 初出一覧 

錆びた洗面器から文学は生まれた 『ほるもん文化』7号(1997年2月)
「在日朝鮮人文学」の変容とは何か 『國文學』2009年2月号(第54巻2号)
「民族エゴイズムのしっぽ」を断ちきって 『新日本文学』2001年5月号
在日朝鮮人文学史を根本から見直す、脱植民化の実践  「愚銀のブログ」2016年1月
転換期の作家・李良枝  『神奈川大学評論』47号 2004年3月
金重明『幻の大国手』再読  「愚銀のブログ」2016年8月
国家主義史観を打破する──金重明『小説日清戦争』 『図書新聞』2019年2月23日号
「蔭の棲みか」は何を描いたか  『朝鮮新報』13443号 2000年4月19日
「在日」の記憶を葬ってはならない  『民族時報』第1118号 2007年7月24日
父親は死刑囚 黄英治『あの壁まで』 「愚銀のブログ」2016年8月
黄英治『前夜』──絶望的状況下、在日朝鮮人は実存する 『神奈川大学評論』82号 2015年11月
忘却に対抗する記憶──黄英治『こわい、こわい』  『図書新聞』2019年6月1日
我が内なる憎悪と対決せよ──深沢潮『ひとかどの父へ』  「愚銀のブログ」2015年5月
繊細で壮絶な抵抗──崔実「ジニのパズル」  「愚銀のブログ」2016年5月
ヤン ヨンヒ『朝鮮大学校物語』 「愚銀のブログ」2018年5月
目は海の青に染まり、胃はサザエで満ちる──『済州島で暮らせば』 「愚銀のブログ」2018年5月
〈私〉の物語から始まる同時代への批判 『オルタ』2000年12月号
人民の自由は地上にあるのか?──JR上野駅公園口 「愚銀のブログ」2014年6月
『貧乏の神様』を読んで『仮面の国』を再読する 「愚銀のブログ」2015年4月
柳美里文学の旋回─孤独から連帯へ『人生にはやらなくていいことがある』 「愚銀のブログ」2017年1月
金泰生と在日朝鮮人文学の戦後 『さまざまな戦後』[第一集] 1995年6月
鄭承博と金泰生 『〈在日〉文学全集』第8巻 解説 2006年6月
虚無と対峙して書く──金石範論序説 『社会文学』第26号 2007年6月
在日の実存を済州島に結ぶ  『神奈川大学評論』83号 2016年4月
「泥酔の四十二階段」の問題 『同行者大勢』11号 2015年6月
戦い続けなければ「民主主義」は奪われる──金石範『過去からの行進』  「愚銀のブログ」2012年4月
畏怖する文学──金石範「地の底から」 「愚銀のブログ」2014年1月
闘う老作家の生きる意欲を見た──金石範「終わっていなかった生」 「愚銀のブログ」2015年12月
作家精神の習作期を問う──金石範「消された孤独」 「愚銀のブログ」2017年9月
痛哭して壇君の後裔に祈る──尹在賢『凍土の青春』 「愚銀のブログ」2015年8月
朝鮮学徒志願兵の抗日闘争──尹在賢『ある独立運動家の祖国』 「愚銀のブログ」2015年8月
「学徒兵世代」の描いた朝鮮民族の傷痕──麗羅『山河哀号」 「愚銀のブログ」2017年2月
日本プロレタリアートは連帯していたか  『新日本文学』2001年9月



佐川亜紀さんのHPでご紹介頂いています。


2024年3月 1日 (金)

高史明『夜がときの歩みを暗くするとき』「弥勒菩薩」「邂逅」

「在日朝鮮人文学」ないしは「パンチョッパリ」文学としての高史明初期小説

 昨年7月、作家高史明が死んだ。91歳だった。高史明は山口県下関市生まれの在日2世で、自らの少年期を描いた少年向けの読み物『生きることの意味―ある少年のおいたち』(1974年12月 筑摩書房)で多くの読者を得た。また『歎異抄』など親鸞のことばを媒体とした人生論作家として知られる。
 しかし、その作家としての出発は小説だった。
Photo_20240301222703
 高史明の最初の作品『夜がときの歩みを暗くするとき』(1971年6月 筑摩書房)の主人公境道夫は日本人だ。広島の被爆孤児で、共産党に救われ生きる意味を見いだしていたのだが、1950年代前半、分裂共産党時代の暴力革命指令に翻弄され、また「人妻」である泉子との恋愛関係を組織に糾弾されて苦悶する。

 一方で民族革命と日本共産党の活動との狭間で悩む朝鮮人の友人金一竜らも登場する。しかし作家自身の心情を写したのは、むしろ日本人である境のほうだ。その点を小田実や金時鐘は批判的に見ていた。
 高史明の視線は朝鮮民族に向かっていない。高史明にとっての「朝鮮」とは父であり、故郷下関の朝鮮人部落であった。朝鮮半島の南にも北にも実感を持てなかった。
 とはいえ高史明は法隆寺の仏像を観たり、朝鮮の文学に接したときには〈自分のなかにある特殊な感情、あるのめり込みの感情が起きる〉(『彼方に光を求めて』1973年 筑摩書房)。朝鮮を発見し、朝鮮を求めているのだ。しかし高史明の朝鮮は単純にナショナリズムとは結びつかない。
 高史明は1950年代前半の分裂共産党の不幸な時代に、自己の倫理観や愛や善悪を超越して組織から下された指示に依存し、組織との一体感に心酔していた。しかし結局は朝鮮人であることによって組織を放り出された。
 この体験を通して高史明は、属して依存することの危険性を実感している。高史明にとって「ナショナリズム」とはそういった意味をもった。ナショナリズムは高史明の拠り所とはならない。
 しかし作家デビューした高史明は、周囲から朝鮮人作家の一人として認識され、評価された。小田実らによって朝鮮人の登場人物の視点で書かれた方が良かったと指摘されると、高史明はそれはたんに作者の力不足だと応えている。(「書評 高史明著『夜がときの歩みを暗くするとき』」『人間として』7 1971年9月)
『夜がときの歩み~』は季刊文芸誌『人間として』創刊号(1970年3月)から4回に渡って連載され71年6月に出版された。『人間として』7号に、合評形式の上記書評が掲載され、小田実・金時鐘・高史明・柴田翔・真継伸彦による「〈討論〉ことばと現実」でも取り上げられた。
 同討論で金時鐘は高史明について〈彼は朝鮮語を深層心理の中にもっていないと言いながら、自分の言語の体質感として、すでに朝鮮語をもち続けているということではないかと思うのですよ。〉と、かなり穿った見方を披露した。ここで金時鐘は主人公が朝鮮人でなく日本人であることに不満を唱えた。〈私たち自身は私たちを書くということにもっと徹するべきではないだろうか? とりもなおさず在日朝鮮人の文学が自立し得るゆえんでもあるわけだが……。〉と言うのだ。
 こうした偏狭な民族主義的文学論に高史明は音を上げた。そもそも悪童だった高史明は小学校の苦手な勉強のなかでも作文が一番嫌いだったと言う。母のいない、日本語のうまくない頑固な父との貧しい暮らしで、自分を書くことに引け目を感じていたのだ。在日朝鮮人知識人とは付き合いがなかった。たんに朝鮮語を知らなかったし、日本語作文の訓練もできていなかった。
 高史明が『夜がときの歩み~』を書いたのは民族意識ではない。組織で査問されながら、その自分を組織原則で守るために、彼の理解者である別の党員を積極的に査問し、日和見主義者として猛烈に批判した過去への罪障感のためだ。この主題の大きさに主人公を朝鮮人に設定する必然性を、高史明は確立できなかった。
 それでもその後、朝鮮人を主人公とし在日朝鮮人の抱えたものを描いた作品を、高史明は2点発表している。『人間として』7号(1971年9月)に発表された「弥勒菩薩」と、『季刊三千里』3号(1975年夏)に発表された「邂逅」だ。

Photo_20240301222702
「弥勒菩薩」の主人公洪英泰は密航者だ。

 英泰は少年期に父に連れられて朝鮮に帰り、長閑な田舎で暖かく迎えられたが、朝鮮戦争が始まって徴兵された。英泰の部隊は〈共匪〉追討のために英泰の部落を襲った。英泰は引っ張り出された従兄を銃殺しなければならなかった。それから2ヵ月後、英泰は軍隊を脱走し、故郷を捨てて日本へと密航した。
 九州の貧しい朝鮮人家族が密航者の彼を匿ってくれた。女一人で六人の子どもを養っていた母親は、英泰が不安定な密航者だから固持しても、娘の徳子を嫁にくれたのだった。
 英泰は東京で小さな製本所に勤務していたが、依然として登録のない密航者のままだった。英泰は在日朝鮮人のどんな組織にも属しておらず、いつ逮捕されるか分からない無国籍の密航者としての不安を抱えていた。徳子が妊娠すると、無国籍者の立場では育てられないと、無理矢理堕胎させた。
 徳子は情緒不安に陥った。英泰の不安が徳子に反映したに違いない。徳子は精神錯乱を激化していき、刑事に追われる妄想に苛まれていた。
 英泰は徳子を慰めるために京都旅行に連れて行く。京都で訪れた寺の仏像の前で徳子は一心不乱になる。救いを求めて、弥勒菩薩が現世に現れるまでの年月「五十六億六千九百九十九万七千五百」を唱える姿はすさまじい。
 この仏像は、作中には明記されていないが広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像だと推定できる。
 また主人公が朝鮮人の組織と無関係である点は作者である高史明自身を反映している。
 密航者の悲哀が主題だが、追い詰められた精神描写の背景に、韓国のファシズムや戦後日本の不安定な雰囲気も窺える。

Photo_20240301222701  もうひとつの短篇「邂逅」は在日朝鮮人の主人公が、生まれ育った町を訪れた話だ。河求泰は大阪で小さな焼肉屋を営むが、16歳の時に離れた北九州の海辺の町を24年ぶりに訪ねた。彼ら朝鮮人部落の子どもたちが遊んだ風景はなくなっていたが、旧友石文植は暖かく迎えてくれた。
 石文植は日本人妻と二人の子どもとの暮らしで、韓国籍を取得していた。日本への帰化も図ったが拒否されていた。
 河求泰は、朝鮮人と言われながら朝鮮を外国のように感じていた。石文植は生まれ育った日本のこの町が自分の故郷だと言った。
 北朝鮮へ「帰国」した友もいた。しかし、河求泰にとって〈この土地が、この土地の風と空が、彼の故郷であった。たとえ、それが異国の地であっても、この土地をしっかりと両手に抱きしめるほかないのである。彼は、静かに首を横にふりつづけながら思う。おれは、この土地から、出発するほかないのだ……逃げることはできない、おれの悲哀は、この土地とともにある。〉
 こうした感傷は、済州島生まれの金泰生や、大阪生まれとは言え朝鮮と身体的繋がりの深い金石範、そもそも済州島から逃げてきた金時鐘とは異なる。李恢成のサハリン、梁石日の大阪猪飼野のように高史明の下関は故郷として存在した。
 小説「邂逅」は高史明の極初期の作品だが、「祖国」に向かうスタンスを象徴した作品と言える。

 高史明は言う〈わたしは、朝鮮人の一人である。わたしの社会的いとなみは、外国人登録証の登録番号第182877号と切れたところにはない。〉(「明日への断想」『季刊三千里』2号 1975年夏)
 この時点で高史明のアイデンティティーは外国人登録証にあった。
 高史明は、日本人ではないが朝鮮人とも言えない「半チョッパリ」つまり半分日本人野郎という悪罵に自己を見いだしていた。高史明は在日朝鮮人の組織にも縁遠く、同世代の李恢成のように祖国の統一や韓国の民主化に意識の多くを割くことはなかった。
 その上高史明は暴力に溺れた悪童であったし、自らが批判されたことば「日和見主義」で他人を貶める者であった。日本共産党の活動家であったが、朝鮮人であるが故に排除され、朝鮮人の組織からも敬遠されていた。そして12歳の息子に自殺されるまで、息子の苦悩に気づかずにいた親であった。(けいこう社Webマガジン「在日朝鮮人作家列伝 06高史明」を参照されたし。)
 最初の自伝的作品「歎異抄との出会い」三部作の第三部『悲の海へ』(1985年10月 径書房)の冒頭は『教行信証』の引用から始まる。

一切の群青海(ぐんじょうかい)、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染(えあくわぜん)にして清浄(しょうじょう)の心なし。虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心なし。

 高史明が穢悪汚染たる自身を受け入れるまでには時間がかかる。しかし1970年代前半、つまり愛息岡真史を失う以前に小説を書いた営みこそ、高史明の踏み台になったに違いない。
 高史明が傾倒した親鸞の思想については、筆者も考える点が少なくないが、それを語る任ではない。

2024年1月23日 (火)

キム・ヨンス『七年の最後』橋本智保訳 新泉社

書き残せる者は書け
キム・ヨンス『七年の最後』橋本智保訳 新泉社
Photo_20240123155701  書くことによって救われる、生きることができるという境遇は幸福だ。書かないことでしか命が保障されないとしたら、どうすれば良いのか。
 書かない詩人はいない。
 『七年の最後』のキヘンは自分が詩を書いていることをベーラに告白した。北朝鮮の人には絶対に見せないようにと言葉を添えてノートを渡した。
 モスクワに戻ったベーラは国立映画大学にリ・ジンソンを訪ね、翻訳して貰うためにキヘンから預かったノートを渡してしまう。リは美しい朝鮮語で書かれた詩だと言ったが、ノートを持ったまま行方不明になる。
 詩人白石(ペク・ソク)については、アン・ドヒョン(五十嵐真希訳)『詩人白石 寄る辺なく気高くさみしく』を読むまでほとんど知らなかった。『詩人白石……』に書かれた通り、キヘンである白石は人生の後半を詩人としてではなく羊飼いとして送った。
『七年の最後』は白石の主に後半生を描いた。白石は田舎で教師をしながら詩を書いて暮らしたかった。現実には詩作はままならず、ロシア文学の翻訳をしたり通訳をして糊口を凌いでいたが、やがて極寒の館坪協同組合の畜産班に配属され、羊飼いの任務を負わされて生涯を送った。
 小説はロシアの詩人ベーラから始まる。ベーラはゴーリキー文学大学で学んだ女性だ。ゴーリキー文学大学と言えば、日本人として初めて卒業した奈倉有里の『夕暮れに夜明けの歌を』を思い出す。ロシアの政治指導者が新自由主義者であれ国家主義者であれ、ロシア文学の価値は下がらない。
 ベーラの故郷はスターリングラード(ヴォルグラード)だ。ロシア人が誇る「大祖国戦争」で廃墟になりながらナチス軍を破った都市である。ロシア愛国主義のアイコン的歴史だ。逢坂冬馬『少女同士よ敵を撃て』でも背景に描かれた。
『七年の最後』の政治的背景は、朝鮮半島の南北分断統治であり、スターリン個人崇拝からスターリン批判への政治史推移のなかにおかれた北朝鮮という場だ。そこは朝鮮戦争後、対抗勢力の排除が進み、金日成絶対化が構築されつつあった。日本では、共産党が主流派(所感派)と国際派に分裂し、幼稚な軍事路線に走り人民の支持を失っていった時期だ。
 主人公キヘンは朝鮮半島が南北に分断された後、北側を選んだ文学者の一人だった。多くの詩人・作家たちは身の置き所を探して南へ北へと移動した。南側でアメリカが立てた李承晩政権が南北分断統治を推進し、南側で競争者を抹殺していき独裁権力を振るった。そこに民主主義も人権の保障も執筆の自由もなかった。
 ソ連や北側の社会主義政権が民主的・民衆的だと思った多くが北に残ったり、わざわざ越北した。この小説では李泰俊や韓雪野をモデルとした人物が登場する。
李泰俊こと尚虚(サンホ)は粛清された反動的作家として、韓雪野は作家同盟委員長秉道(ピョンド)として、金日成体制に沿って粛清する側として、しかし白石を庇護する立場でもあった。秉道がいなければキヘンは僻地で生きることさえままならなかったに違いない。
 北側に行って、粛清されたり消息不明になったりした文学者は、李光洙、李石薫、金億、林和など限りない。韓雪野も後に粛清されている。体制に従順に書くことも簡単ではない。
 では政治に関わらずに生きられるだろうか。もとよりキヘンが望んだことだが、誰も政治と無関係に生きてなどいけない。
 純粋文学作家だった尚虚は「思想検討」で追い詰められた。もともと政治的作風ではなかった尚虚は書けないことで糾弾された。
〈一九五八年、平壌の人々にはまったく自由がなかったというのは、こういう脈絡からだった。彼らは言われたとおりに聞いたり見たりしなければならなかった。また言われたとおりに話さなければならなかった。〉
 政治方針が方向を変えれば上部は態度を変えることができようが、下の者は慌てる。
政治と無関係に生きることなど誰にもできないが、「政治的人間」も存在し得ない。体制派作家である秉道でさえ葛藤のなかに生きていた。
 在日二世の作家高史明(コ・サミョン)は日本共産党の活動家だった1950年代、恋愛を党に認められず「思想点検」を受け、党の軍事方針に疑問を抱いていた態度などを日和見主義として指弾された。日和見主義を自己批判し、同志の査問に積極的になったとき、党は暴力主義の排除に方針転換して、彼は極左冒険主義と言われた。
 しかし高史明の場合はそれが本人にとってどんなに切実な問題だとは言え、組織内のことだ。
 尚虚やキヘンたちの場合は国家から受ける点検であり、直接に生命の問題だった。逃げ場がない。
 キヘンはベーラ歓迎の晩餐に出席を命じられた。1957年6月のことだ。キヘンは秉道とベーラの通訳を担った。秉道はベーラの故郷スターリングラードを讃えた。しかしベーラはスターリングラードを誇らしく思っていなかった。
 キヘンは思う。秉道の言う芸術には陰影がなく真っ白に塗り潰した絵に過ぎない。
 ベーラに託された詩の書かれたノートは政治に搦め捕られて、キヘンの思想の「反動性」は権力者の掌中にあった。
 政治権力を操る者は、自らが生き残るために容赦がない。彼(ら)がどんなに立派な人格者、成果を上げた革命家だったとしても、英雄として祭り上げてはいけない。英雄は要らない。わたしたちは「指導者は必ず裏切る」と知るべきだ。
 農夫となったキヘンは、手紙や詩を書きたいだけ書き、暖炉にくべた。〈一篇の詩を書き、読み、紙を破って暖炉に入れ、その炎を眺め、〉彼は満ち足りた気持になった。これまでの生涯に書いてきた詩も、新しく書いた詩も同じように燃えて消えた。
 この小説は、詩とは何か文学とは何かと問いかけてくる。この薄汚れた政治社会で生きるとはどういうことなのか。キヘンは書けない詩を書き続けたに違いない。
「作家のことば」「訳者あとがき」までしっかり読んで欲しい。

2023年11月25日 (土)

金石範『鬼門としての韓国行』

金石範『鬼門としての韓国行 『火山島』への道』三元社
다가오는 역사를 바로 보자
政治に抗い虚無を突き破る

Photo_20231125143301  金石範は1988年11月、42年ぶりに故国行を果たして以降、30年弱の間に合わせて13回韓国に入国している。その度に紀行文などで旅の意味を書き残していてる。*その簡単な内容紹介は趙秀一「解説 金石範の訪韓紀行文について」(『金石範評論集Ⅱ 思想・歴史論』)にまとめられている。
 『鬼門としての韓国行』は2段組の分厚い本だ。渡韓したさいの紀行文に合わせて、入国を阻まれたときの所感や、金石範の歴史思想の中核をなす「親日派」批判、四・三犠牲者発掘作業に題材をとった「地の底から」などの作品も集録している。
 これらの記録は単なる紀行文に止まらない。政治との厄介な折衝を含む、金石範の文学的立場の表明であり、『火山島』などの小説を書いていく環境変化の描写でもある。

【韓国(朝鮮)渡航一覧】
 ここでは先ず金石範の朝鮮(韓国)渡航を、金石範の年齢と韓国の大統領を付けて一覧とする。
[戦前]
○1925年10月2日大阪生まれ。
○幼児期に数度済州島に行ったことがある。
○1943年、17歳の秋~44年夏、済州島に滞在。
○1945年3月、ソウルに渡航、4月には済州島で徴兵検査。ソウルに戻り、5月末に大阪に帰った。
【戦後】
○1945年11月(20歳)ソウルに渡り、翌46年夏、一ヶ月の予定で大阪へ密航。そのまま日本滞在が続いた。
 ―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・
○1984年12月(全斗煥)、59歳。『火山島』全3巻で大佛次郎賞受賞、朝日新聞のセスナで済州島近海まで飛んだ。
①1988年11月4日~25日(盧泰愚)、63歳。『文學界』の取材及び韓国の民族文学作家会議、実践文学社の共同招請で42年ぶりの故国行。
○1991年の10月に再度の故国訪問を予定していたが、韓国政府(盧泰愚)の入国拒否で果たせなかった。
②1996年10月2日~18日(金泳三)、71歳。 96’文学の年組織委員会(韓国政府後援)主催「ハン民族文学人大会」参加
③1998年8月24日~9月2日(金大中)、72歳。第2回東アジア平和と人権国際シンポジウム――「済州四・三」50周年記念国際学術大会 参加
④1999年9月29日~10月2日(金大中)、74歳。海外同胞地位向上協議会創立会議に参加
⑤2001年4月1日~9日(金大中)、73歳。「済州四・三事件の跡地と今を巡る旅――金石範さんと共に巡る済州四・三」
⑥2003年3月19日~23日(盧武鉉)、77歳。済州MBC四・三特別企画「四・三と〈火山島〉」出演。
⑦2005年4月1日~7日(盧武鉉)、79歳。民族文学作家会議主催「全国民族文学人済州大会」への出席と、韓国民族芸術人総連合主催「四・三前夜祭」での挨拶
⑧2006年10月13日~17日(盧武鉉)、81歳。 韓国日語日文学会学術大会の招聘講演及び慶州視察
⑨2007年11月9日~13日(盧武鉉)、82歳。日本平和学会2007年度秋季研究集会「東アジアにおける〈民衆の平和〉を求めて――日韓歴史経験の交差」(済州四・三研究所、済州大共催)に発言者として参加。済州空港における虐殺死体発掘の現場に立ち会う。父の山所(墳墓)と祖母の移墓の相談。
⑩2008年4月2日~7日(李明博)、82歳。済州島四・三事件60周年「在日同胞・日本人四・三交流訪問団事業」
⑪2015年3月30日~4月7日(朴槿恵)、89歳。済州島四・三平和賞本賞授賞式で演説。
10月韓国語版『火山島』全訳完成の出版記念シンポジウムは入国拒否される
⑫2017年9月15日~19日(文在寅)、91歳。第1回李浩哲統一路文学賞授賞式で演説。
 金石範文学シンポジウム「歴史の〝正名〟と平和に向う金石範文学」に出席、基調講演 「『火山島』と私――普遍性に至る道」
⑬2018年4月2日~8日(文在寅)、92歳。済州四・三平和財団の招待。
 上の一覧を見ても分かるように、金石範の韓国行は時の韓国政府の性格によって左右されている。

【『三千里』編集委員の訪韓に反対】
 1988年に42年ぶりの韓国行を果たす前に、1981年春、金達寿、姜在彦、李進煕氏ら『三千里』編集委員たちが訪韓したさいに金石範は強く同行を求められた。
 しかし、金石範は『三千里』を背負っての訪韓には反対した。全斗煥軍事政権の誘いに乗って行くわけにはいかない。『三千里』が「南」に対しても「北」に対しても骨抜きの存在になってしまうからだ。
 金達寿ら『三千里』編集委員たちの、韓国行の目的は光州事件で死刑宣告を受けた三人の政治犯たちの減刑釈放の請願という名目だった。全斗煥訪米のあとで死刑執行はあり得なかった。編集委員たちは滞韓中、受刑者達への面会を予定にいれず、政権に抗う民主勢力との接触もなかった。
〈前年五月の全斗煥政権による光州虐殺の一周忌にもなっていないことが、何ともいえぬ死者たちへの冒涜のような気がした。〉P321
 金石範は韓国政府筋の招請には非常に慎重だった。政治の季節に生きる「在日」の作家たちにとって「韓国」は鬼門だったのだ。その門をくぐると大体、文学がダメになったしまうと金石範は考えた。
 1988年11月4日、42年ぶりの韓国行を果たした金石範だったが、国籍が「朝鮮」のままで旅券は発行されず、臨時発給の「旅行証明書」での渡航だった。
 金石範は催眠弾のにおうソウルの街を歩き、また講演や懇談会、歓迎会のスケジュールに追われた。故国の地での歓迎の集まりに心が震えた。また都市貧民の密集地域を訪ねた。再開発による住民の追い出しは、撤去暴力集団によって容赦がない。光州へ行き、光州虐殺犠牲者の望月洞墓地を参拝した。木浦の儒達山に登り、莞島から快速艇で済州島に到着した。
 このような自由な視察は官製の韓国訪問ではなし得ない。
 済州島では済州大学での講演、懇談会に忙しかったが、反共連盟事務局長や幹部による強引な済州道知事、済州市長との面会は拒否した。

【故郷とは何か】
 大阪生まれの金石範は何故済州島に拘るのか。
〈故郷はただ受動的に一定のところで生まれたからとしてそこが故郷になるのではなく、自分の意思で内部に故郷を培い、はぐくみ、作りあげるべきものだと私は考える。〉P70
 1925年生まれの金石範は、生まれたのは大阪だが、両親は済州島出身で、母親が妊娠中に渡日している。
 13歳のときに済州島に渡って数カ月を過ごし、自分が「日本人」ではなく朝鮮人だという民族的自覚と反日思想を自分のものとしていった。
 1943年17歳の秋、父の妹である叔母の家がある済州島の済州市禾北洞(ファブクトン)や、漢挐山観音寺に寄宿して朝鮮語の勉強をしたり、朝鮮独立について考えていた。翌年夏には大阪に戻ったが、済州島で独立を語り合った友は逮捕されてしまう。
 1945年3月、徴兵検査を口実にソウルに渡り、4月には済州島で徴兵検査を受けて第二乙種合格。ソウルに戻り禅学院で李錫玖(イソック)先生とその弟子である張龍錫(チャンヨンソク)らと出会う。彼らは独立運動の闘士だった。5月に発疹チフスに罹り入院。月末に一旦日本に戻って敗戦を迎えたが、11月にはソウルに渡り、張龍錫らの建国同盟に合流。翌46年には漢学の大家鄭寅普が創設した国学専門学校国文科に入学した。この鄭寅普(チョンインボ)は李光洙や崔南善らとともに日本当局の執拗な親日派転向工作のターゲットだったが、屈することがなかった人だ。金石範の師は親日に堕ちず非転向を貫いた人だった。
 また独立運動の同志たちは、金石範が日本に帰って朝鮮に戻れなくなっていたあいだに、李承晩政権にことごとく殺されていった。李承晩政権を支えたのが親日派だ。*1947年から49年のあいだにソウルの親友張龍錫から届いた手紙が22通残されており、『金石範評論集Ⅱ思想・歴史論』に収録されている。

【親日文学批判】
 1948年「韓国」は南朝鮮で強行された単独選挙によって成立した。この「南」だけの分断選挙に反対する朝鮮全体の運動の一環として済州島の四・三事件が起きた。そうして成立した李承晩政権によって数万の島民が虐殺され、沈黙を強いられた。
 金石範は韓国への出入りの背後にある政治的取引に敏感だった。韓国の軍事政権とその流れをくむ保守政治には妥協しなかった。当然、日帝時代の親日文学に対しても批判的態度を変えない。
 朝鮮近代文学の祖と言われる李光洙に対しても、その「親日行為」を指弾している。〈民族保存のための協力とは何か。協力とは李光洙にとって自身を含めて日本人化すること、天皇の赤子となることであるのだから、どうして民族の保存ができるのか。「民族保存」と「日本人化」は両立しない。〉(P147)と詭弁を批判した。
 李光洙が解放後も、自分が「内鮮一体」と天皇崇拝を唱えたのは朝鮮民族の禍を和らげるためだとして、反省の弁を述べなかったことに怒ったのだ。
 日帝支配の時代にも、金石範の師であった鄭寅普や、詩人韓龍雲など少数だが親日派に下らなかった知識人は存在した。
 金石範が「親日」と責任を追及するのは、悪質で極端な者たち、積極的、主導的役割を果たした者たちで、やむを得ず受動的に「親日」の態度を取った一般民衆を含むものではない。
 無論、歴史的状況を無視して語ることはできない。波田野節子『李光洙──韓国近代文学の祖と「親日」の烙印』(中公新書)は歴史の制約を強調した論だ。しかし金石範は、行為の主体たる個人の責任を否定することに強い違和感を表明している。
 体験者で朝鮮人である金石範と、日本人という加害側である波田野節子とでは、立場から見える視点が変わっても仕方がない。波田野の論は日本人読者「私」にはある程度響くが金石範には届かないだろう。

【苦難の韓国行から自由へ】
 金石範は訪韓には慎重だった。金石範は「朝鮮籍」のままの訪韓を求め、政府批判を含む発言の自由を担保しない訪韓を嫌ったからだ。
 ちなみに「朝鮮籍」とは、1947年5月2日、日本国憲法施行の前日に公布され即日施行された勅令である外国人登録令によって「外国人」と規定された「朝鮮人」の国籍欄に記入された記号であって、当然1948年に成立した大韓民国及び朝鮮民主主義人民共和国のどちらかを指すものではない。
 金石範は統一していないどちらかの権力を背景にした国籍に与しないため、韓国が民主化した今日でも朝鮮籍を保持している。
 金石範は、上記一覧の①~③までは韓国入国の申請をするたびに政府批判をしないことと国籍変更の約束を求められた。
 ③の1998年8月の東アジア平和と人権国際シンポジウム参加のさいは、すでに金大中政権だったが、安全企画部に敵視されていた金石範にとっては、困難な渡韓だった。参加者一同の抗議書簡が政府に届き、ギリギリで入国が許可され最終日に到着できた。
④以降は権力による渡航の困難がなくなった。
 そして記憶が抹殺され歴史が殺されてきた「四・三」が公になり、「悲しみの自由」を獲得した。四・三事件の犠牲を声に出して悲しんでも、逮捕されたり拷問されたりすることはなくなったのだ。
 特に2003年10月、盧武鉉大統領が済州島を訪問し、島民・犠牲者に公式謝罪した事実は大きな意味を持った。
 しかし2009年に李明博政権が登場すると、韓国の政治は右旋回する。2015年朴槿恵政権下で金石範は入国を拒否された。同年4月、第一回済州島四・三平和賞を受賞した金石範の演説を、朴槿恵政権の与党セヌリ党国会議員や右翼が問題視し、保守系新聞なども騒いだ。結果、11月韓国語版『火山島』全訳完成の出版記念シンポジウムへの参加のための韓国入国は拒否された。
 それでも、韓国の市民は壮大なローソクデモなどで朴槿恵政権を退陣に追い込み、文在寅民主政権を誕生させた。
 そして金石範は2017年9月には第1回李浩哲統一路文学賞を受賞し訪韓した。この時の演説「解放空間の歴史的再審を――解放空間は反統一、分断歴史の形成期」では、李承晩政権の正統性の否定、解放空間(1945~48年)の歴史的再審、再検討の必要を要求した。
 金石範は「大韓民国」の正統性を問うた。反共を国是とした大韓民国建立の正統性の否定に繋がる「四・三事件」の正名(ジョンミョン)こそ必要だと主張したのだ。
*2015年4月1日「第1回済州平和賞授賞式における記念講演」と2017年9月17日「第1回李浩哲統一路文学賞受賞記念講演」は『金石範評論集Ⅱ 思想・歴史論』(明石書店)に収録されている。

【文学と政治】
 ところで金石範の著作をこのように紹介すると、金石範文学が政治先行の政治主張のためのもののように思われてしまうかも知れないが、まったく違う。
 金石範は四・三民衆蜂起の宣伝文学、スローガンを書いてはならないと言う。政治的な勢いに乗るとどんな立場であれ、それは文学をダメにすると。
 金石範は文学が政治に絡め捕らわれることを嫌った。
 『鬼門としての韓国行』は、1945年から1988年に韓国訪問を果たした42年のあいだに、金石範が政治と格闘、葛藤してきた精神を反映している。
 金石範はその間に済州島四・三事件を題材にした「鴉の死」に始まる多くの作品を書き、虚無を超克し、深い絶望から脱出する道のりを歩んでいた。1976年からは後の「火山島」になる「海嘯」の連載を始め、1983年に『火山島』第一部全3巻を上梓した。
 1986年からは「火山島」第二部の連載を始めた。1988年には東京とソウルで済州島四・三事件40周年記念集会が開かれ、歴史から抹殺されてきた四・三事件が公然化し、韓国で『火山島』第一部が一部省略ながら出版された。この年に金石範は韓国訪問を果たしたのだ。
 金石範の韓国行に妥協はない。親日派政権による政治との闘いが続いた。『鬼門としての韓国行』に親日派批判が相当頁数を割かれているのには意味がある。
『火山島』は1997年に全7巻発行が成し遂げられ、2015年には韓国で全訳が完成した。そのさいにも、親日の後継である保守政治に入国を阻まれたが、2017年には91歳で李浩哲統一路文学賞を受賞して渡韓、上記したように大韓民国の正統性を厳しく問う演説をした。
 金石範は、現実の朝鮮(韓国)から引き離され、虚無に陥りながらも在日する意味を文学において生きた。42年ぶりに韓国行きを果たしてから、更に政治とは妥協しない文学的闘争を強化していった。
『鬼門としての韓国行』は、政治に抗う文学的闘争の記録であり成果でもある。

2023年10月10日 (火)

斎藤真理子『本の栞にぶら下がる』

詩人の読書は、ペンを持たない

斎藤真理子『本の栞にぶら下がる』岩波書店

Photo_20231010141501  愚銀のブログに書いたパク・ソルメ『未来散歩練習』の書評に、この小説を語る上での大事な要素を省いた。それは小説の主人公で作家の私が、マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人びと』を読んでいて、そこに登場するジャックらをあたかも友人のように感じ、私の生活とリンクしているという点だ。
 パク・ソルメ自身も小説の登場人物さながらに『チボー家の人びと』に愛情を感じていたのだろうなあ、と思っていたら、翻訳した斎藤真理子もこの長編小説にはだいぶ思いが深いようだった。『図書』に連載してこのほど上梓された『本の栞にぶら下がる』の第1回と2回に渡って書いている。
 あとで聞いた話だが、『チボー家の人びと』の翻訳出版を手がけた白水社から、自作『未来散歩練習』の翻訳が出版されたことに、パク・ソルメ自身喜んだそうだ。
『本の栞にぶら下がる』には、翻訳者斎藤真理子ではなく文学少女からおとなの読者になるまでの斎藤真理子の読書遍歴の一部が、美しく描かれている。
 その読書は思想としての「韓国文学」を構築する底辺に蓄積され土台となっていたと言えるかも知れない。ここで書かれたのは必ずしも有名な作家詩人ばかりではない。
 朝鮮を歌った詩人後藤郁子の読者はそう多くはない。抵抗の詩人として知られる石川逸子は最近〈戦前、たとえ詩であっても、皇国思想に楯突くことは相当な覚悟を必要としたであろうに、敢然と立ち向かった詩人夫妻がいた。〉(「邪悪なる植民地支配 詩で抗う」東京新聞2023年10月8日)と書き、後藤郁子の詩「或る朝鮮少女に」を紹介している。
 斎藤真理子は、その石川逸子の以前の言葉を借りて、「或る朝鮮少女に」を「朝鮮へのすぐれた恋歌」として、茨木のり子の戦後の詩「七夕」と並べて示した。「七夕」は茨木夫妻が散歩していると、焼酎の匂いをぷんぷんさせるステテコ姿の男性が振り返る。喧噪の絶えない在日朝鮮人の家と、古代以来もたらされた渡来文化の恵みとを結びつけて連想させる詩だ。
「七夕」への思いも、後藤郁子夫妻の紹介もじつに的確で染みる。
 小学生のころから茨木のり子のファンだった斎藤真理子は、大人の読者として自らを振り返る。
 茨木のり子は「ハングルを学び」韓国の詩を日本の読者に翻訳紹介した初めての日本語母語者詩人だったが、斎藤は韓国語で詩を書き韓国で詩集を出した韓国語詩人でもある。1990年代初めソウルに滞在した1年2ヵ月のあいだに生まれた詩をまとめて2018年に上梓している。(詩集『단 하나의 눈송이(ひとひらの雪)』)
 同詩集のあとがきで、論文や新聞記事だったら韓国語で書くことはできなかったろうけど詩だから書けたのだ、と書いている。詩は内側から生まれ出てきた言葉だから未熟でも書き留められたという意味か。詩人の素質を表したのだろうと思う。
 斎藤真理子は20代初めから「あ、」と思った詩を万年筆でノートに書き写してきた。これが大事だなあ、とつくづく思う。書く行為こそ文学心を育む。振り返るならば、悪筆で早くからワープロを使っていた自分の文学的無能を感じざるを得ない。
 このエッセイ集で初めて知る詩人もあった。中村渠(かれ)は沖縄の詩人だ。中村渠は詩集を出していない。大城立裕が作った私家版が沖縄県立図書館にあるのみで、斎藤はそのコピーを取り寄せて、自らも作っていた中村渠の詩をコピーした綴りと並べて見る。
〈中村渠の路地が、朝鮮にも通じていた〉。
 斎藤は、この無名の詩人を朝鮮の有名な詩人鄭芝溶(チョンジヨン)と並べた。
 鄭芝溶は北原白秋主宰の雑誌『近代風景』に日本語詩を投稿していた。同時期に中村渠も投稿していて、斎藤真理子はこれらをコピーしていた。白秋と斎藤は母語の異なる、朝鮮と沖縄という日本に支配された地域の詩人の、〈風通しの良い、端正な、一語一語が粒立つような詩〉に気づいていた。現代史に飲み込まれて死んだ二人の詩人を、斎藤真理子はこのエッセイで追悼したのだ。
 考えてみれば追悼集なのかしらとも思う。林芙美子と郷静子、漱石と李光洙、後藤明生と李浩哲、永山則夫、長璋吉、田辺聖子、森村桂等々だ。マダム・マサコには知識も経験も追いつかない。
 斎藤は編み物しながらも本を読む。思いもよらないことだ。(不器用ですから。)実はこのエッセイの冒頭で、斎藤と同郷の作家高野文子の『黄色い本――ジャック・チボーという名の友人』という本を紹介している。主人公は田家実地子といって読書と編み物が好きな女の子だ。同じ新潟の高校生で同じように『チボー家の人びと』の読者だった斎藤真理子の内心に与えた影響は想像に難くない。
 筆者は、斎藤の前著『韓国文学の中心にあるもの』について、斎藤真理子の読書は地下茎のように張り巡らされている、と書いた。このエッセイ集も縦横に地下に伸びた根から、地上に芽吹いたものだ。
 ちなみに筆者も本を読むとき付箋を立て、黄色マーカーを使う。しかしこの本は装丁の素朴な美しさに遮られたのか、書き込みしないと決めて読んだ。斎藤真理子謙虚なり、汚すべからず。

2023年8月24日 (木)

パク・ソルメ『未来散歩練習』斎藤真理子訳

パク・ソルメ『未来散歩練習』斎藤真理子訳 白水社
ぼくの未来散歩練習

Photo_20230824211401  パク・ソルメ『未来散歩練習』はタイトルどおり散歩する小説だ。散歩の舞台は主に釜山だ。
 小説は私の語る部分と、スミを中心とする物語の二部構成になっている。
 私はソウルで会社勤めしながら創作活動している作家で、釜山で部屋を探していたが、銭湯で出会った60歳ぐらいの白くて大きい人チェ・ミョンファンに紹介されたマンションの部屋を借りる。
 チェ・ミョンファンは女子商業高校を卒業後、アメリカ文化院近くの貿易会社の経理係として勤務した。1982年3月のアメリカ文化院で火災が発生した日に、性被害にあっている。
 お金を貯めて増やして家を購入して、家を担保にしてお金を借りてまた家を買い、家の価格が上昇すると売って儲けた。儲けた金を家族に上げてしまったりしないで、自分で貯金し結婚もしないで一人で生きてきたので、頭の変な女として扱われた。
 私は歩いては食べ、食べては歩いて考える。ソウルと釜山を行き来してチェ・ミョンファンと親しく交わる。
 また、私は釜山を歩きながら考える。アメリカ文化院が見える昔デパートだったビルの6階男子用トイレで1982年に大学生がビラを撒いたこと。80年5月の光州に関するアメリカの責任を問うビラだった。その日、アメリカ文化院には20歳前後の若い女性4人が入っていき持ち込んだガソリンに火をつけた。
 釜山アメリカ文化院は、今は釜山近現代歴史館になっている。その建物は1929年に東洋拓殖株式会社釜山支店として始まった。解放後は米軍宿舎として使用され、1949年から米国海外公報処アメリカ文化院になり、朝鮮戦争中にはアメリカ大使館の役割も果たした。1999年に米国政府から韓国政府に返還されたときには「釜山アメリカ文化センター」となった。2003年7月から近現代歴史館となっている。
 私は現代美術の展示で、釜山近現代歴史館に関する原稿を依頼される。
 この小説の別面ではスミとスミの叔母ユンミ姉さん、スミの中学時からの友人ジョンスンが描かれる。
 中学生のスミは、父が事業を失敗して釜山の母の実家に寄宿している。そこにユンミ姉さんが刑務所から出てくる。ユンミ姉さんは1982年の釜山アメリカ文化センター放火に関連して逮捕された大学生だ。
 ユンミ姉さんが光州に行くと言いだし、スミはユンミ姉さんについて光州に行く。スミも「私」と同様に歩く。道庁前の噴水のまわりも歩いた。
 光州で留めてくれた家のおばさんがユンミ姉さんの背中を撫でる。
〈おばさんは姉さんの背中を撫でた。おばさんの小さくて固い手が撫でている姉さんのやせた背中は、それぞれすごく違っているようでいて、もちろん違う体だけれども、それぞれ違う性格の肉と骨が重ねられたところのように見えた。〉
 光州事件に抗議した放火事件で逮捕されたユンミ姉さんにたいする、光州に住むが光州を語れないおばさんの優しさが連帯の影のように描かれた。
 スミの物語は「私」の書いた小説なのかも知れないが、そうではないかも知れない。
『未来散歩練習』の時間的背景には光州事件がある。光州事件については映画「タクシー運転手 ~約束は海を越えて」やハン・ガンの小説『少年が来る』などで知った日本人も少なくないと思う。
 当時「光州事件」は日本では報道された。
 その前年、ぼくは「李恢成の作品について」という中学生の感想文ほどの力んだ評論を『流域』という雑誌に掲載した。
 1981年に鄭敬謨のシアレヒム語がく(楽)塾に入塾したものの二次会の酒飲みが目的になってしまって、韓国語は上達しなかった。
 しかしここで知った友人が主催した「千葉光州を忘れない会」に行って金泰生の講演を聞いた。光州の闘争と虐殺を忘れず、歴史を問い返しつつ今を生きる日本人の集まりという主旨だった。1982年5月29日のことだ。この日も翌日まで飲んだ。
 その年8月初めて韓国に行った。ソウルのピマッコルは、今は一部だけが観光用に整備されて残されているが、当時はまだ鍾路にそって長く続く汚れた路地だった。安飲食店や安旅館も並んでいた。鍾路やピマッコルを行ったり来たりして、夜は酒を飲んで多分一週間ほど過ごした。
 その後高速バスで光州に向かった。光州市内に入る前に銃を構えた兵士がバスに乗り込んできて、最後尾まで進みUターンして出て行った。型どおりの任務を遂行したのだろう。誰も誰何されなかった。
 光州でも安そうなホテルに宿を決めると散歩に出かけた。
 光州公園で出会った同年代の青年に、公園内の博物館、民俗館、安重根義士崇謨慕碑や国立光州博物館、光州学生運動に関する資料館などに連れて行ってもらった。
 夜はまた呑んだ。その頃の生ビールは安全な瓶ビールと違ってどこで作ったか分からない代物で生ぬるくまずかった。おかげで翌日は下痢腹を抱えてバスに乗り、秀吉の朝鮮侵略戦争「壬辰倭乱(文禄の役)」時の金徳齢将軍を祀った忠壮祠などをまわった。
 その間に「光州事件」については一切話さなかった。

『未来散歩練習』で、東京に留学したスミをユンミ姉さんが訪ねてくる。スミは東京案内をしようと思うが、姉さんはあまり歩かず同じ喫茶店に何回も入ってコーヒーを飲んで過ごした。
 姉さんは韓国に帰ったら病院行きよと言って帰って行った。作者は歩いて歩いていろいろな人と交流しながら、人権に繋がる過去を描こうとしたのだが、最後の最後で「横臥者の視線」を表出したくなったに違いない。
 われわれは立って闘う者だけではない。市川沙央『ハンチバック』を引き合いに出すまでもなく、超高齢者のお世話に明け暮れる前期高齢者の身であれば、この連帯の困難は身に染みている。

 さてさて1982年夏、光州を後にしたぼくは釜山にも行って大分歩いて疲れた。釜山にはさして興味も湧かず嫌な経験はいくつかして関釜連絡船に乗って帰国したのだった。『未来散歩練習』を翻訳した斎藤真理子さんの「推薦の辞」によると、斎藤さんも同年夏に釜山を歩いたらしい。どこかですれ違っていたかも、などと妄想寸前の現在である。

2023年8月 9日 (水)

イ・グミ『アロハ、私のママたち』李明玉訳

結婚移民女性たちが切り開いた道
イ・グミ『アロハ、私のママたち』李明玉訳 双葉社

Photo_20230809112001  イ・グミの『アロハ、私のママたち』はタイトルのとおり、ハワイに生きる女性たちを描いた小説だ。ハワイを背景にした韓国の小説としては、去年(2022年)翻訳出版されたチョン・セラン『シソンから、』(斎藤真理子訳)がある。『シソンから、』は朝鮮戦争時に家族を虐殺されて、逃げるように最後の写真花嫁としてハワイに移民したシム・シソンにまつわる物語だった。シソンが闘い切り開いた、女性が虐げられず、男性が虐げることのない知的な社会への道を、ハワイを訪れた子孫たちが確かめて行く。
 『アロハ、私のママたち』の主人公たちが朝鮮を発ったのは1918年、シソンより30年以上前だ。シソンの親の世代で、最初期の「写真花嫁」としてハワイに移民した女性たちの物語だ。
 中心になるのは、慶尚南道金海(キメ)に近いオジンマル村に住む没落両班の娘ポドゥルと、その友だちで村では金持ちの家の娘ホンジュ、被差別的立場である巫堂(ムーダン)の家の娘ソンファの三人だ。
 ポドゥルは義兵に出た父を亡くし、兄も殺され、普通学校を2年の途中で辞めて家事や弟たちの世話をして暮らしていた。
 仲介人の話によると、ポワと呼ばれていたハワイは遊んで暮らせるほど豊かで、縁談の相手も若い地主でポワに行けば楽に暮らせるばかりか、学校にも通えるという。
 朝鮮の女性は古い身分制度に縛られ、男尊女卑の思想に抑圧され、日本に蹂躙されるという二重三重の迫害を受けていたため、このまま故郷で暮らして生きる希望を持てない娘たちには写真花嫁は希望に思えた。写真花嫁たちはそれぞれ固有の事情も抱えていた。
 日本を経由してやっとの思いでポワに着いて見ると、待ち受けていた男たちは、親か祖父ほどの年齢で、過酷なサトウキビ畑で働く農業労働者たちだった。彼らは虚偽の年齢、職業、収入で写真花嫁を募集していた。
 写真花嫁たちは泣く泣く結婚して嫁ぎ先に発って行った。三人もバラバラな地域に嫁ぎそれぞれ苦労して生きるが、後には再会して助け合うことになる。
 ポドゥルの夫テワンだけは若かったが、独立運動ばかりに熱心で家庭を見返ることがなく、ついには中国に行ってしまう。
 日本に迫害される朝鮮から、楽園と思ったハワイにやってきた娘たちだったが、そこも侵略の歴史と差別の横行する社会だった。
 ハワイは王国であったが、1895年1月に女王リリウオカラニは逮捕廃位され、1898年8月、アメリカ合衆国の準州とされた。
 ハワイの土地は白人に合法的に奪われ、サトウキビやパイナップルの農場では、白人農場主たちが先住民労働者を酷使していたが、輸出拡大につれ労働者不足になり、日本人などを使うようになっていた。
 朝鮮人労働者は日本人に較べて少数だったが、日本人労働者が賃上げや待遇改善を求めて争議を繰り返したため、スト破りとして使われることもあった。朝鮮人たちは労働者同士の連帯よりも、日本に対する民族的恨みを選択した。
 ハワイは階級闘争と民族矛盾、民族差別が錯綜して、分裂と団結が複雑に絡み合っていた。
 朝鮮人社会にあっても、パク・ヨンマン派とイ・スンマン派に政治的に分裂し時には暴力騒動も起き、ポドゥルたちも否応なく巻き込まれていた。
 ハワイは多民族社会であり、多言語社会でもあった。ハワイの農場や労働現場、生活の場では、英語、ハワイ語、日本語などの混じったピジン語が意思疎通に使われた。朝鮮の儒教的身分社会しか知らないポドゥルたちにとって、ハワイは異世界だったに違いない。そこは女でも母親でも一人ひとりに名前のある社会でもあった。ポドゥルは自分の母の名前すら知らなかった。
 ポドゥルたちの世代は殆ど英語はできないが、ポドゥルの子どもたちの世代になると英語の方が普通になる。
 1941年12月7日、日本軍がパールハーバーを奇襲攻撃した。ポドゥルの息子ジョンホは軍隊に入る決意をする。朝鮮からの移民2世は国籍はアメリカだが、親の国籍は日本だ。アメリカ人にとって朝鮮系はなく、彼らも日系アメリカ人に過ぎない。アメリカ市民で愛国者であると示すためには軍隊に入る必要があるのだ。
 朝鮮系ハワイ移民は立場も精神も複雑だ。安易に単純化できない複雑を複雑なまま表出することに、スローガンやコピーではない文学の意味がある。
 南国の観光地のイメージが強固なハワイの歴史に、詳しい人は少ないだろう。多少知っている人間でも、日本の支配が強まる朝鮮から、1000人以上もの女性たちが写真だけで結婚移民したという事実を考えたことがあろうか。彼女たちはそれぞれ『シソンから、』のシソンの親なのだと思う。
 原著の内容をしっかり検証した翻訳に好感を持った。翻訳者の体験と調査で関西弁を使っているのも違和感がない。
 作者と翻訳者がともに「李」氏だが、発音は「イ」と「リ」にしている。互いに否定しない関係も良い。

2023年6月 9日 (金)

チャン・ウンジン『僕のルーマニア語の授業』/ 済東鉄腸『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』

マイナー言語のまま阻害された心を描く、言語民族主義の克服
チャン・ウンジン(須見春奈訳)『僕のルーマニア語の授業』CUON
済東鉄腸『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』左右社

 2022年2月にロシアのウクライナ侵攻が始まって1年4ヵ月が過ぎた。南部ヘルソン州でドニプロ川に設置されているカホフカ水力発電所の巨大ダムが破壊され、600キロメートル以上が水没、数千棟の住宅が浸水、ウクライナ市民6000人超が避難した。ロシアが仕掛けた地雷の多くが流されてどこに行ったか分からない。貯水池の水が減少して農業に深刻な被害が予想される。化学物質や細菌も流出し、深刻な環境汚染も懸念される。ザポリッジャ原発の冷却水も不足し危険な状態が更に悪化しそうだ。
 毎日の悲惨なニュースのおかげで、それまでまったく知らなかったウクライナの地名や地理に少しだけ詳しくなった。とはいえ、ロシアとウクライナの関係など何となくしか知らないので、黒川祐次『物語 ウクライナの歴史』(中公新書)を読んだが、東欧の歴史は複雑怪奇だと嘆息するしかない。余りにも無知だったからだけど、島国根性に汚染された身にはなかなかに理解が追いつかない。
 同じスラブ民族でルーシ公国を先祖としながら、北方に逃れたモスクワ公国の方が強大なロシア帝国としてウクライナを支配することになり、独立後の今もまたウクライナ支配を企てているとは、名状しがたい。
 ウクライナとロシアは同じスラブ語ながら異なる言語を使用していて、ウクライナ語は常にロシア語によって弾圧され消滅の危機にあっていた。現在も東部や南部、クリミア半島ではロシア語が強制されているようだ。なんだか日本による朝鮮植民地支配における朝鮮語、朝鮮文学弾圧を想起したが、同族という意味では沖縄言葉の禁止の方が近いのかも知れない。
 ウクライナ戦争によって、ウクライナ周辺の国々の位置関係を知るようになったボンクラは私ばかりではないと思う。
 ウクライナの南に位置する大きな国はルーマニアだが、ルーマニア語はロマンス諸語に分類されるので、ウクライナ語とは大分違うようだ。だがルーマニア語は隣がウクライナだけのことはあり、スラブ諸語の強い影響を受けているのだそうだ。
Photo_20230609212001  韓国の作家チャン・ウンジンの『僕のルーマニア語の授業』を読んで、ルーマニア語の授業って、そう普通に書かれても日本の大学でルーマニア語て発想は浮かばない。韓国にしても登場人物たちの母校は外国語大学に違いない、などと自己を納得させている。
 もっともハン・ガンに『ギリシャ語の時間』という小説もあるので、井戸のように狭いダイニッポンコクと違って韓国では多様な語学が学ばれているのかしら、などと思わない訳でもない。
 さて『僕のルーマニア語の授業』は、大学の「初級ルーマニア語翻訳演習」のクラスで見つけた、秋の瞳を持った彼女を回想する僕の話だ。この短い小説に出てくる登場人物は、主に僕と彼女キム・ウンギョンと後輩のヒョンスの3人だ。一見なんともなく自由に生きているように見えても、3人とも行きにくい世の中で辛い生を耐えている。
 学生時代の僕はルーマニア文学の研究者として大学に残るつもりでいたが、今は満員電車に押し込まれて運ばれる平凡なサラリーマンだ。
 僕が翻訳していたドリネル・チェボタールは無名に近い作家だった。チェボタールは都会に暮らす人間の孤独をよく表す作品を書いていて、自身も不安と孤独を抱えていた。アルコール依存症で精神病院に長期入院していたこともある。僕が翻訳した9篇目で最後の小説「キャンドルと夢」は精神病院で書き上げた作品だ。作家は孤独と苦痛を毎日紙に刻み磨くように綴ったに違いない。
〈たったひとりのために好きな作家の小説を翻訳することがどんなに楽しかったか。〉
 寒さの中駐車された車の下に隠れる野良猫の、腹を減らせた姿が魅力的に描かれる。
Photo_20230609212002  この美しい小説を読んでもルーマニア文学に特別な思い入れをすることはないのだが、気になっていた『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』(左右社)を読んだ。書いたのは済東鉄腸という若い作家で、難病を抱えながらネット上で「友だち」を増やしてルーマニア語を学びルーマニアで作家デビューしてしまった。
 済東によると、ルーマニアでは小説家で飯を食うことはできず、作家とはイコール兼業作家なのだ。だいぶ以前に島田雅彦が、日本の小説家は殆ど労働者作家だと話したのを聞いたことがある。小説を書く大学の教員や医者とかが労働者かどうかも疑問だが、わが国には働かない専門作家もいるだろう。
 さてこの本『千葉からほとんど出ない引きこもり~』は、済東のルーマニア文学に熱中していく過程や、試行錯誤、失敗と赤恥の表出に嫌みがない。若者言葉・文化の連用には爺読者としてはやや引き気味だけど、共感の方が圧倒的に多い。自己肯定感の低いひきこもりである済東には誇張した自尊心は見えない。カッコイイを目指した様子はあるのだが率直でペダンチックでない。こじれたネトウヨと対照的だ。10歳以上若いルーマニア人を師匠として仰ぎ、ずっと年上の研究者を友人としている。
 日本人が外国語で文学作品を書く、というのは多和田葉子が代表選手だろうし、斎藤真理子も韓国語で書いた詩集を上梓している。逆にリービ英雄、デビット・ゾペティ、アーサー・ビナード、シリン・ネザマフィ、楊逸、李琴峰など文学的表出に日本語というマイナー言語を選んだ外国人はもはや枚挙に暇がない。彼らは帝国主義によって言語を押しつけられたのではなかった。
 こうした文学徒はこれからも増えるだろう。世界には母語ではない言語を自己の文学表現のツールとして選択する作家や詩人が少なくない。言語民族主義の終焉は近い気がする。
 ロシアよプーチンよ、ロシアファースト止めようよ。時代遅れの思想はこの惑星を終わりに近づけるだけです。

2023年4月 6日 (木)

ペク・ナムリョン『友 벗』

北朝鮮体制派作家の文学
ペク・ナムリョン『友 벗』 和田とも美訳 小学館

Photo_20230406210601  ペク・ナムリョン『友』が描いたのは1980年代北朝鮮の地方都市だ。北朝鮮の市民生活を描いた小説が日本で翻訳出版されることは珍しい。
 作者のペク・ナムリョン(白南龍)は北朝鮮の作家だ。それも解放前(日本の植民地時代)からの作家ではなく、また海外に脱北した反体制作家でもない。北朝鮮で地位を得ている体制派の小説家だ。訳者解説によると、この本は1988年に平壌で出版された。北朝鮮はまだ金日成(キムイルソン)の時代だ。韓国でも1992年に発行され、フランスやアメリカでも翻訳出版されている。
『友』は離婚訴訟をめぐる請求者夫妻と、これを担当する人民裁判所判事及び判事の妻や、職場の同僚たち等の姿を通して、家庭とは夫婦とは何かという問題を提起している。
 チョン・ジヌは山間都市の人民裁判所で判事として勤めている。そこに女性が離婚相談に訪れる。女性は33歳のチェ・スニ、芸術団のメゾソプラノ歌手だ。夫は機械工場の旋盤工で35歳のリ・ソクチュン。
 チェ・スニは「あの人とは生活のリズムがまったく合いません」と涙ながらに訴える。自らは向上心が強く、夫は余りにも平凡で会話が成り立たなかった。
 スニも元は同じ工場に勤めていたが、才能を認められて道(行政区画)の芸術団で専門歌手になっていた。
 夫のソクチュンは旋盤工として社会のために服務することを生活信条としていて、開発に失敗すると無駄にした資材分を弁償するような男だった。妻に、人格と知識を向上させるために工業大学で学ぶことを勧められても、大学卒の肩書きより技能工として平凡に生きることが大事だと主張した。
 チョン・ジヌ判事は、7歳の子どものいる二人の生活に深く踏み込んでいく。日本でこういうことはないだろうな、と思う。
 チョン判事は離婚訴訟を調査していくうちに、自分と妻との関係を重ねて考えるようになる。妻のウノクは高地での野菜品種改良に熱心で、しゅっちゅう主張してなかなか戻らない。家の中にも実験温室をつくり、妻のいないあいだはチョン判事が世話をしている。家事もこなすチョン判事は内心では妻に不満を持っていて苛立つこともある。
 この小説には形式的な英雄主義や、典型化による政治の文学化から脱した表現で人間の煩悶が描かれている。むしろ「やりがい搾取」が批判され、社会の変化に伴う人間の欲望に同情的だ。
 どんな社会にも人間の生活があり苦悩がある。喜びがあれば怒りがある。幸福を支える土台に辛い生が固くうずくまっている。
『友』を読むと、北朝鮮社会では家庭が〈社会という有機体の一つの細胞〉とされていることが分かる。家庭は祖国の小さな縮図なのであり、家庭が国家の生活単位だとされている。
 そこに肯定的な評価はできないが、社会の価値観は時代や地域に左右される。日本と韓国で常識が異なる以上に、韓国と北朝鮮に住む人びとのあいだでは、その違いは大きいだろう。今読まれれば別世界の小説と思われるかも知れない。
 しかし江戸の時代小説や、明治を描いた小説を読んで封建的だからダメだとは言えないように、社会を支配する宗教や政治思想が異なる世界を描き、我々とは前提となる価値観が違っても文学的価値が損なわれることはない。
『友』をハッピーエンドと読む読者もいるし、この先の不安を想像する読者もいるだろう。北朝鮮は現代日本とは違う政治社会だが、自己実現と結婚や夫婦生活における相互理解の困難は共通している。
『友』が出版された1988年と言えば、韓国で盧泰愚大統領候補が「6・29民主化宣言」発表を余儀なくされた翌年で、オリンピックが開催された年だ。88(パルパル)オリンピックに北朝鮮は参加していない。その後の南北の歩みは対称的だ。
 北朝鮮の体制派作家を、詩人白石(ペク・ソク)の末裔と呼んだら不遜だろうか。白石だけでなく、ペク・ナムリョンは解放後の混乱のなか追われるように越北して北朝鮮に逃れた朝鮮の作家たちの子孫なのだ。その意味はアン・ドヒョン(五十嵐真希訳)『詩人白石 寄る辺なく気高くさみしく』(新泉社)を参照されたい。

2023年3月16日 (木)

エリザ・スア・デュサパン『ソクチョの冬』

エリザ・スア・デュサパン『ソクチョの冬』原正夫訳 早川書房
他者との邂逅

Photo_20230316200901  韓国は人口も産業もソウルに一極集中している。有名大学もK-POPも最新のグルメもソウルに集まっている。
 フランス語作家エリザ・スア・デュサパンの描いたソクチョは田舎だ。ソウルの北東、春川(チュンチョン)の東に位置する夏の観光地だが、小説はタイトル通り正月前後冬の束草(ソクチョ)が舞台だ。冬のソクチョは雪に覆われている。ソクチョは海水浴客で賑わう町だが、冬に訪れても何もないしとても寒い。そしてその冬はマイナス27℃にもなる近年稀に見る寒さだった。
 主人公で女性のわたしは、朴老人が営む古ぼけた旅館に勤めている。わたしはフランス人の父と韓国人の母の間に生まれたが、父とは会ったことがなく、水産市場で働く母に育てられた。
 小説はわたしが勤める旅館にフランス人の男性が訪れるところから始まる。男は1968年生まれのヤン・ケラン。バンド・デシネというフランス語圏漫画の作家だ。旅館に滞在して自分の作品の最終巻を書こうとしている。
 旅館にはほかに日本人の登山家や、美容整形した後の療養で彼氏と一緒に滞在している顔に包帯の少女などが宿泊していた。
 わたしの恋人は江南のタレント事務所に所属が決まってソウルに行ってしまう。
 ケランは淡淡と街や寺や雪岳山(ソラクサン)国立公園、非武装地帯などを見学しては宿に戻って、自分の部屋で絵を描いていた。わたしの作る韓国料理には手を付けなかった。
 ケランの絵は、本物と見まごうばかりの雪が白く輝き、まるで表意文字のようだ。
 フランスと韓国の地政学的な差異や、ケランの食事に象徴的に表れる文化的差異が、二人の思考のねじれを感じさせるが、わたしはケランを案内したり世話しているうちに親しくなっていく。
 自由の国フランスから来た漫画家が滞在するのは、休戦中とはいえ戦争状態が解消されていない韓国の、北朝鮮との境界線に近い土地ソクチョだ。
 美容整形が気楽に語られる社会風土や、ソウルの芸能事務所に所属してソクチョから出て行く恋人の配置は、魚市場で働く母の実体のある生活とは背反しているように見える。虚栄と実体が共存していて、両者が違和感なく語られるのが資本主義的成長の歪みだ。
 ケランはラジオから流れるK-POPグループの新曲にも眉をひそめる。資本の垢にけがされない原初的な何かをケランは見つけようとしたのに違いない。わたしはそういうケランに共感していく。
 ケランという他者の目を通してソクチョの冬を見直すわたしは、他者である筈のケランにシンパシーを感じ、他者の視点を獲得していくかに思える。一方、ケランもわたしというソクチョの若い女性の言葉にインスピレーションを感じ、自己の作品のヒロインを形作っていく。
 極寒の風景の中で他者と遭遇して自己を発見する。簡潔で繊細な文体が心地よい。
 この小説はフランス語で書かれているが、小説内で使用される言語は英語、韓国語、フランス語の多言語小説だ。その点にも注目しておきたい。
 エリザ・スア・デュサパンは、フランス人の父と韓国人の母を持って1992年に生まれ、フランスとスイスの国籍を持つ。
『ソクチョの冬』はフランス語圏の数々の文学賞の外、2021年には全米図書賞翻訳部門も受賞している。この賞は昨今、多和田葉子の『献灯使』や柳美里『JR上野駅公園口』も受賞していて日本でも知られるようになった。
 この小説がデュサパンの最初の作品で、第2作は在日朝鮮人をモチーフにしていると聞く。その翻訳出版にも期待したい。

2023年3月 4日 (土)

ペ・スア『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』

原初を手探る映像小説だが、「霊魂は比喩です」
ペ・スア『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』斎藤真理子訳 白水社

Photo_20230304110301  世間では「ネタバレ」という言葉が流通している。小説などのストーリーや結果が第三者によって知らされてしまうことを言う。ネタバレするとその作品を読む価値が下がってしまい読む気が失せてしまう現象が起こるので、レビューなどで「ネタバレ注意」と言われることがある。ネタバレしたくらいでつまらなくなる小説に文学価値があるとは思えないが、一般的にはわざわざネタバレを読んでから作品を読む読者はいないだろう。
 しかし、ペ・スア『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』は「誰かネタバレしてくれ!」と言いたくなる小説だ。
 難解な書名の解読さえ、読み終わってもよく分からない。それらしい文は出てくる。
 ペ・スアという作家を体験したことは、欣喜よりも痛痒に近いかも知れない。論理性より映像性が高く、読者は観客ないしは鑑賞者の立場に置かれる。人によっては、この本の読書は修行に似てくる。歴史や政治が隠されて、霊魂の光速だけが描かれるからだ。
 私は2022年6月の『吟醸掌篇』Vo.4に「霊魂は如何にして闘うか」という短文を書き、〈日常からは消し去られている内面に潜在するはずの記憶と呵責が生み出す霊魂〉の実存について、金石範「魂魄」、崎山多美「ピンギヒラ坂夜行」、パク・ソルメ「もう死んでいる十二人の女たちと」という3篇を連続させて論じている。
 その前には、金承鈺『生きるということ 金承鈺作品集』の書評「霊魂の速度」を愚銀のブログに発表している(2021年11月)。金承鈺にとって、追い詰められた実態としての自己が、生活や欲望から自由でない実存であるという矛盾が容認しがたく、霊魂が肉体を離れて光速で飛んでいくという形而上の「経験」を認めた。
 これらの作品では、歴史の呵責や後悔、自己否定の認識が生み出す霊魂が描かれたのだが、ペ・スアが書いたのは意志のない霊魂だ。まず、私は記憶がすべて消えている。
 国籍不明のこの小説の主人公らしい女である私は、廃墟を誘発する者だ。7歳のときに家を壊した。下着を焼き、家族を焼き、眠ったまま深くうなだれて歩いた者だ。私は最後まで猶予された書類であり、永遠に読まれない原稿だ。永遠に、そして何度でも新たに書かれるべき一冊の本だ。
 巫女は私の名を「ウル」だと言う。巫女と言っても韓国や日本の巫女を想起させない。アフリカか中南米に巫女がいればこんな感じかと思わせる。
 ウルの手はひとりでに文を書きはじめる。意志によって書くのではなく、多分だが精神的邂逅によって書くようだ。ただ言葉があり、言葉が言葉を産んだのであり、絶えずお互いに役割を変え続ける言葉たちがあっただけだ。
 ウルは女であり、踊る人で、書く人だ。そのつど即興的にノートを広げ、どのページでもいいから埋めていく。ウルは読む人でもある。読むからには演劇する人だ。演劇は誰の意志も同意もないままに始まる。なぜなら演劇とはすなわち現実だからだ。演劇と現実に境界はない。
 子どもであった私たちの踊りと歌が現実を私たちの世界に引きずり込む。私たちは生を発明した。ウルは子どもであり大人であり、生徒であり、旅行者でもある。
 時はいつも前に流れるだけなのか? という疑問が投げかけられる。私たちという物質的な個人は抽象的な時間とともにその感情の原子系を構築するのだと言う。
「母さんが死んだ 私のはじまりのきざしが消えた!」
この抽象的な台詞が意味するものは混沌だ。実のところ「私」「ウル」「母さん」の区別さえ鮮明でない。私は、私たちであるのかも知れないし、彼女であるのかも知れない。あるいは霊魂を食らう毛の長い黒いルーマニア産の牧羊犬の名もウルだ。実はこの小説は、ⅠⅡⅢの3章に分けられていて、それぞれ別の話として読むこともできるし、同じ人物を次元のズレによって別の角度から描いたとも読める。
「ウルは見る目」であり、見られるものである。
 母さんが死んだ家で、私は両腕を垂らした姿勢で死体のように座っている。ウルは過去であり未来である。私の中に〈はじまりの女〉を感じる瞬間、〈はじまりの女〉が静かに燃えはじめる。同時にウルは自分が誰かの幽霊だという感覚を持つ。
 ウルは、踊っているが、同時に肉体から離脱していく犬の霊魂でもある。
 ウルは自分の目に入ってくる未来の美しさも、残忍さも、信じることができない。つまり小説には書かれないがウルは支配される者でもある。ウルは底知れない暗黒によって見られるものだ。
 ウルは遠くにいる。遠くで書いている。ウルは意志や信念、主義を持たず意識さえ失ったまま書き始める。遠くにいるということは、自覚のないまま暗闇にいるということだ。
 文学はウルが書き取った未知の声だ。暗黒の声だ。
 ウルである私には同行者がいる。同行者は黒ずくめの男性だ。彼は無害だ。匂いもしない。彼は自ら失敗する者であり、廃墟を誘発する者ではない。同行者は巫女によって「偽の名」を付けられる。男はウルの古い友だちであるが互いに記憶がない。
 同行者は「霊魂は比喩だ」と言う。彼は演技者であり神の代理人の側にじっとしている。
 ウルによって、あるいは作者によって生は発明される。同行者によってあるいは読者によって生は演じられる。

  一匹のネズミが言った。
  遠くにいるから
  ウルは遅れて来るだろう

 作者は原初をたぐる寄せられただろうか? 読者は遅れてくる原初を発見できただろうか? 不明。
さて小文はネタバレにはほど遠い。個人の感想です。
解説は巻末の訳者あとがきをご覧あれ。丁寧です。詳細です。斎藤真理子さん、どれだけ読んでるの

2023年2月11日 (土)

キム・スム『さすらう地』岡裕美訳 新泉社

貨車で運ばれた棄民の歴史
キム・スム『さすらう地』岡裕美訳 新泉社

Photo_20230211164101  ロシアのウクライナ侵攻は多くの難民を輩出し、その一部は日本にも辿り着いた。日本にはクルド族などの事実上の難民も、人権を侵害されながら定住している。ミャンマーでは民主派の活動家が国内難民化し、少数民族地域に脱出して闘っている。それ以前からロヒンギャ族の人びとは、国軍による激しい弾圧から逃れる逃避行が続いている。
 6日に起きたトルコ南西部の地震で、被害に遭ったクルド族やシリア反政府組織支配地域住民の今後が心配される。
 難民は侵略戦争と有機的に繋がっている。日本の侵略にあい土地を奪われた朝鮮の人びとは、日本や満州あるいはロシアの極東地域沿海州などに生活の糧を求めて移住していった。移住地では寒冷の荒れ地を開拓して町をつくった。やっと生きられるようになったところで、彼らは追放された。
 1937年8月21日、ソ連人民委員会議および全連邦共産党中央委員会の極秘決定により、国境地域からの朝鮮人追放が命じられた。極東地方への日本のスパイ活動の浸透を阻止するためという名分だった。
 移住という名の追放は、9月9日から10月25日までに、中央アジアへ約17万2000人の朝鮮人が追放された。
 キム・スム『さすらう地』は、馬や山羊などの家畜を運ぶ貨車に詰め込まれて運ばれる人びとと、その会話を描いた。
 いきなりの移住命令で行き先も知らされていない。みな混乱したままだ。夫が行商中で不在の妊婦とその姑、乳飲み子を抱いた妻とキリスト教徒の夫、夫と離婚した母と息子、聴覚を失った歌い手と妻、ロシア人の夫と別れた妻と幼い息子などなど。それぞれの事情を抱えた個別の生を生きてきた。
 彼らはストーブの消えたトイレの無い貨車で、昼夜の区別も分からなくなりながら、持参した食料だけを少しずつ食べ、窮屈な列車内でおまるやバケツに排便して備えられたドラム缶に捨てていた。
 彼らは1ヵ月を超える苦難の旅程を、手も洗えない不潔な状態で過ごさなければならなかった。不安と怒りと恐怖に苛まれながら、お互いの身の上を語り合った。
 朝鮮国籍、日本国籍、ロシア国籍を取った者、ソビエトの人民として認定された者、国籍を一切持たなかった者も、見た目が朝鮮人であれば貨車の客となった。忠実な共産党員、ボルシェビキ、革命家や独立運動家でも、朝鮮人であって逮捕を免れた者は貨車に乗せられた。
 革命が成功すれば朝鮮民族や他の弱小民族も見下されない社会になると信じた朝鮮人には、余りにも悲惨な道程だ。
 42枚の小さな巾着に種を入れてチョゴリとチマの内側に縫い付けた姑の、土地を耕し生きる民の発想は豊かで堅実だったが、運命は想像を超えて残酷だった。
 ファンじいさんの言葉には微かな希望が感じられるが、ここで全てを紹介はできない。ただ、「彼らの主人になろうとするな……、彼らのしもべになってもいけない……」という言葉には歴史を超える重さが感じられる。
 金石範も、長編『火山島』の主人公である李芳根のモットーとして「支配されず、支配しない」を上げている(「インタビュー 支配されず、支配せず」『世界』2019年7月)。
 金石範は自由と平等の精神の謂として語ったのだが、ファンじいさんは、新しい土地で生きる手立、心構えとして語ったのだ。
「どうして私たちが生き残らなくてはいけないんです?」
「生きていたいじゃないですか」
 生きるために、死んだ赤子を車外の草原に放り捨ててでも生きて到着した地には、約束された家も家畜も農機具も用意されていなかった。葦原で出産し、手で掘った穴にむしろをかぶせて住み、現地の民に物乞いして生きた。
 彼らが捨てられた場所は、中央アジアの国カザフスタンのウシュトベというところだ。棄民された朝鮮人は多くの命を失っていったが、生き残った者らは原住民や他の少数民族とも協力して不毛の地を開拓した。
 現在、この地の朝鮮半島に出自を持つ住民は自らを高麗人、先祖から伝えられる言葉を高麗語と言う。
『さすらう地』はロシア語、朝鮮語の多言語小説だが、子孫である高麗人たちによる高麗語文化維持はなかなか難しいと思われる。それでも、小さな巾着に入れられた種子のように、高麗人の文化・文学は耕された地に撒かれ苦難のなかで育っている。

 『さすらう地』とほぼ同時期に発行された,ユン・フミョン(東峰直子訳)『白い船』(CUON)は、カザフスタンからキリギスタンへ高麗語を学ぶ高麗人少女を訪ねる旅。広がりながら滅びに向かう民族文化の儚げな生命力を描いてすがしい。
 高麗人文学に関しては한국문학 번역원『해외 한인문학 현황 자료집 4 고려인 문학』が詳しい。
 東京新聞の報道によると、ロシアに武力侵略されたウクライナからの避難民約3000人が韓国に滞在し、殆どがカザフスタンに強制移住させられた朝鮮人の子孫「高麗人」だ。この避難民の多くが韓国語を話せず、在留資格が不安定で職探しも難しく、苦境に立たされている、という。戦争はまた罪の無い人民から土地を奪い苦難を強いている。

*参考:岡奈津子「ロシア極東の朝鮮人―ソビエト民族政策と強制移住

2023年1月 9日 (月)

金石範『新編 鴉の死』CUON

虚無を描き厭世を突き破る、金石範初期の傑作

Photo_20230109193201  昨年(2022年)韓国文学専門の出版社CUONから、金石範の本が2冊発行された。2017年から2022年にかけて『すばる』に掲載された3篇を集めた『満月の下の赤い海』と、最初期の短編を再編集した『新編 鴉の死』だ。最初の作品と最新の作品が1年のうちに連続して出版された意義は小さくない。殊に『鴉の死』の再版という勇気のある出版は、文学史的意味を持つ。
 金石範の代表作は何と言っても、11000枚の大作『火山島』だ。その続編や、『火山島』を書く作家自身を描いた作品などを含めると『火山島』関連作品だけでも膨大になる。
 『新編 鴉の死』所収の「対談 ディアスポラ的想像力、金石範と『火山島』」によると、金石範は『火山島』の大量の翻訳原稿をすべて読み、誤字・誤訳を細かく指摘する分厚いメモを翻訳者である金煥基に送っている。このとき金石範は90歳近かった。『火山島』にかける金石範の意欲は並々ならぬものである。
 1925年生まれ、老境に至った金石範は、〈『火山島』などの作品が私であり、私と重なった見えない私である。現実の作者の私は影である。〉(「生・作・死」『すばる』2020年12月)と書いている。
 文学作品と作家自身が渾然一体となった存在としての金石範とは何か。
 1948年から1952年まで、金石範は日本共産党の党員でありながら在日朝鮮統一民主戦線系の大衆運動に参加していた。1952年に日本共産党を離脱してからは、北朝鮮に繋がる組織活動で仙台に行くが、そこでの仕事に耐えかねて脱落する。このいかんともしがたい敗北感が金石範をニヒリズムに誘った。このあたりの事情について金石範は、『満月の下の赤い海』所収の「消された孤独」に書いているので、参照されたいが一部だけ引用する。

 Kは「鴉の死」を書くことで、小説人生の荒野を一人で行くような無の出発点に立つ。その荒涼の上に立たしめた背後の力は、仙台での挫折であり、対馬での島からの密航者との一夜であり、解放後の四年間にわたる友からの手紙とその死であり、それがKが背負うべき十字架だった。

 敗北者金石範を救ったのが「鴉の死」の執筆だった。
「鴉の死」は、『文藝首都』1957年8月号に発表された「看守朴書房」に続いて、同誌12月号に掲載された。発表順は前後し、その前にも「夜なきそば」などの秀作を発表しているが、「鴉の死」こそ金石範にとって最初の文学だ。
 「鴉の死」発表の10年後、1967年に「鴉の死」「看守朴書房」「観徳亭」「糞と自由と」の4篇を収めた作品集『鴉の死』が新興書房から刊行された。金達寿の『わが文学と生活』(1998年 青丘文化社)によると、新興書房は朴元俊が朝鮮ものの翻訳を主に出していた小さな出版社で、金達寿が「在日の者の作品もだしてくれないか」と金石範の短編集を推薦したのがきっかけとなった。
 71年にはこれに「虚無譚」を加えた『鴉の死』が講談社から出版、73年には講談社文庫版『鴉の死』が出版された。講談社文庫版は85年に新装版が発行された。1999年には小学館文庫で『鴉の死 夢、草深し』が発行された。その他、講談社『現代の文学39 戦後Ⅱ』(1974年)や集英社『コレクション戦争と文学1 朝鮮戦争』(2012年)にも「鴉の死」は集録された。「鴉の死」は韓国、台湾、フランスなどでも翻訳出版され、英語にも翻訳された。
 「鴉の死」は作家自身がもっとも愛着がある作品であると言うだけではなく、文学史的にも重要な価値を持つ短編小説と言える。済州島四・三事件を告発した最初の作品であると同時に、金石範文学の原点だからだ。
 主人公の丁基俊(チョンギジュン)は、済州島における米軍政庁の通訳だが、実は山に籠もって米軍当局と闘うパルチザンのスパイとしての任務を負っている。彼の正体を知っているのは、友人でパルチザン幹部の張龍石(チャンヨンソク)だけだ。張龍石の妹で丁基俊と相愛の亮順(ヤンスン)もそれを知らない。
 米軍側に下った(と思われる)基俊を亮順は批難する。食い下がる亮順を基俊は暴行強姦したが、後悔した。
〈この冷たい柔かい無垢の肌に永遠の爪痕を残した〉
 亮順は両親とも逮捕され収容所に入れられる。収容所の金網ごしの亮順を見た基俊は潮のように逆巻く悔恨に押しつぶされそうになる。
〈党のために祖国のために! これがこの一瞬の彼をなお不幸にし、おのれを空しゅうできなかったのだ。〉
 処刑されていく亮順の姿に、基俊は限りない呪詛の声を聞く。
 『火山島』読者であれば、丁基俊が梁俊午(ヤンジュノ)の原型だと思い至るだろう。しかし『火山島』の梁俊午は丁基俊ほど深い闇を感じさせない。「鴉の死」では内面の痛み、煩悶、欲求と絶望を丹念に追っている。この絶望は作者金石範が持った虚無と似通っている。金石範は時空と立場を越えて丁基俊に魂を写したのだ。
「鴉の死」こそ金石範を生かした。「鴉の死」を書いたことによって金石範は生きたのであり、「鴉の死」が文学史に残る多くの作品群と、『火山島』を書かせた。
 他にも登場人物の『火山島』との類似が複数見られる。まず、でんぼう爺だ。でんぼう爺は、60過ぎで、肩に生首を入れた籠をぶら下げ「ええや、ほうい、ええや、ほうい」と触れ回る。その姿は、「鴉の死」が描ききれない済州島全体の悲惨な風景を印象づける。
 李尚根(イサングン)は飲んだくれの大男だが、父が殖産銀行重役で、本土の全羅道に広大な土地を持っている島の有力者だ。『火山島』の主人公李芳根(イバングン)の原型だが、ここでは脇役に過ぎない。
 かくのごとく、「鴉の死」は『火山島』の原初的な作品であり、『火山島』は「鴉の死」を角度を変えて書いていったものとも言える。
「鴉の死」より先に発表された「看守朴書房」は、残虐な歴史に非知性の民衆が飲み込まれる様を描いた。
「看守朴書房」で描かれた朴書房(パクソバン)は、黄海道で自分でも素性の分からぬ奴僕だった。「朴」は旦那の姓である。
 京城で支械クンの仕事にありついて二、三年たったが、「女護ガ島」ということばに惹かれて済州島に来た。40歳近い年齢の「老チョンガー」(老いた独身男性)だ。どういうわけか看守に抜擢されて出世した。
 朴書房の楽しみは監房の女囚を見ることだ。特に若い別嬪明順(ミョンスン)を気に入っている。しかし明順にはやがて「釈放」と言う名の処刑が決まっていた。
 明順は獄内でただ一人白くて汚れていない手ぬぐいを持っている。暑苦しい監房で誰に頼まれても隠した手ぬぐいを出さない。それは死刑が執行されるときに出身地と名前を書いて死後身元が分かるようにするためだった。
 この手ぬぐいの逸話は、金石範が後々まで気にかけており、2007年に行われた済州空港での虐殺遺体発掘現場での体験を書いた「私は見た、四・三虐殺の遺骸たちを」(『すばる』2008年2月)でも触れている。
 金石範は24、5歳のときに、済州島から対馬に逃れてきた二人の女性を迎えに行ったおりに、「乳房のない女」K女に、白いタオルをチマのなかに隠しもっていた若い女囚の話を聞いている。明順はこのK女がモデルだと上記エッセイで明かしている。発掘現場で金石範は太股に巻かれたタオルを探すともなく探した。
 明順にすっかり惚れてしまった阿Qならぬ朴書房は、トラックに乗せられた明順を追って走ったため、せっかく出世した警官の資格を剥奪され処刑された。最後の言葉が「おらですな、どうも――大韓民国がしっくりしねんでさ」だった。
「観徳亭」は、『火山島』にも登場する「でんぼう爺」を主人公としている。
 でんぼう爺という名のいわれは、人のでんぼうすなわち腫れ物の膿を吸いだして治療するところから付いた呼び名だ。でんぼう爺は60過ぎの老人で城内(街)では観徳亭の床下で寝起きしていた。
 ところがちょっとしたきっかけで、敗残パルチザンの首を籠に入れて触れ回り、身元を探す公職に就いたのだった。
 田舎の村落から城内に戻ったでんぼう爺は、敗残のパルチザン数十人の行進に遭遇する。彼らは胸に自らを叛徒と罵る「布告」を垂らし、人間の生首を突き刺した竹槍を肩に担いで、観徳亭広場の周囲をぼろぼろに歩かされていた。鴉の群れが竹槍の先の首に食いかかり、まだ生きて歩く敗残兵を責めたりもした。
〈彼はこの首の行列の前で、自分が首をもって歩いた姿がいかにみにくいものであるかをはじめてさとったのだった。〉
 そのとき一人の女が悲痛な声をあげて飛び出した。でんぼう爺に首を探して売ってくれと頼んだソプニだった。ソプニはその場で射殺された。
 老人は大金をはたいてソプニの死体をもらい受け、観徳亭の床下に運んだ。
 看守朴書房やでんぼう爺は、知性の対極にあるような地位を持たない無知で貧しい最下層の庶民だが、その動物的な愛によって「大韓民国」に背を向ける。
「鴉の死」の丁基俊が知性の持ち主であるばかりに、党の任務と人間的欲求との狭間で苦悶しなければならなかったのとは対称的だ。
 「万徳幽霊奇譚」ではもうひとりの民衆象が描かれた。万徳(マンドギ)は、供養主(コンヤンジュ)つまり朝鮮の寺男だった。万徳が観音寺の女管理人「ソウル菩薩」に鞭打たれる関係は『火山島』と同じだが、でんぼう爺らと同様に、こちらの方が主人公なので詳細に描かれる。
 万徳は日本の朝鮮人寺の飯炊き女が連れてきて済州島の観音寺に預けた子どもだった。大柄で力が強く、大きな鼻と優しい心の持ち主だった。日本の植民地時代には徴用されたが、生き残って帰ってきた。
 ところが、ソウル菩薩に鞭打たれながらも安穏と暮らしていた万徳も「大韓民国」とは肌が合わなかったようだ。そこでは、アカの思想以外は何事も赦される。強姦、ドロボー、人殺しなどは警官になる有力な資格証のようなものだった。(なんだかプーチンのロシアが囚人を解放してウクライナ侵攻に使っている現在を想起させる。)
 万徳はアカを射殺する命令を拒否した罪で処刑された。処刑は執行されたが、優しさ故に助けたシラミに助けられて、「幽霊」として生き返り騒動を巻き起こす。万徳の行く末は不明だが、もともと戸籍もなく氏素姓の分からない万徳のことだ。幽霊になって夜な夜な号泣したり念仏を上げたりして、人びとの恐れを買っても歴史には残らないだろう。
 金石範は底知れぬ厭世を「鴉の死」に託し、翻弄される無知な庶民像の抵抗によって均衡を保ったのではないだろうか。
『新編 鴉の死』の出版はそんなところに思いを至らせてくれた。

金石範『新編 鴉の死』CUON
正誤表

P9 L3 與がのらない → 興が乗らない
P62 L12 墨汁の確に → 墨汁の罐に *『金石範作品集Ⅰ』では「缶」
P65 L6 くらぐらゆれだし → ぐらぐらゆれだし
P106 L12 つめて惚とした → つめて恍惚とした
p142 L11 轟然耳を舞する → 轟然耳を聾する
P169 L3 したことかなかった → したことがなかった
P285 L7 密官に手を奪われ → 警官に手を奪われ
P301 L18 ポタンを → ボタンを
P313 L1 寺の要の小山の端の → 寺の裏の小山の端の
*「寺の裏の小山の端の石の砦にある歩哨幕」が正しい。講談社文芸文庫『万徳幽霊奇譚/詐欺師』では「裏の小山の端の砦にある歩哨幕」とあるが、これは誤植。
P323 L8 内ボケット → 内ポケット
P324 L13 燃えともはじめた → 燃えはじめた
P327 L3 そこかたちに凡ゆる → そこに凡ゆる
P350 L18 李巡警察 → 李巡警
P369上段L4(ルビ)チョハンス → チョホンス
P376下段L20(ルビ)キムミヨンジヨン → キムジヨンミヨン
P377上段L16(ルビ)キムチヤンセン → キムテセン

 

2022年10月28日 (金)

鄭承博(チョンスンバク)さんの記憶

鄭承博(チョンスンバク)さん、天真爛漫の実体は繊細な気遣いの人だったかも

Photo_20221028205104   『吟醸掌篇』を発行している編集工房けいこうのWebマガジンに「在日朝鮮人作家列伝」を依頼され、次には鄭承博について書かなければならない。それで『鄭承博著作集』を再読し始めた。
 鄭さんと親しかった北原文雄さんの『島からの手紙』にも目を通した。北原さんは「鄭承博伝」をまとめようとしていたので、存命であったらアドバイスももらえたに違いないのだが残念。
 初めて鄭承博を見たのはどこかの集会で、昔の弁士を彷彿させる身振り手ぶりの姿だった。
 その後は、94年9月に新日本文学会の大阪での会合のついでに、磯貝治良・小野悌次郎・高村三郎とともに淡路島に足を伸ばしたときだ。大阪港から高速フェリーに乗り、関西国際空港経由で一時間半、着岸するとベレー帽を被った小柄の鄭さんが待っていてくれた。
 そのとき鄭承博さんは71歳でひ孫がいると言っていた。高台に設けた仕事用の家まで鄭さん運転の車で連れて行ってもらった。
 高台の家は二間と台所の平屋造りで、コンクリート造りで蔦の絡まる書庫が別に建てられていた。窓から見える農村の風景が郷愁を誘うものなのだそうだ。
 昼からビールを飲み、紀淡海峡の速い流れに揉まれて身が引き締まった鰈の刺身を御馳走になった。向こうの白鬚神社まで散歩に出たり、戻ってはまた飲んだり食ったり、眠くなると少し寝て、また起きては飲んだりして朝方まで過ごした。
Photo_20221028205101  翌日は鳴門海峡を見学し、娘さんの喫茶店で珈琲を振る舞われた。鄭さんは毎朝ここまで降りてきて犬を散歩させるのが日課だ。
「一緒に住んでいないと喧嘩しないでいい」と言う。駆け落ちして暮らす愛妻とでも一定の距離が必要なのだ。
 次に会ったのは、北原文雄さんの『島からの手紙』によると、95年4月、北原さんが農民文学賞を受賞したときの会場だ。淡路島からの農民文学賞受賞者は鄭承博さんに続いて北原さんが二人目なのだそうだ。
 淡路島にはもう一回行っている。このときも新日本文学会の集まりの後で、小野悌次郎・北岡敏範・高村三郎とともに乗り込んだ。
 96年の9月だ。また天保山から高速フェリーに乗って洲本に降りた。その日は夜の11時頃ようやく洲本港に到着し、鄭承博さん、北原文雄さん、片倉啓文さんら『文芸淡路』のメンバーに出迎えてもらった。
960916  洲本市郊外の大野にある鄭承博邸は、前年の阪神淡路大震災にも倒壊は免れていた。壁は少し崩れたのと、テレビが落ちて壊れただけだと言う。
 また酒宴。豪華焼き肉パーティーである。
 鄭さんに「林さん焼きすぎたらあかんよ」と注意された。裏表鉄板に載せるだけで充分なとろけるような松坂牛だった。鄭さんは殆ど焼かない。
 当然文学論議に花が咲いたはずだが、まったく覚えていない。しかし鄭承博さんは文学論には、ほとんど興味を示さず、自分の人生を如何に描くか、という問題意識しかないようだった。
 また朝方まで飲み明かし、翌日は2台の車で淡路島観光した。運転は鄭さんと北原さん。73歳の鄭さんが飛ばすはとばす。いくら空いているからと言っても最高時速100キロを超えていた。
Photo_20221028205102  洲本城や鳴門海峡などを見学し、昼食は絶景の国民休暇村で支払いは片倉啓文さんにお任せだ。
 その後、鄭承博邸に戻った我々は。また酒盛り、夜には北原さんが獲りたての刺身を持ってきてくれた。鄭承博はこんな人びとに囲まれて過ごしているんだなあ、幸せだ。
 余りにも愉しかったので、私と同じ埼玉から参加した小野さんの2名はもう一泊させてもらった。
 鄭承博さんとは大阪でも何回か会っている。一度は戦時中、鄭さんが空襲から逃れて隠れた場所なども案内されたが、年月日は失念した。
 記憶は確かではないが多分98年の7月25日土曜日、金城実作で鄭承博をモデルとした彫刻「在日朝鮮人作家」の完成を祝う会が、大阪桃山駅そばの焼き肉亭「髙橋」において開催された。
 94年の1月に金城実と鄭承博の対談が淡路島の鄭さん宅で行われ、金城が「明日はぜひ鄭さんの彫刻を作りましょう。」と結んだ言葉を受け、「明日」ではなかったがやっと完成した作品を祝う会だった。
 ところが二人は会場に来る前に飲み始めていて到着が2時間以上遅れた。酔っ払った二人が姿を見せるまでおあずけを食らったが、憎めない二人に一同笑顔になった。
 鄭承博の印象は、小柄で天真爛漫、いつも笑顔で明るいおじいちゃんという感じだったが、それは晩年のことだったのかも知れない。
 新幹社版『裸の捕虜』には、文藝春秋版『裸の捕虜』所収の作品に「富田川」「山と川」「追われる日々」の3作が加えられている。
「富田川」は『川柳 阿波路』第8号(1966年1月)~第38号(1968年7月)まで31回連載。これが鄭承博の小説としては処女作にあたる。
「富田川」は上手な小説ではない。朝鮮から叔父を頼ってやって来た10歳頃の少年が飯場の飯炊きをしながら見聞きする山奥の土木現場を描いている。
 戦前の日本・紀州で飯場に寝起きして土木工事に従事した労働者の生態を描いた労働小説としての面白さがある。しかしここには労働者は描かれても朝鮮人は描かれていない。登場する日本人もほぼ気の良い庶民で主人公の少年は温かく迎えられている。
Photo_20221028205103  ところが未発表だった「山と川」は印象が違う。表現が巧みになっているだけではない。内容的には「富田川」と一部重なりながらも続編的な性格の作品になる。主人公の少年の名は張一(チャンイル)。張一は紀伊の山奥の飯場で炊事係をする少年だが、大雨で現場が崩れ、逃げ出した彼は叔父を探して歩き、別の飯場で働くことになる。
 土木工事の労働者たちは朝鮮人で、村人たちからは蔑まれている。張一も泥棒扱いされたり何度も酷い目にあっている。逆に飯場に逃げ込んだときには朝鮮語で助けを求め、同胞の労働者たちに温かく受け入れられる。「山と川」では民族差別と朝鮮人を包む戦前の社会情況が巧みに描き込まれている。この小説は新幹社版『裸の捕虜』(鄭承博著作集第一巻)に収録されるまで未発表だったが、晩年に書かれたものだと思われる。
「富田川」は鄭承博が日本人名「西原ひろし」で川柳の雑誌『川柳 阿波路』に書いたものだ。『川柳 阿波路』は、その頃バー・ナイトを経営していた鄭承博が私財をなげうって創刊した雑誌だ。
 在日朝鮮人の組織にかかわっていなかった鄭承博は、バーの経営や雑誌の発行で日本人との関わりに神経を使ったに違いない。後には淡路朝鮮文化研究会を設立したり、朝鮮語勉強会を始めたりするが、前半生は朝鮮を前面に出すことなく生きたのではなかったろうか。
 鄭承博は、楽観的で純真な好々爺ではなく、肉体の艱苦を基礎に精神の腐心を持ちこたえてきたに違いない。2001年77歳で永眠についた。来年は生誕100年です。

*けいこう舎マガジンに鄭承博さんについて書いています。

2022年10月20日 (木)

アン・ドヒョン『詩人白石 寄る辺なく気高くさみしく』

白きかべあって

アン・ドヒョン『詩人白石 寄る辺なく気高くさみしく』五十嵐真希訳 新泉社


Photo_20221020155501「人生は評価されるものではなく、生き抜くものである」という著者の言葉が染みる。
 白石(ペは1936年23歳で詩集『鹿』を上梓した詩人だ。日本でもファンの多い韓国の詩人尹東柱(ユントンジュ)が敬愛し、現代韓国でもっとも愛される詩人のひとりだ。
 白石は現在の北朝鮮平壌の北に位置する定州出身で、地方語を駆使した詩を書いた。生活と一体感のある明瞭な日常の言葉で、小さくて取るに足らないけれど貴重な民俗を描き、土着的でありながら復古主義を排除したモダニティを内包していると評価された。
 白石は日本の統治時代に日本語で書かず、植民地化で歪められた故郷の言葉を駆使したのだった。
 しかし日本ではほとんど知られていないし、その生涯は韓国でも詳しくは分かっていなかった。著者アン・ドヒョンの調査は微に入り細を穿ったもので敬意に値する。分断国家韓国で北に渡った、あるいは北にそのまま残った文学者の足跡を追うのはたやすくない。
 白石は東京の青山学院で英文を学んだ潔癖なモダニストだった。目鼻立ちがはっきりしてふさふさしたくせ毛のハンサムで、最新のスーツにネクタイを締めた格好いい青年は、女性によくモテた。
 しかし最新の知性を身につけながら、古い封建制の頸木から自由になれずに、なんどか意に沿わない結婚をして破綻した。妓生の子夜(チャヤ)と恋愛しても親や世間体に負けて結婚できないままずるずると関係を続けた。
 田舎で教師をしながら詩を書いて暮らすことを夢見た白石だったが、歴史と政治は詩人を翻弄した。
 朝鮮日報社に勤めた白石は実に多くの知古を得た。当時の社長は曺晩植(チョマンシク)だった。曺晩植はキリスト教民族主義者として知られる独立運動家だ。学芸部長は朝鮮プロレタリア芸術同盟の同盟員である洪起文(ホンギブン)だ。
 朝鮮近代文学史には左翼から右翼民族主義者まで、幅広い作家詩人たちの群像が混沌と溢れていた。
 白石が詩集『鹿』を上梓すると、100部限定の発行にもかかわらず、多くの批評を受けた。
 プロレタリア詩人として有名な林和(イムファ)から見れば、〈白石は軟弱な文学主義者の一人にすぎなかった〉が、小説家の李孝石(イヒョソク)は〈失われた故郷を見つけ出したような心情をにわかに抱いた〉と感銘を表現した。
 白石は日本語で書くことを良しとせず、民族的価値を大事にしていたが、決してプロレタリア詩人ではなく、純粋に文学を追究した詩人だ。しかし時代は詩人の純粋な思いを赦さなかった。
 この評伝は白石を追ったものだが、南北の枠を超えた朝鮮近代文学史を物語として読むこともできる。白石を中心に多くの詩人や作家、美術家が登場する。
 朝鮮戦争による南北分断は、芸術家や文学者たちを南に北に分断し追いこんだ。そしてそのどちらでも政治に翻弄された。
 平壌に残った白石は、親しかったプロレタリア作家韓雪野(ハンソリャ)の庇護もあって、ロシア文学の翻訳と童詩の創作で好評価を受けていたが、それも長くは続かなかった。やがてその純粋な文学精神ゆえに僻地に追われ、家族と自分の命を繋ぐことになる。
 いわゆる「赤い手紙」を受け取った白石は1959年家族とともに、〈北朝鮮でも指折りの奥地〉山水郡(サンスグン)館坪里(クァンビョンニ)に追放された。地図を見ると山水は朝鮮半島の東北、咸鏡南道(ハギョンナムド)の北、蓋馬(ケマ)高原の一部で、その北には国境を成す鴨緑江が流れている。北朝鮮随一の寒冷地だ。
 白石は館坪協同組合の畜産班に配属された。潔癖主義のモダンボーイの後半生は羊飼いとして働くことにあった。
 白石の最後の詩(1962年)は見る影もない政治的コピーに過ぎないが、もはや彼にとっては詩人として生きることより自分と家族の生存が重要なのだった。
 では、白石は不幸だったか? たしかに白石は詩人として幸せな晩年を過ごした訳ではなかった。しかし白石は北朝鮮の最果ての地で、妻とともに5人の子どもを育て1996年まで生きた。厳しいとはいえ大自然に包まれて牧畜労働に捧げた生涯に価値がないとは言えない。

 本書は、現代韓国でもっとも愛される詩人白石の生涯を紹介したもので、白石の詩の翻訳が素晴らしく、その解説がまた読者の理解を深めてくれる。その上で、日本帝国主義時代―解放後の解放空間(1945年8月~48年8月)―南北分断の始まり―朝鮮戦争―1957年以降の北朝鮮における教条的強硬派支配時代、という困難な歴史における文学史の一断面をも読ませてくれる。
 北朝鮮で高い評価を受けた韓雪野とモダニスト白石が親しかったエピソードも面白いが、李泰俊・朴泰遠ら多くの文学者たちの情報も満載だ。プロレタリア詩人として日本(語)でも活躍しながら転向した批評家の白鐵(ペクチョ玄徳(ヒョンドク)の『ノマと愉快な仲間たち』(作品社)の挿絵も描いている画家の鄭玄雄(チョンヒョヌン)などなど数多の文化人が登場し左右に揺れながら生きていく。白石の恋人だった子夜は戦後もしぶとく、料亭を経営して83歳まで生きた。
 白石は苦難の朝鮮近代文学史を象徴する詩人と言えるかも知れない。

※ 翻訳者による「解説註」「人名註」が充実していて近代朝鮮文学事典の趣がある。労作だ。

2022年10月10日 (月)

『火山島』の誤植などについて

金石範『火山島』(文藝春秋)の誤植などについて林浩治個人で見つけたものを以下に列挙しておきます。
他にもあるかと思いますが、あしからず。

1巻p304前から13行目
(南承之と有媛の場面)
年齢もおれと二つしか違わないのに、まるで姉さん面をしていったものだった。
     ↓
年齢もおれより二つ歳下なのに、まるで姉さん面をしていったものだった。
   ※南承之から見て有媛は2歳歳下なので「年齢もおれと二つしか違わないのに、まるで姉さん面 」という表現は間違い

1巻
p311後から3行目 有→有媛

3巻P262上 前から6行目 「七、八年ぶりに南方から〝復員〟」→五、六年ぶりに南方から〝復員〟」
       ※韓大用は、1942年8月19日釜山を出航し、1948年1月に帰国している。

4巻p513上 後から7行目 有媛はこうこうして→有媛はこうして
  p519下 前から10行目 遅い目→遅め

5巻p237下 後から2行目 芳根→芳根
  p266下 前から6行目 芳根→芳根
  p409上 後から5行目 を貼って→を貼って
  p439上 後から12行目 開けた→開けた

6巻p276上 前から12~14行目 活字ポイントが大きい
  p367下 後から8行目 直に→直
  p370上 前から2行目 反民委→反民
  p423上 後から7行目 入山反対→入山反対
  p430下 後から9行目 島掃→島掃

7巻p247上 後から6~7行目 「過」と「を」の間に不要な改行がある。
  p347下 前から9行目 読点「」が2ヶ続いている。
  p407下 前から7行目 逃げしたい→逃げしたい

2022年8月23日 (火)

黄順元『木々、坂に立つ』

歴史の因果に歪められた若者たちの精神
黄順元(ファン・スノン)『木々、坂に立つ』白川豊訳 書肆侃侃房

 チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』以来若いフェミニズム系女性作家が、日本を席巻しているが、韓国文学は若い女性文学だけではない。翻訳者である斎藤真理子は『韓国文学の中心にあるもの』で、朝鮮戦争が韓国文学の核にあると論究した。黄順元『木々、坂に立つ』も朝鮮戦争を背景とした小説だ。しかしこの翻訳出版の方が後になったため、斎藤の本では言及されなかった。
Photo_20220823152901  『木々、坂に立つ』は二部構成になっている、第一部は朝鮮戦争のさなか学徒動員された青年たちを描いた。戦争小説なのにどこか情緒的だ。戦闘も書かれるが、むしろ不条理な世界に放り込まれた青年たちの現実と歪んだ心象が描かれ詩的でさえある。
 ヒョンテは会社経営する裕福な家の息子。ドンホは「詩人」とあだ名される生真面目な青年で戦場に来ても、一線を越えられなかった恋人を思っている。ユングは両親を亡くし叔父に養われた。家庭教師をしていたが、ヒョンテの援助も受けていた。
 きまじめなドンホは外出日に飲み屋に行ってもヒョンテたちのように、気軽に酌婦を抱くことができなかった。ドンホは入隊前に恋人のスギと肉体関係になりかけたが、彼女の言葉に従ってそのまま一晩を過ごす経験をしていた。
 ヒョンテたちのように振る舞えないドンホは、潔癖症の自分に嫌気がさして悩みながらも飲み屋の女オクチュを抱いた。純情なドンホはやがてオクチュに執着するようになる。オクチュは夫を戦争で亡くし子どもを流産していた。
 ドンホはオクチュに会うために前線の部隊から彼女のいる店に会いに行ったが、客がいたため、嫉妬から部屋に向かって銃を撃ち、部隊に帰ってから自害して果てた。
 第二部は休戦協定成立後数年経っている。除隊後の彼らや周囲の若者たちの姿を描いた。
 ヒョンテは除隊後はしばらく意欲的に働いていたのだが、前線の村で居残っていた子連れの女を犯して捨てたことを思い出して、無為と倦怠に沈潜し身なりもかまわず、仕事もせずに親の金で、酒と女に身を持ち崩していた。そして飲み屋の女将が北から38度線を越えて連れてきた「生娘」ケヒャンの冷淡さに惹かれて店に通うようになっていた。
 ヒョンテは一種のニヒリズムに陥っていた。生きる目的を失っていたのだ。戦争は生きることを否定する情況だ。敵と遭遇すれば殺さなければならない。自分が殺される可能性を前提にする刹那に高揚するしかない。戦後になっても死と向き合って生きた刹那を引きずって荒んだヒョンテは、「死と向き合った瞬間、瞬間に、失われた自分自身を取り戻したいんだ。あの時はほんとに自信があったんだ」と言う。
 戦争という、個人の力ではいかんともしがたい不条理な世界に追い込まれた青年たちは、登場人物のひとり安(元)兵長の言葉を借りれば、「あの当時は皆、正気じゃなかった」のだ。言わば「神的因果性」の犠牲者であり、運命の被害者と呼べる。
 不条理な戦争によって浸食された内心の不自由が原因だとしても、ヒョンテがその身勝手な行動の責任から逃れられる訳もなく、「人間的因果性」は追及される。
 ドンホの恋人だったスギはドンホの死の真相を探るためにヒョンテやユングに近づく。ヒョンテは、スギに追及されるうちに、かえって彼女を強姦してしまう。
 ユングは家庭教師をしていた娘ミランと関係を持つが、ミランはヒョンテとも関係を持ったうえ、ユングに勧められた堕胎に失敗して死んでしまう。
 ユングはそれまで勤めていた銀行を辞めざるを得なくなり、養鶏を始める。ユングはヒョンテの責任を追及しない。ヒョンテが決して応答しないことを知っているからだ。同じ戦場で血みどろの殺し殺されの時間を共有し、〈意識の底に深く潜在している神に対する懐疑や罪の意識からくる不安や強迫観念〉を共有したのだ。ユングは責任をヒョンテに帰属させ得ない。
 ユングは痛みと慚愧を抱え込みながらも、真実のために悶着を起こすことを嫌い、世間と妥協してでも生きていく姿勢を見せる。生きることだけを目的としているからには、養鶏に興味があろうがなかろうが事業を成功させるために一歩いっぽ進むに違いない。
 ヒョンテを追及したスギは、戦争では誰もが傷ついたと認識している。しかし純粋に真実を探求し自己と妥協しない生き方は、今後の人生の困難を想像させる。
 この驚くべき小説には、これらの若者たち以外にも、両親が殺された復讐心で「裏切り者」を射殺したため、その幻影に苦しめられ続ける鮮于(ソヌ)軍曹、ボクシングの選手だったが戦争で片目を怪我し、戦後ケンカで左手の自由を失ってしまうソッキ、ヒョンテに渡されたナイフで自殺する若い娼婦ケヒャンなど、絶望の淵で生き、そして場合によっては死んでいく若者たちの姿が描かれた。
 それは、正しさやあるべき姿ではなく、歴史の歪みに映し出された若い群像の姿を歪んだままに表したものだ。
 文学は限定的ではない。この小説を読めば私たちはウクライナ戦争に思いを馳せる。戦争は必ず人の心を歪に導く。

 黄順元は1915年生まれ。多くの作品を遺し文学賞受賞も少なくなかった。大作家だ。映画やTVドラマ化もされ、特に短篇「소나기(夕立・にわか雨)」は韓国語学習テキストに使われることがあるので、韓国語学習者にはおなじみかも知れない。
 作者についての情報は、翻訳した白川豊による解説に詳しい。
 また『木々、坂に立つ』は、書肆侃侃房の「韓国文学の源流」長編シリーズの4冊目で、短編選もこれまで3巻発行されている。流行におもねることなく、流行の波に乗ろうという意欲的な出版に拍手を送りたい。
 愚銀のブログでは、金源一『父の時代』廉想渉『驟雨』を紹介している。

2022年7月27日 (水)

斎藤真理子『韓国文学の中心にあるもの』

地下茎のように張り巡らせた連続する文学を、強靱な内省によって読み解く

斎藤真理子『韓国文学の中心にあるもの』イースト・プレス

Photo_20220727141301  これまで韓国文学の紹介に努めてきた斎藤真理子の、翻訳以外の日本語出版としては初めての単著が出版された。
 韓国文学は、かつて日本では政治的関心か、少数の研究者やマニアの関心しか引かなかった。昨今は新聞雑誌の書評欄を飾ることも度々となり、本屋の棚の一部を韓国文学コーナーが占めることもままある。斎藤を初め翻訳者も増大し、昔日のさみしさはない。韓国文学はブームを越えて定着したと言っても過言ではあるまい。
 このブームの引き金は、チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』だった。『82年生まれ~』は女性の生き方を真っ正面からあつかって、韓国文学どころか小説を読まない読者をも取り込んだ。社会構造がもたらす女性差別に敏感に反応した日本の読者たちが、韓国文学ブームを巻き起こしたとも言えよう。
 斎藤真理子は『82年生まれ~』を〈社会に存在するジェンダー不平等を可視化させるという明確な目的を持ったコンセプチュアルな小説〉と言った。
 まさに時代が求めた小説だったのだ。
 斎藤の視線は韓国文学を読み解くために韓国社会を分析しながらも、日本に跳ね返っている。徴兵制が敷かれて男性が共産主義の脅威から女こどもを守る代わりに、女性は我慢しろという韓国から、著者の視線は翻り、基地のほとんどを沖縄に押しつけて男女そろって無関心な日本へと向けられる。沖縄の米軍基地も自衛隊の誕生も朝鮮戦争と深く関わっている。
 植民地時代、戦後の解放空間と済州島四・三事件などの白色テロ、そして朝鮮戦争、四・一九学生革命、朴正熙の維新の時代、光州事件、民主化、IMF危機、セウォル号事件、キャンドル革命と、韓国現代史に文学は寄り添ってきた。そして韓国史の影に陽に日本が表れる。
 チョ・セヒの〈 『こびとが打ち上げた小さなボール』は、維新時代の産物である。〉と、斎藤真理子は書く。維新時代が良かったので素晴らしい文学が生まれたという意味ではない。自由と民主主義を弾圧した独裁政権の時代にどのようにして、この傑作ロングセラーが生まれたのか。ここだけでも読み応え充分だ。
 『こびとが打ち上げた~』は強引な経済成長の犠牲にされた民衆の姿を追った小説だ。『こびとが打ち上げた~』に、斎藤真理子はまぎれもない日本の小説、チッソによる公害被害を告発した石牟礼道子『苦海浄土』を連想した。古びることのない声、古びることのない表現が、資本主義的高度成長によって傷つけられた人びとの声なき声を読者に届ける、という共通点を発見している。
 朝鮮に生まれた植民者三世詩人・村松武司の言葉を借りて、チッソが植民地支配下の朝鮮で民衆の犠牲の上に巨大企業化への足がかりを作ったと批判した。『苦海浄土』は日本の朝鮮植民地支配と無関係ではなかった。
 〈彼ら(チョ・セヒと石牟礼道子)は自分の文学の文学的達成のためだけでなく、また啓蒙のためだけでもなく、対象との連帯のために文体を精錬した〉という指摘には舌を巻く。小説読者としての自分の角度の狭さを認識させられた。
 著者は、崔仁勲(チェ・イヌン)『広場』の紹介でも日本文学を振り返る。
 『広場』は韓国で言う分断文学の代表作だ。朝鮮戦争の釈放捕虜である男の来し方と選択を描いた。選択の余地ない分断、強権政治、戦争。選択の自由がないのに重い結果が残る。
 ここで斎藤真理子が連想したのは堀田善衛『広場の孤独』だった。朝鮮戦争が日本に及ぼしたものは朝鮮戦争特需だった。韓国の崔仁勲『広場』の選択が、どこに逃げるかによって自由と命のかかったものであるのに比し、『広場の孤独』は金を受け取るか否かの選択を表出したのだった。この両者の置かれた距離に、斎藤は韓国と日本が戦後冷戦構造のなかにおかれた両国の位置を確かめている。
 更に、高揚しながら経済成長の波に飲み込まれた日本の現代史に対して、幾多の広場の記憶を経て光化門広場でのキャンドル集会まで辿り着いた、韓国の連続する記憶を『韓国文学の中心にあるもの』の読者は追体験する。
 読者は、「韓国文学の背骨」としての朝鮮戦争を読む。そして朝鮮戦争体験の日韓の相違が、現代文学に反映されていたと知るに違いない。
 本書の一部だけを切り取った感想を書いたが、この本で取り上げられた文学作品は、巻末に2段組8頁にわたって紹介されている。膨大だ。
 著者の読書歴がそれ以上に膨大だからだ。斎藤真理子の読書は単発ではない。日本文学から韓国文学、世界文学まで、広く地下茎のように繋がっている。それ故に、この本自体が広範な知性によって裏付けされた批評性に富んだエッセイとして文学たり得ている。無論、現代韓国文学の解読書としては今のところ他の追随を許さない。しかしたんなるガイドブックではない。
 振り返る内省の強靱と、現実に生きる場から離れない視野で、朝鮮戦争を核とした韓国現代史を文学のなかに発見する丁寧な読書が、この本を支えている。読書とはこんなにも深く広いものなのだ、と改めて関心させられた。
 読書人の端くれとして反省。

2022年5月19日 (木)

玄徳『ノマと愉快な仲間たち 玄徳童話集』

玄徳『ノマと愉快な仲間たち 玄徳童話集』鄭玄雄画 新倉朗子訳 作品社
日本支配下朝鮮の子どもたちに希望の灯火を

Photo_20220519100701 『ノマと愉快な仲間たち』を手に取ると、まず、素朴でほのぼのとした表紙絵・挿絵が目を引く。副題は「玄徳(ヒョン・ドク)童話集」だが、帯文には「どこか懐かしい気持ちになる、大人のための童話集」とある。
 本書に訳出されたもののほとんどが1930年代後半に書かれている。したがって、ここに描かれた子どもを中心とした風景は、植民地時代まっただなかの朝鮮の風俗を描写したものだと言える。
 鄭玄雄(チョン・ヒョヌン)の派手さのない、むしろ地味だが愛情を感じさせる挿絵が釣り合っている。
 ノマというのは5、6才の男の子の呼び名で、他にキドンイ、トルトリ、女の子のヨンイといったの友だちが出てくる。この子たちの住む路地裏や町角が遊び場になっている。――子どもたちの呼び名については本書序文に解説されている。
 話は同じ言葉の繰り返しでリズミカルに進行し、大げさな事件は起きないが子どもたちの心の機微が丁寧に描かれる。
 ノマはお母さんと暮らし、お父さんは遠くに出稼ぎに行っていたりして、だいたいのところ不在だ。設定は作品毎に若干の異動があり、トルトリがノマの弟になることもある。しかしキドンイだけはどの作品でもやや裕福で、水鉄砲やおもちゃの刀を持っていたり、服や靴も他の子どもたちよりも上等だ。その分底意地が悪く、ノマの靴を馬鹿にしてはしゃいだり、飴を見せびらかせて一人で食べたり、おもちゃや子犬を独り占めにして貸してくれない。
 ノアたちは子どもらしい想像力で電車ごっこをしたり、ウサギのきょうだいになって遊んだ。ときには小さな冒険に出かけて帰り道が分からなくなり、途方に暮れたりするが、いつも周りの大人たちの愛情に見守られている。
 微笑ましくて、少し悲しくて、それでも子どもたちはたくましく、植民地支配下にあっても希望に満ちている。
 集録された初編はおとなしい童話だ。プロレタリア文学ではない。民族主義的な抵抗を表してもいない。そうした意図はないのだと思う。しかし朝鮮の子どもの明るい未来を願う作家の意志は明かだ。
 作者の玄徳(ヒョン・ドク)は1910年の「日韓併合」の前年に生まれ、植民地時代に半生を生きた青年作家だ。
 玄徳は若くして才能を認められたが、工事現場で働いたり、日本に渡ってペンキ屋や土工として苦労したそうだ。――詳しくは訳者解説を読んで下さい。1938年に発表した「草亀」で作家朴泰遠(パク・テォン)に激賞された。この中編小説は書肆侃侃房の「韓国文学の源流短編集2」『オリオンと林檎』(2021年9月)に集録されている。
 朝鮮語での自由な創作が厳しさを増していく時期に、朝鮮語だけでしか書かず、発表誌を失うと絶筆した。
 書くことでしか生きていけないと決意した作家が、書かないことを選択するとは尋常ではない。多くの作家が帝国主義宗主国の言語である日本語で書く道を選んだ時代に、日本語を拒否して絶筆したのだ。そういった作家は他には、金廷漢(キム・ジョンハン)など極少数だ。
 玄徳は朝鮮戦争後に越北して1962年以後の消息は不明だ。この年代の朝鮮人の悲劇を象徴するような存在かも知れない。序文を寄せている牧瀬暁子は朴泰遠の研究者で、『川辺の風景』(作品社)などの翻訳者だ。朴泰遠は越北作家として、韓国では体制が民主化されるまでは禁忌されていた。玄徳も同様だ。
 翻訳した新倉朗子はフランス文学者。語学の素養があるとは言え、70歳過ぎてからの韓国語学習でこの翻訳出版にこぎ着けたのは凄い。だらだらぐだぐだの己を省みると恥ずかしくなる。尊敬しかない。

2022年5月13日 (金)

金石範「地の疼き」

金石範「地の疼き」『すばる』5月・6月
個を越えたの文学を検証する試み

Photo_20220513142901  96歳の金石範が『すばる』5月と6月に分けて小説「地の疼き」を発表した。主人公は、2020年『すばる』7月に書いた「満月の下の赤い海」と同じく、金石範本人を模した「K」だ。
 金石範は、〈『火山島』などの作品が私であり、私と重なった見えない私である。現実の作者の私は影である。〉(「生・作・死」『すばる』2020年12月)と書いている。
 現実の影である金石範の私が、私と重なった見えない作品を表出するために設定したKである。
 Kはもちろん済州島四・三闘争を小説のテーマとしている。1988年11月、Kは、42年ぶりに故郷訪問を果たす。
 韓国訪問のためにKは駐日韓国大使館領事部ハン参事官と対峙した。ハン参事官はかつてKも編集員だったS誌の他の編集メンバーたちの韓国訪問を実現し、韓国籍取得に至る成果を得た経験を持っていた。
 1947年、日本政府は外国人登録令を実施し登録証の国籍欄は全体が「朝鮮」だった。それが、1965年の日韓条約で分断朝鮮の南である「韓国」だけが国籍を意味するようになった。Kは依然として朝鮮籍のままだ。
 S誌というのは『季刊三千里』の謂で、1981年2月に金達寿、姜在彦、李進煕らが韓国を訪問した。このときの韓国訪問に反対した金石範は編集委員を辞している。彼らの訪問をTK生の「韓国からの通信」は厳しく批判したが、金達寿は故郷に錦を飾った紀行を『故国まで』(1982年4月 筑摩書房)として発表している。
 小説のKはハン参事官から入国許可証を受け取ったが、差し出された手を握らなかった。
 Kは、ソウル―光州―済州島を訪ねてハン参事官の意に沿わぬ発言を続けた。民主化したとはいえまだ反共風土の根強く残っている韓国社会で、Kは「忌避人物」とされていた。親戚との交流もギスギスしたものとなり、墓参りは諦めざるを得なかった。
 再びソウルに戻ったKは、1945年夏独立運動の同志で同い年のチャンを思い出す。夏休みに一時日本に戻ったKはそのまま朝鮮に戻れなくなる。李承晩政権と闘うチャンはなんども手紙をよこした。
 チャンの恋人は音楽学校に通う令嬢だが、チャンは彼女を日本に逃がしたがっていた。李有媛造形のヒントとなった女性だろう。
 Kは〈殺人を否定しながら殺意を抱いてその枠を越えようとする李芳根について〉考えた。Kならぬ金石範は、Kと『火山島』の登場人物である李芳根を錯綜させていく。

「火山島」の虚構的空間と現実の生活空間をつなぐものは、虚構と現実の交錯、重なりであり、二次的虚構であって、Kが「火山島」のなかへ入るか、李芳根が「火山島」の外へ出てくるか、両者の動き自体が虚構における事実――現実となる。

 Kは南山西麓の町角で李芳根とともにトランペットの響きを聞く。李芳根は東麓に位置する「西北」詰所の邸宅に向かう。『火山島』第四巻第十三章の場面だ。そこで李芳根は初めて文蘭雪(ムンナンソル)と会う。テロリストの巣窟にいた美しい女に惹かれていく。
 22日間の故国訪問からW市のマンションに帰ったKは、十日間昼夜連続で夢を見た。夢と現実の境界の分からなくなる異世界に没入した。金石範文学にしばしば見られる状況だ。
 ことばも人間も景色もすべて済州島で日本の出てこない夢だった。それは60余年の在日生活に敵対し否定した。
 こうした極めて民族的な文学思想が、42年ぶりの故郷訪問が導いた63歳のKのものか、じつは96歳の金石範の感慨か筆者には分からない。
 ただ小説は、この10日間の夢を「意識化された欲望――深層の朝鮮の表現」だと語る。そして夢こそ真実の現実で、在日の存在が仮象なのだと。

現実の自分とそれを仮象だとする夢の自分の分裂、この分裂と夢が表現に向う。

 仮象の認識が転化してのイメージとして文学が成立する。実体からの分裂であり、一種のニヒリズムが発生する。
 ニヒリズムは「火山島」の李芳根を生み出す。李芳根は植民地時代に逮捕されながら、肺結核もあって転向保釈された過去を憎んで放蕩し、外界との関係を絶ったのだった。
 しかし李芳根はほんとうにニヒリストだろうか、という疑問は筆者のものである。
 李芳根は、裏切り者柳達鉉(ユダルヒョン)を死に追い込み、警察幹部の鄭世容(チョンセヨン)を射殺する。虐殺者に対する憎悪、個に対する殺意への移行は、李芳根の年下の友人たちに対する限りない愛と対比される。
 また、「地の疼き」では珍しく金石範であるKの父の来歴について書かれている。
 Kの曾祖父が隣接の朝天(チョチョン)から三陽(サミャン)に移った。祖父は30代半ばに至らない早死にだった。父の家は済州きっての名門一族だったが旧韓国の滅亡、植民地化とともに没落した。父は日本の植民地時代に適応できなかった。気位高く、働くことを知らない破落戸(パラッコ)の道化者だった。
 父は二児の母親だった寡婦と結ばれた。Kを孕んだ母は大阪へ旅立ち、イカイノでKを産み落とす。父は郷里で妓生と生活していたが、K出産後2、3年後数えの36で死去した。金石範は実の父と会ったことはない。
 母は還暦祝いの10余年後に死去し、大阪郊外の小高い丘の麓の風水の地相に適した墓所に葬られた。
 こうした両親への追想が作家の老齢と無関係でないはずがなく、小説のなかに組み入れられることに、ますます自己存在の全体を小説という虚構の真実に組み込もうとする足掻きのように思える。
 1996年、Kは8年ぶりに韓国を訪ねた。
 ゲリラ戦跡や虐殺の跡地、島民が穴居生活をした洞窟などの四・三遺跡を訪れたが、この衝撃をそのときは充分に内在化はできなかった。Kは済州島を離れてから「胸に疼き」を感じていた。

 ゲリラたちが骨を埋めた地の疼き、地霊が故国の地を踏んだKの軀に移ってやがてKのなかで灰をかぶった熾火のように燃え続けているのだろう。

 1998年8月、済州島「四・三」五十周年記念国際学術大会に招かれたKは、一旦は入国を拒否されたが、大会参加者一同の抗議によって金大中政権が動き、最終日の夕刻済州島空港に到着した。
 劇的な入国は韓国の変化を感じさせた。Kは親戚とともに祖父母の墓参りも果たした。済州島は四・三解放へと動きつつあった。
 金石範は、『火山島』の登場人物たちのなかに影としてのKを見つめていた。「地の疼き」は現実に生きる作家自身という個を越えた魂魄の文学を、自ら検証する試みのようだ。

2022年4月17日 (日)

チャン・リュジン『仕事の喜びと哀しみ』

チャン・リュジン『仕事の喜びと哀しみ』(牧野美加訳 CUON)
 働く意味を考える、爽快な仕事文学

Photo_20220417211801  チャン・ガンミョン『鳥は飛ぶのが楽しいか』(吉良佳奈江訳 堀之内出版)を読んだ流れで、まだ読んでいなかったチャン・リュジン『仕事の喜びと哀しみ』も読んだ。
 モチーフが似通っていると思ったからだ。両者ともに、生きるための仕事との格闘や就職の困難、生きがいでは生活できない現実、住宅を確保することさえ困難な社会事情などが描かれる。
 しかし『鳥は飛ぶのが楽しいか』の登場人物たちが、社会に対する絶望や諦念に支配されているのに比べ、『仕事の喜びと哀しみ』に収められた初編には諦念が見えない。それほど諦めていないというか、あっけらかんとした明るさがある。仕事に喜びさえ感じている。追い詰められていない。
 表題作「仕事の喜びと哀しみ」は、IT系スタートアップ企業に勤める主人公の女性が会社への不満や上司の理不尽を語りながらも、頑張ってうまく解決していく。にっちもさっちもいかない絶望ではなく、喜びのある職場を得た爽やかな勝者の文学だ。これ皮肉ではない。
 「助けの手」は、主人公夫妻が子どもを儲ける余裕はないものの、やっと手に入れた20坪台のマンションでつつましい生活を送り家政婦を雇う話だ。働いて生きるために家政婦を雇わなければならないとは、よく考えるとけっこう大変なことであるにもかかわらず、絶望的な雰囲気はない。
 「やや低い」で、チャンウが自分が目指す方向性と商業音楽のパッケージの背反に動揺する姿は、チャン・ガンミョン「音楽の価格」のミュージッシャンわらの犬の煩悶と似て異なる。
 チャンウはたまたま適当に作った「冷蔵庫ソング」がユーチューブでヒットしてしまって、企画会社から契約を持ちかけられる。しかしチャンウは音楽をアルバム単位でしか考えられない。デジタルシングルなんて小説の一部だけをつまみ読みするようなものだと考えているために、引き受けられない。結局、実生活では失うものが大きく豊かに暮らすことはできない。しかしチャンウは呆然としても生活のために闘う姿勢を持たない。どこか茫洋としている。
 チャン・ガンミョンの「音楽の価格」では、わらの犬はチャンウほど芸術家肌ではない。音楽労働者としての自己を認識している。この違いは作家の文学観の違いなのだろうか。
 チャン・リュジンの主人公たちは立ち上がった視線を持っている。顔を踏みつけられた地べたから見る小説ではない。しかし、それだけに小さな心の揺れが感動を呼ぶ。
 韓国の学生は就職のために英語などの検定や資格取得、海外留学などのスペックを積み上げ、対外活動に精を出して目標に向かうという大変な努力をしなければならない。「タンペレ空港」の私は、ダブリンで3ヶ月をワーキングホリデーで過ごすために格安便に乗った。経由地のフィンランドのタンペレという小さな空港に真夜中に到着し5時間半の待ち時間がある。
 私はそこで目の不自由な老人と出会う。私は待ち時間を老人と過ごし、ドキュメンタリープロデューサーになりたいという夢を語った。私は老人と連絡先を交換して搭乗を手伝ってダブリンに向かった。ワーキングホリデーを終えて帰国した私を待っていたのは、あのひとときを一緒に過ごしたフィンランドの老人からの写真と手紙だった。
 その後私は大学を卒業して下請け制作会社を経験したあと、食品会社に就職した。
 なりたい目標に向かって忙しく努力し続けることは、たとえ無理だったとしても無駄ではなかったはずだ。しかし生きるためにあくせくしているうちに、忘れていった大事なものはなかったか。そこに気づいたとき人は心を震わす。
 ここに上げなかった短篇も含めてすべて軽快なタッチで爽やかに描かれている。冷たい生マッコリの爽快感といったところだろうか。
 チャン・リュジンは1986年生まれのまだ若い作家だ。韓国ではミレニアル世代と呼ばれる過度な競争世代に属していて、自身も「仕事の喜びと哀しみ」の主人公同様のIT企業で働いた経験がある。

チャン・ガンミョン『鳥は飛ぶのが楽しいか』の書評は『図書新聞』6月18日第3547号に掲載されました。

2022年2月 7日 (月)

ソン・ホンギュ『イスラーム精肉店』

顔を捩じ伏せられた者たちの視線を浴びよ
ソン・ホンギュ『イスラーム精肉店』橋本智保訳 新泉社

Photo_20220207204401  底辺の異邦人の街でアンナおばさんが営む忠南(チュンナム)食堂には、民族や性別年齢、宗教、立場の違う、しかし社会から疎外され虐げられる人びとが集っている。
 僕は孤児院からハサンおじさんに引き取られたが、中学校には行っていない。僕の身体には無数の傷跡がある。右の鎖骨にあるくぼんだ傷の理由は本人も分からない。身体の傷は悲しい過去の記憶だ。歴史が染み込んだ傷跡である。
 貧民街で精肉店を営むハサンおじさんは朝鮮戦争に参戦したトルコ人で、体にも心にも傷を負っている。ハサンおじさんは豚食を禁じられるイスラム教徒でありながら豚を捌いて売っている。罪であり罰である職業で生きる意味を読者は考えざるを得ない。食べて生きる日々のためには、いくらでも残酷になれる憐れな人間を、殺され食される豚は見ている。
 食堂の屋根裏部屋に住まうギリシャ人のヤモスおじさんも、朝鮮戦争に参加して以来韓国に居着いたらしい。
 朝鮮戦争を、北朝鮮と韓国の戦争にアメリカと中国が加担したと思っている向きもあるだろう。しかしそう単純ではない。北朝鮮軍と国連軍の戦争であり、国連軍にはアメリカ軍が中心だったとはいえ、イギリス、フランス、ギリシア、トルコ、オーストラリア、カナダなど15カ国が実践部隊として参戦している。
 ハサンやヤモスがどういう経緯で置き去りにされたのかは不明だが、戦争の傷痕は国籍も肌の色も超越していた。この町に暮らす失郷民は民族を越えている。
 アンナおばさんは典型的な韓国人なのだが、中国系、日本系、ベトナム系と言っても違和感がなく、ヒスパニックにも見えた。血族なんて曖昧なもので、人間はそもそも混血として生まれたのではないかと、僕には思えた。
 いつも軍歌を歌っている「ハゲ頭」と呼ばれる老人は、戦中の記憶がなく、自分を韓国軍の英雄だと思い込むことにしている。後付けの知識を記憶の代わりに披瀝する老人は、元軍人たちの集まりで「はったり屋」とばれてしまう。しかし偽の記憶で構築された右翼老兵の存在意義はもともと軟弱だ。戦争の痕跡はさまざまな痛みを見せつける。
 忠南食堂の周辺には地を這う虐げられたら人びとが集まっている。「ハゲ頭」を救おうとする「ちゃっかり者」、いつも父親から殴られている米屋の次女、「鍵屋の爺さん」と呼ばれる酔っ払いは何を聞かれても「ピンクの象」と応える。
 小説全体は僕の視点で描かれるが、練炭売りの息子ユジョンもまた作者の分身的シチュエーションを保っている。ユジョンは動物と話す吃音の少年だ。彼は小説家志望だが、言葉で表現したものは、じつはなにも表現できていないような気がしている。ユジョンは言葉が意図通りに相手に伝わっていないのではないかといつも不安に思っている。同じ言葉でもみんな同じとは限らないと知っている。
 小説家はみんなの証言したくないことを証言し、患者のおできに口をあてて膿を吸ってやるのだ、人間の魂に流れる膿をぬぐってやるんだ、というユジョンの言葉は、作者の気持ちを代弁させていると思われる。
 ユジョンの小説家定義は、金石範が『鴉の死』など複数の作品で描いたでんぼう爺を連想させる。
 この貧民街が時代の変遷によって瓦解の道を辿る事実は、歴史によって証明されている。
 世話好きで街のまとめ役、言わば大地の女神であるアンナおばさんは、再開発が決まっているこの町の不動産屋を睨みつけて僕に語る。
「あたしたちが暮らしているここは大韓民国じゃない。ただの資本主義という場所よ。資本主義ってのはひとことで無礼きわまりないやつでね。おまえも資本主義に礼儀を期待しちゃいけないよ。傷つくのはおまえの方なんだから」
 なかなか知識人めいて本質を突いた言葉だ。
 だが、足腰を打ち砕かれた横臥者に届くだろうか。横臥者の体の中の砂漠に聞こえる声は、主体によって違うだろう。
 僕は自分の心の声に耳を傾けながら、耳で聞けない音を聞くために魂にも耳があるかも知れないと考えていた。
 僕はいつも生きることからの無断欠勤を夢見ていたけれど、ついにこの世界を養子に迎えようと決意する。
 この小説を読む直前に、チョン・セラン(斎藤真理子訳)『シソンから、』を読んだ。『シソンから、』は立ち上がって闘った者の小説だ。これを立っている者の視点から描かれた小説と見るならば、『イスラーム精肉店』は横たわった者の視線で描かれた小説と見るべきだろう。『イスラーム精肉店』は地に顔を捩じ伏せられた者たちの小説だ。

2022年1月 7日 (金)

クォン・ヨソン『まだまだという言葉』斎藤真理子訳

薄ぼんやりした意味で良い
クォン・ヨソン『まだまだという言葉』斎藤真理子訳 河出書房新社

Photo_20220107145801  この短篇集は、なぜ書くのか、文学は誰に向けて書かれているのかという問いに、戸惑う作者の姿を反映している。どの作品も、生きるということの辛さそのもの表出なのだ。
 私ごとだが、95歳の母が何年か前、手を引いてあげればまだ何とか外も歩けた頃、午前中の月を見て「大根の薄切りみたい」と言ったことがあった。
 親子ほど世代が違えば言葉はまったく伝わらないと知っているが、「知らない領域」のミョンドクとダヨン父娘のすれ違う心も、昼月のように透けるほど薄くとも破れずにいる。
 資本主義による分断は家族をも壊そうとする。社会から捨てられた母が娘たちを捨てて逃げ、母に捨てられた姉は妹を捨て、妹は非正規労働者として働き続ける。ギリギリ以下の非文化的で非健康的な日常だ。姉も母も自分が食べるだけで精一杯に違いない。「爪」に描かれたソヒのように、「親ガチャ」にはずれ毎日必死に働くけれど、健康で文化的な最低限度の生活を営めない貧困な人民がこの社会を支えている。家族さえ壊された庶民は日々の労働と節約生活に追われ、集う場を持てないし自らを追い詰める社会を批判する時間もない。
「向こう」のNも期間制教師という名の非正規労働者だ。Nは校内の滑稽な権利争いから一歩引いて達観しながらもどこか侘しい。
 一方Nは療養病院に入っている母の苦痛に気づけないでいる。寝返りの打てない要介護老人は褥瘡ができやすい。一旦できてしまえば、患部に薬を塗布し滅菌ガーゼで覆い、クッション代わりの脱脂綿をのせてテープで貼る作業が毎日の日課に加わる。おざなりな看病人の調子の良い言葉に疑いを持てなかったNは、痛さを訴えて泣く母に気づかなかった。
 貧しくて生きるだけで必死な状況は、見ていても見えないようにする。
「友達」のヘオクも女性用品販売の仕事で必死に生きているが、娘がいじめにあっている事実に向き合えない。信仰で目隠しされているのだ。
「松湫(ソンチュ)の秋」では墓のあり方を巡って兄姉弟の意識のズレが描かれた。韓国の墓と言えば土まんじゅうの土葬を思い浮かべるが、昨今は火葬が増えているらしい。
 わざわざ父の墓を掘り返して火葬にしなおそうとする長男と、母の意を汲んで反発する妹との関係は、文化の移ろいの中にも古い男尊意識がはびこっている矛盾を見せてくれる。母は夫と一緒に埋められたくないと言うのだ。こういう話は日本でもよく聞く。
 このブログでも以前葬式について書いたことがあった。
「灰」の彼もまた死に向かっている。彼の妻は別れた後に亡くなっている。彼は独立した娘と連絡をとらないまま、望みのない手術を受けなければならない。『変身』のザムザに自身を投影しながら灰色の世界に諦観するしかない。失ったものは代えがたい。
「稀薄な心」の老朽化した水道管のキィイイアーという音が象徴するのは、過去に受けた非難と暴行を受けた痛みを引きずる音だろうか。男尊社会においてはあってはならない態度や性的指向は、現代社会でも解消されていない。その当事者でさえ心を整理できない。社会から疎外されるだけではなく、自らも脳裏の片隅に不道徳な非家族を意識してしまう。
 家族のつながりに意味があるなどとは思わないが、テレビでは閉ざされた老人施設での、ガラス越しの面会の虚しさに情を映し出すコロナ禍だ。パンデミックに作家は何を書くべきか。
 作家が作家として言葉を紡ぎ続ける意味を「アジの味」は考えさせる。言葉は他人に伝えるものであるだけではなく、自分に向かっていくものなのだ。小説の彼らは自分だけの言葉を生み出そうと試みる。しかし〈ある言葉は意味がわからないまま生まれてくる〉。クォン・ヨソンの小説は伝える文学ではない。灰色の闇の中でぼんやりした意味だけで充分だ。

2021年11月29日 (月)

金承鈺『生きるということ 金承鈺作品集』

霊魂の速度
金承鈺『生きるということ 金承鈺作品集』青柳優子訳 三一書房

 金承鈺(キムスンオク)の小説のテーマは不安である。
Photo_20211129203902
 金承鈺は、1941年生まれで1960年代に作家として活躍し、ハングル世代作家と呼ばれた。植民地時代から一線を画した民族的世代であり、李承晩政権を倒した四・一九世代とも呼ばれた。しかし四・一九世代は朴正熙の軍事クーデターによって文化的自由を奪われた世代だ。朴正熙の死後は全斗煥が光州民主化抗争を弾圧して再び軍事政権を建ててしまった。金承鈺の作品は、民主主義が追いやられた開発独裁の時代が背景だ。
『生きるということ 金承鈺作品集』は、作家活動を止めていた金承鈺が翻訳者である青柳優子に託した作品集だ。収録された掌編の殆どは1981年までに書かれている。
 金承鈺が描いた市民は、故郷を離れソウルに集まらざるを得なかった人々である。政治と経済の総司令部ソウルで、市民の生活や日常のなかに潜む不安定を、政治的な説明なく描いていく。方法はリアリズムであったりSFであったりするが、描かれる市民生活の背景にある政治が直裁に書かれることはない。
 例えば、新聞社を首になった男のアパートの電気が止められても、金承鈺が描くのは蝋燭を灯す家族の姿だけだ。
 金承鈺は不安を描いた。不安定な社会に生きる市民の不安は、死の横に生きる作家自身の不安であったはずだ。現代史に生きた韓国人の生は死に直面していた。
 1970年代、金承鈺は逮捕された詩人金芝河(キムジハ)の救命活動に奔走した。金承鈺は金芝河の親しい友人だった。金芝河は1970年に朴正熙の維新体制を批判した長篇風刺詩「五賊」を発表して反共法違反で検挙された。日本の読者が最初に大衆的に知った韓国の詩人だ。
 エッセイ「私が会った神様」(2004年)は、訳者青柳優子によって抜粋編集されたものだが、それでも金承鈺ファンには興味深い。金芝河救命に関わったことや、1980年に起きた「光州事態」に受けたショックで小説が書けなくなった心象、執筆できなくなりキリスト教に傾倒していった自己の姿が描かれている。
 Photo_20211129204601  1984年『健康時代』という月刊誌の主幹をしていたころ〈女性問題による誘惑を感じていた。〉といったようなことが率直に書かれていて、お相手はあの人かなあ、などとゲスなことを想像してしまう。
「生きるということ」は、死を考え霊魂の行く先を想像することである以前に、性の問題なのだった。
 ここに収められた幾つかの掌編にも性の混乱が描かれている。精神以前に肉体的にも不安だったのだ。
 政治という現実の矛盾に翻弄されて小説を描けなくなって信仰に傾倒していく過程でも、言うに言われぬ煩悶にのたうったに違いない。
 もともと霊魂を想像していた金承鈺にとって、追い詰められた実態としての自己が、生活や欲望から自由でない実存であるという矛盾は容認しがたい。熱心な信仰に救いを求めたのは当然のことだったかも知れない。
 1981年の12月には〈私の霊魂が肉体を離れて真っ暗な状態、つまり天(霊魂世界)を非常な速度で飛んでいく経験をした。〉と書いている。
 金承鈺は、「死のあちら側」の暗黒に霊魂が飛行する速度は、光よりも数億倍速いと考えていた。形而上に生きる決意をした金承鈺は「健康時代」主幹の名刺を捨てた。
 金承鈺とほぼ同世代の黄晳暎(ファンソギョン)は「神」や「霊魂」という言葉ではなく、「幽霊」についてこう言っている。
〈信川(シンチョン)虐殺に関する小説『客人(ソンニム)』を書いて、当時の目撃者に会いその回想を取材するうちに、幽霊はいると考え直すようになった。まさに「幻覚」は、私たち自身の内面に潜在する記憶と呵責であり、みずからが日常から消してしまったもうひとつの歴史の顔だったのだ。〉(『囚人』Ⅱ 中野宣子・舘野晢訳 2020年12月 明石書店)
 黄晳暎の「幽霊」と金承鈺の「神」は似ている。しかし方向性は違った。
 収録作中「偽物と本物」(2014年)は断筆後の最新作のようだ。
 読者は、夫と離婚が決まり別居中の女性が投資に失敗して自暴自棄になって母子心中したニュースと、夫を癌で亡くして懸命に働いたけれど、娘の医療費にも事欠き、それでも家賃・光熱費などはきちんと支払ってから選んだ母娘心中とを比較する。
 些か教訓話めいて鼻白む思いがする。金承鈺は両者の霊魂の速度が違う、行き先が異なると思ったのだろうか。題名は余りにも俗っぽい。通俗な道徳によって、内面の呵責に自ら赦しを与えてしまうのなら、霊魂に速度はなく滞ってしまう。
 巨星金承鈺は黙してこそ、その霊魂の速度をあげる存在のようだ。

* 筆者は金承鈺作品の書評をこれまでにこのほか2本書いています。ご参照ください。
「不条理な社会に個人の厭世は対峙しえるか―金承鈺『霧津紀行』」
「屈従と暗澹の不条理な社会に生きる―金承鈺『ソウル1964年冬』」

2021年11月20日 (土)

黄晳暎『張吉山』全10巻 鄭敬謨訳

末法濁世に反逆の大作が意味するものは何か
黄晳暎『張吉山』全10巻 鄭敬謨訳 ソウル書林

Dsc_0091_20211012124731_20211120214101  黄晳暎(ファンソギョン)の長篇『張吉山』は、今年2021年2月に永眠した統一運動家鄭敬謨(チョンギョンモ)の翻訳で1994年頃に3巻までは出版された。しかし17世紀後半の朝鮮を舞台にした長編小説は、1990年代の日本では受け入れられず、全10巻の第4巻以降の翻訳発行は成されなかった。
 それが、鄭敬謨の死後になって関係者の努力で、やや変則気味な方法ではあるが出版に至った。
 しかし韓国文学がフェミニズム文学を中心に日本の読者に受け入れられた現在にあっても、たやすく手を伸ばせる本ではない。「宮廷女官チャングムの誓い」に始まる韓国歴史ドラマの人気が続いているとは言え、なじみの薄い歴史文化風俗を文字で読むのは大変だ。売り上げは期待できないに違いない。この出版は思い切った挑戦だったと思う。
 『張吉山』は韓国日報に1974年から84年まで10年の歳月をかけて連載された。朴正熙独裁政権の維新体制さなかである。維新体制に対する抵抗運動も激しくなっていき、1980年には光州民主化抗争が起きた。黄晳暎は執筆と同時に現場の民衆文化運動の指導にもあたっていた。民衆文化運動は後には日本でも点火し、在日朝鮮人青年たちを組織し多くの日本人の心をもつかんだ。『張吉山』の稿料はこの頃の黄晳暎の生活を助けたが、この小説の役割は単に経済的目的ではない。
1986 Photo_20211120214101  『張吉山』の構想には、「洪景來の反乱」という19世紀初めに起きた実際の反乱と、大統領候補にもなった白基玩(ペクキワン)という特異な人物がヒントになっていた。黄晳暎の自伝小説『囚人』によると、白基玩は体制風刺を巧みに演じる「民族の広大(クァンデ)」だったと言う。黄晳暎が戯曲にも書き、『張吉山』の冒頭にもおいた「長山串の鷹」は元々黄海道に伝わる民話で、白基玩から聞いた話だった。
 張吉山は広大だ。『張吉山』の主人が広大として育ったことには作者としての意味があるのだ。
 また、張吉山は奴隷の女性が逃亡中の路傍で産んだ子だ。母親はそのとき死んだ。それを広大(クァンデ)と呼ばれる旅芸人と巫堂(ムーダン)の夫妻が育てた。
 広大や巫堂は、屠獣を生業とする白丁(ペクチョン)や、左官(ミジェンイ)、甕工(オンギジェンイ)などの手を動かし物を造る匠人たち、寺堂(サダン)、娼妓などと同じく被差別階級賤民であった。
 軍部独裁の韓国社会において、黄晳暎が描いた英雄は賤民の旅芸人だった。
 韓国では洪吉童(ホンギルドン)・林巨正(イムコクチョン)・一枝梅(イルジメ)などの義賊を主人公にした小説や映像作品が人気で繰り返される。彼らは義賊と言っても鼠小僧のごときみみっちいコソ泥とは規模が違う。ときの政権に抗い、あわよくば国家政権を転覆しようという逆賊なのだ。
 張吉山もそう言った反逆の英雄の一人だ。
 しかしこの小説は特定の英雄を描いた小説ではない。むしろ群像小説と言える。様々な立場、様々な個性ある登場人物にそれぞれの人生があり物語がある。その中心にいて彼らを繋ぐのが張吉山だ。
 吉山の幼友達で怪力の甲松(カプソン)は妻を殺めて金剛山に入り高僧雲浮(ウンプ)大師の下で修行を積み大聖法主と名乗るようになる。
 遊郭で身を売る女だった妙玉(ミョオク)は、病のために捨てられたところを吉山らの才人村に拾われ、健康を回復した後に吉山と結ばれるが、吉山が処刑されたと思いこみ放浪する。
 李敬舜(イギョンスン)は元は裕福な陶匠だったが、妙玉を助けるために富裕な商人兪致玉(ユチオク)邸を襲い、その後劉吏房を殺して逃げる。
 元香(ウォンヒャン)は、四仙洞(サソンコル)を討捕軍が蹂躙したさいに軍卒たちに強姦され気が違ってしまうが、怪僧呂還(ヨファン)の愛情によって正気に戻り、巫祭を取り仕切る最高の巫堂である大巫(マンシン)となる。
 その他にも数え切れない老若男女の個性が登場するが、なかでも興味深いのが元旅回りの女寺堂(ヨサダン)の座長だった高達根(コダルグン)だ。行動力も才覚もあり豪商襲撃や官憲への抵抗で果敢に働くが、自己の利益と保身のためには冷徹に仲間を見捨てる利己心の強い男だ。
 また、張吉山一党討伐の命を受けた崔衡基(チェヒョンギ)は両班の下の中人階級出身で栄達心が強く、張吉山討伐によって出世しようと躍起になっている。
 彼の思想は、賊徒は国人であって国人ではない「化外の民」だとする支配階級のものだ。化外の民とは朝鮮王朝に服属しない外国人であり、彼らは支配体制にとって危険この上ない存在なのだ。近現代史においても、済州島4・3事件や朝鮮戦争時における「良民虐殺」、1980年の光州民主化抗争時の市民虐殺まで引き継がれる支配者の論理だ。ミャンマーにおけるロヒンギャ虐殺も同じようなものだし、日本の「非国民」罵倒の右翼思想も通底している。
 崔衡基に指揮された官軍は化外の民には容赦しない。化外の民鎮圧に際しては賊地周辺の村々を焦土化するも可としている。官軍によって張吉山たち活貧党の家族が住む四仙洞と塔峴(タップコゲ)村は蹂躙される。住民は皆殺され犯され燃やされたのだ。
 そのとき村の総代は、「あんたの言った化外の民、国に見捨てられた非人の者だ」「わしが生まれ、その中にいるその国なるものをわしは憎んでいるんじゃ。しかしな、よく聞け。わしはこの地にそびえ立つ山峯、この地を流れる河、そこに生い茂っている草や樹を憎悪したことはない」と堂々と胸を張って殺されていく。
 この表明は現代日本にも通用する。
 私たちも腐敗した自民党政権や偏執狂的愛国者のヘイトスピーチを批判するとき、歴史修正主義を論難するときも、日本の自然や文化を嫌う訳ではない。むしろ資本主義的再生産の論理によって、美しい山河を破壊していく拝金主義者こそ恥を知るべきだ。
 さて、人は成長もし変化もする。『張吉山』の登場人物たちの変化をどう見るかは読者の課題だろう。
 黄晳暎は常に疑いの目を以て彼らを描いたに違いない。いかに末法濁世(ジョクセ)に、両班も奴婢もない世を目指そうと「指導者」は裏切るものだ。最終巻最後部(エピローグの前)張吉山は宗教的、政治的指導者たちとは一線を画しいくような雰囲気だ。
 張吉山は言う。
「わしは思うがね、飢えに悩み病に苦しむ八道隅々の衆生に希望を与え、生きる歓びを感じさせる存在が真人(チニン)であるが、そのような真人は一人だけの人間ではなくて、無数にあるんじゃないのか? しかもそれは高貴な血筋の別種の人間ではなくて、むしろ踏みにじられ蔑まれている賤民の中から輩出してくるんじゃないだろうか? この世に生まれ、生きる苦しみを骨身に滲みて知っているのが、このような人たちだからね」
Photo_20211121222401  小説のなかで、張吉山は山に籠もって修行し虎と同居するほどの超人的境地に至るが、英雄的活躍で官軍を蹴散らしたり、宗教的魅力で庶民を導いたりはしない。
『張吉山』が完結した1984年の段階で、黄晳暎が到達したのは政治的確信ではなかった。作家は苦悶し、懊悩の故にこの後激しく行動していったのに違いない。運動のなかに文学を求めたのだ。
 張吉山がそうだったように、黄晳暎は、自らの愚かさを知る者だったのだ。
 作品中、結局死ぬことになる呂還和尚は、こう言った。
「川の上に架けられた橋は、自らを衆生に踏ませて無事に渡らせるも、人助けをしているという意識をもたない。真の菩薩は橋であって、衆生を渡らせ解脱に至らしめるも、自らの行為を口にすることがない。」
 虚言政治家は口が達者だ。我に従えと言う者は信用しない方が良い。

なお、『張吉山』全10巻の申し込みは下記です。メールで依頼すると、送料込みで15,000円で送ってもらえます。
changgilsanjp@gmail.com
三井住友銀行、鶴橋支店、普通、1168067,
口座名は、チャンギルサンカンコウカイ ダイヒョウ リジャフン

2021年10月13日 (水)

多胡吉郎『空の神様けむいので ラスト・プリンセス徳恵翁主の真実』

多胡吉郎『空の神様けむいので ラスト・プリンセス徳恵翁主の真実』影書房

ことばを奪われた詩の天才王女の生涯

Photo_20211013194001  真子さんの結婚が問題とされ、賛成したり反対したり赤の他人が口出しして、マスコミが騒いで早3年。真子さんのPTSDまで報道されて人権は無いのかと思った人も少なくないと思う。ところがここに来て結婚反対デモまでする連中がいるのだそうだ。びっくりです。
 徳恵翁主(トッケオンジュ)もまた被害者だった。他民族の支配に屈した朝鮮王朝最後の王女の悲劇は、現代の日本皇室女性の悲嘆とはとても比肩できないほど大きかったはずだ。
 しかし、『空の神様けむいので』の装丁は美しい。徳恵(トッケ)が少女時代に着ていた宮廷衣装が目を引くのだ。表紙カバーに続いて扉をめくると、勝気な少女の真剣なまなざしの口絵だ。次のページには、京城(現在のソウル)の小学校在学中に書かれた詩がおかれている。

   雨

 むくむくむくと
 黒い煙が
 空の御殿へ上がったら
 空の神様けむいので
 涙をぽろぽろ流してる

 天才詩人と呼ばれた徳恵の童詩を著者の多胡吉郎は、〈胸中の奥深くにわだかまる孤独や闇が頭をもたげてくる。〉と言う。父高宗(コジョン)の死はたんなる保護者の喪失以上のものがあったのかも知れない。朝鮮の王女が母国語ではなく支配者の言語で書いた詩である。
 徳恵は朝鮮王朝最後の王女と呼ばれるが、朝鮮王朝第26代国王、大韓帝国初代皇帝である高宗の晩年の娘で、次の第27代国王にあたる第2代皇帝で初代李王となった純宗(スンジョン)や、梨本宮方子が嫁いだ李垠(イ・ウン)の異母妹だ。
 高宗を国王であり皇帝と書いたのは、日清戦争に敗れた清国が1895年に朝鮮王朝の冊封を解いたため、1897年10月朝鮮の国号は大韓帝国と改められ、国王は皇帝と名乗ることになったからだ。この高宗が60歳のときに宮廷の下級女官梁春基(ヤンチュンギ)に生ませた子が徳恵だ。
 高宗の正妻は明成皇后閔妃である。日本公使三浦梧楼の指揮下の日本官憲と壮士らによって殺害された(1895年10月8日)あの閔妃だ。閔妃の息子が第2代皇帝純宗だ。
 日露戦争後に結ばれた1905年の第2次日韓協約(日韓保護条約)によって、日本は韓国の外交権を奪い保護国として支配した。1907年、高宗がオランダのハーグで開かれた平和会議に密使を派遣して、日韓協約の破棄を訴えようとして失敗した。結果、高宗は皇帝の地位を追われた。この事件は映画にもなった。
 そして遂に、1910年8月29日に公布施行された「日韓併合に関する条約」によって韓国は名実ともに日本の領有となる。大韓帝国皇室は「王公族」として日本の準皇族扱いされることになった。
 純宗は皇帝から「李王」に格下げされた。
 徳恵はその2年後の5月25日徳寿宮に生まれた。生まれながらに日本の支配下に、反日独立を目指し諦めた父の子として生まれたのだ。
徳恵翁主については、これまでも少なくないルポルタージュ、小説、研究などがあり、映画にもなっている。韓国の俳優ソン・イェジンのイメージを浮かべる人もいるかも知れないが、実像は少し異なるようだ。
 多胡吉郎は、悲劇の王女の真実を、『京城日報』から『上毛新聞』『横浜貿易新報』等のローカル紙に至る各新聞、また女子学習院が生徒の父兄宛に発行していた『おたより』にいたる大量の資料をつぶさに調査して、徳恵の周辺の取材と徳恵の「言葉」探しを綿密にしている。
 徳恵は、比較的自由だった京城の日の出小学校時代にいくつもの童詩を書き、宮城道雄らに曲をつけられてもいる。徳恵の詩才は広く知られるようになる。しかし時代は子どもに詩を書かせて歌わせるような「個性尊重、自由教育」を赦さなくなる。
 1925年、徳恵は日本留学が決まり、女子学習院に編入学した。
「あくどい人間たちだ。人質は私一人で沢山なのに、なにが不足でこの子をつれてきたのだろう」とは、東京で徳恵を迎えた歳の離れた兄で王世子李垠のことばだ。
 京城の小学校では王女として守られていた徳恵だったが、日本の特権階級の子女が集められた女子学習院では特別扱いはされなかった。むしろ異端であったかも知れない。それでも和歌をたしなみ才能を見せた。

師の君にみちびかれつつ分け入りし文の林のおもしろきかな

多胡吉郎は、〈それは、王女として生まれた少女の詩魂開眼の瞬間であったとも言える。文の林に分け入り、言葉の森を自由に縦遊(しょうゆう)することで、亡国のプリンセスという立場を超え、一人の女性として、人間としての肉声の言語化に目覚めたのである。そこにこそ、おのれの生があると悟ったのである。〉
と解釈した。
 そうだったのかも知れない。少なくとも生きがいの欠片のようなものを見いだしたかったに違いない。しかしそれは支配者の言語で支配者の形式での詩だった。徳恵はその詩もやがて失っていく。
 徳恵は女子学習院在学中の1930年頃から統合失調症の症状を見せ始める。原因の特定は困難だ。学校にも行かなくなる。徳恵が抱え込んだ重圧の大きさは想像を絶する。
病気癒えぬ徳恵姫に結婚話が進められた。相手は朝鮮と歴史的関係の深い旧対馬藩主宗武志(そうたけゆき)である。
 徳恵翁主の紹介はこのくらいにしておく。問題は、病を得たあと徳恵の言葉が殆ど見つからなくなってしまったことだ。心を病んだから詩を失ったのか、詩を奪われたから心を失ったのか。徳恵は二重三重に言葉を奪われた王女である。言葉を奪われるということがどれだけ大きな痛みを伴うのか、私たちは考えなければならない。
 夫となった宗武志が文学の造詣浅からぬ人だったこと。その夫と離婚した徳恵が晩年を韓国で穏やかに過ごせたことは、悲劇中の幸いではなかったか。
 いろいろ学ぶことの多い本だった。本文の主旨とは直接関係ないが、大正天皇が1907年に皇太子として朝鮮を訪問し、大韓帝国皇帝純宗と親交を結び朝鮮語を学ぶようになったという逸話など、新鮮に受け止めることができた。

2021年10月 5日 (火)

金源一『父の時代』

金源一『父の時代』遠藤淳子・金永昊・金鉉哲訳 書肆侃侃房Photo_20211005140901
狂気の歴史を生き抜いた作家の私的現代史

 朝鮮戦争によって南北に離散した家族は1000万人とも言われている。作家金源一もそのうちの一人だ。
『父の時代』は金源一(キムウォニル)が70歳を過ぎて、北朝鮮に行ってしまった父について綴った小説だ。しかしあとがきにわざわざ小説としてのみ評価されたい旨を書いているほど、歴史的事実を書いた証言でもある。雑誌に連載したものを改稿した際に450枚削除したというのだから「小説化」にはそうとう苦心したのだろうが、それでも小説としては無駄が多い。
 しかしながら、解放後の人民抗争など、同じく1945年8月以後の南朝鮮を描いても、金達寿(キムダルス)『太白山脈』などよりもずっと客観性を保っている。
 金源一は小説の書き方を間違えた訳ではない。小説の枠を超えてでも書きたかったに違いない。
 日本帝国主義支配の時代から、解放後の左右入り乱れての混乱期、朝鮮戦争の時代と激動の朝鮮を、父と母の確執を中心に個人史として描いた文体は得がたい。そのために小説離れした歴史叙述も致し方なかった。
 ぼくは慶尚南道(キョンサンナムド)金海郡(キメグン)進永邑(チニョンウプ)に生まれだ。父は新教育を受け、日本留学も経験しているが、母は学校に通ったこともなく、礼儀作法しか習わなかった。二人は最初から馬が合わなかったのかも知れない。女性にだらしない父は家に帰らず、左翼的独立運動に関わっていた。父の革命家としての道は、母から見れば思想に狂って家庭を捨てた流れ者の道に過ぎなかった。
 父は左翼運動に邁進して、日帝時代も李承晩時代も逃げ回っていたが、そのたびに母は警察に引っ張って行かれて、数日間暴行されて、全身あざだらけ顔はパンパンに腫れて別人のようになって息も絶え絶えになって帰ってきた。母からすれば父の仕事など迷惑千万に過ぎない
 ぼくにとっても一家の大黒柱は母であった。
 左翼運動の盛んだった金海郡進永邑で国民保導連盟(保連)への加入脅迫が進むと、僕たち家族は1949年の春に夜逃げ同然にソウルに引っ越した。保連は左翼からの転向者を加盟させて管理する団体だ。逮捕を免れるために加入者が大挙し、中には鄭人沢や白鉄、金起林、鄭芝溶などの文学者・詩人も数多くいた。
 1950年5月30日の国会議員選挙で李承晩に批判的な中道派民族主義者たちが多数当選した。全議席270席のうち、李承晩の大韓国民党は24席しか取れなかった。李承晩の政治的危機を救ったのは、6月25日の北朝鮮の武力南侵だった。李承晩は国論を統一して国連軍の支援を受けることに成功した。一方で30~35万と思われる保連の加盟者うち20万人余りを集団虐殺している。こうした蛮行がまかり通ってしまった。
 本書は小説らしからず、様々な資料が引用されている。
 筆者としては、作家金廷漢(キムジョンハン)の引用が気にかかった。金廷漢は日本語が強制された時代にペンを措いた孤高の作家だ。その金廷漢さえ捕らえられていた。特務隊と警察隊は進歩的な知識人をなくそうと血眼になっていて、濡れ衣を着せて殺していった。
 金廷漢は刑務所から虐殺現場に引き立てられていく直前に、将校だった教え子に助けられた。こんな状況では文化人の多くが越北しても仕方ない。
 1950年、北朝鮮の人民軍が南進してソウルを支配すると、西大門刑務所から解放された父は、区域の人民委員会の委員長に任命されて、ぼくの家は「幹部ドンムの家」と呼ばれた。ところが父は多忙に任せて滅多に家に帰らず、僕の家の貧困も相変わらずだった。
 米軍の仁川上陸後、人民軍は後退を余儀なくされ、人民軍将校の父は帰らず、僕たち家族はやっとの思いで進永に逃げ帰るが、父の前歴のせいで世間の目は冷たかった。母はぼくだけを知人に預けて、姉弟を連れて大邱に逃れる。しかし、そこにも食うや食わずの悲惨な暮らしが待っていた。
 こういう小説を読むと思想ほど暴力の前に虚しいものはない、と思わざるを得ない。逆に、生きるためにあっちを向きこっちになびく人生にも価値があり、しかしそんなちっぽけな生さえ踏みにじる権力の浅ましさに怒りを感じる。権力闘争なんて狂気の沙汰だ。人間は狂い、もっとも狂った者こそ権力の座に着くのに違いない。

 金源一の作品邦訳は、「圧殺」(李丞玉訳『現代韓国小説選 帝国幽霊・黄狗の悲鳴』同成社 1978年)、「闇の魂」(安宇植訳『韓国現代短編小説』新潮社 1985年)などがある。

2021年8月 8日 (日)

キム・オンス『キャビネット』加来順子訳 論創社

キャビネットとしての作家の仕事は、資本主義に向かない

Photo_20210808194501 『キャビネット』は短篇連作構造の長編小説で、13号キャビネットに収められた資料は、彼らがシントマー(symptomer)と呼ぶ「変化した種の兆候を示す人びと」に関するものだ。
 コロナ禍の今日に妙にマッチした読書だ。ウイルスのもたらす禍が「進化」とリンクしているという議論があるそうだ。『キャビネット』は〈変化した環境は種の進化を加速させる。〉と語っている。無論、小説なので虚構の言葉ではある。
 シントマーたちは口から火を噴いたり、口内にトカゲを飼っていたりする。あたかも冬眠するかのごとく余りにも長時間を寝ているトーポーラー、過去の記憶を操作するメモリー・モザイカー、木材の指を持つ者は、物質が感情を持つようになるか、さもなくば人間が愛憎を失ってぼんやりと生きていくようになるだろうと語る。時間を失うタイム・スキッパー。完璧な男性器と女性器を併せ持つネオヘルマフロディトス、幻と現実の境界が崩れている人間は幻の中のワニに実際に噛み殺される。
 小指にイチョウの木が生えてきた男がいる。小学校の前で文房具店を営む平凡な40代だ。彼は妻子を捨て智異山(チリサン)の山奥に引き籠もってしまった。
 イチョウ男のくだりに、落語の「頭山」を連想させられた。
「頭山」は、ケチな男が落ちていたサクランボ食べたところ、頭の上に桜の木の芽が出てきて、あっというまに大樹に育ってしまう。この桜が評判になり、男の頭の上に花見客が押し寄せ、茶店も出る騒ぎになる。たまらなくなった男は、町内の人に頼んで木を引き抜いた。その後にできた穴に雨水が貯まって鮒やら鯰やら鯉がわき、今度は釣り客が押し寄せ、釣り船まで出る騒ぎになった。男は厭世に取り憑かれ自分の頭の池に跳び込んでしまう。というシュールな話だ。
 イチョウの木男は「頭山」ほどシュールではないが、多分にSF的ではある。読者は指先のイチョウを男がなぜ抜かないのか気になる。いわんやこの寄生樹木に自らの血肉を分けて育てる意味を考えさせられる。自らが木に取り込まれていく姿はハン・ガンの『菜食主義者』を思い出させる。この社会に対峙する痛烈なアンチテーゼだ。
 シントマーとは、世間の常識からはみ出した人びととも言える。
 彼らは、災厄と病気と狂気として片付けられてき新たな種であり、肉体と精神が荒み世の中と疎遠になり孤独に生きている人びとだ。彼らは狭い部屋に閉じこもる息苦しい生活を送っている。謂わば「引き籠もり」だ。振り返ればコロナ禍では多くが引き籠もっている。
『キャビネット』の主人公は、国民の税金を基盤としている「公企業」に就職して安定した生活を手に入れた。しかし、特にやることも無いやる気の無い日々を送っているに過ぎないので、キャビネットの資料を盗み読むようになる。
 そうすると主人公である私は、シントマーの記録を保管しているクォン博士の助手として指名され、日々キャビネットの資料を読みまとめることになる。
 クォン博士は自己の役割を、ただ記録を保管することと規定している。なぜなら彼は「失敗した科学者であり敗北した人間だ」からだ。彼は、結婚もしなかったし、友達もいない。研究は虚栄の産物でありエゴイズムの結晶だと思っている。
 しかしクォン博士は、シントマーが新たな種だと信じており、利他的で、温かくて博愛的な種が繁栄してほしいと願っている。
 対照的なのが、クォン博士がインチキと呼ぶ「魔法使い」だ。
 とても魔法使いとは思えぬ、みすぼらしい身なりの男でホームレスのようだ。魔法使いは、魔法は時間をかけて徐々に起きるものだと言う。人生というものは全て魔法だ。生まれたばかりの小さい子供がでかい若者になり、老人になり、土に還って風になる。季節の移ろいも実に神秘的な魔法だ、と哲学的な発想を披瀝する。
 キャビネットを「本」に譬えるならば、魔法使いとは批評家なのかも知れない。
 キャビネットに収められた資料の数だけ小説があると考えれば、管理者であるクォン博士こそが小説家にあたる。キャビネットに保管された資料を読み込む主人公こそ、文字通り読者であるが、彼は望むと望まざるとに関わらずクォン博士の後継者になる。
 また、読者はひとりではない。無口で大食いの女性ソン・ジョンウンも読者であるし、この本を読んでいる我々こそ読者だ。しかし、読者の中には思い違いをして利権に走る者もいる。
 作者キム・オンスはプロローグにこう書いている。

〈十三号キャビネット〉について優雅でロマンチックな想像をするようなことは
とっとと止めることをお勧めする。
そんな想像をしたら
あなたが何を想像しようとも
それ以下を見ることになるだろう。

 勘違い甚だしい読者によって、小説の登場人物さえ危険を負わされる。
 われわれは誰しも、自分が、暗殺や脅迫、追跡、監禁される危機に合わされるとは思っていない。この小説全体の語り手で主人公である男も同じだ。しかし男は、自分にとって無価値に思われたキャビネットの経済価値を巡って拷問までされる。
 経済価値を以てシントマーを利用しようとするのは、「企業」という資本主義の具現的表象だ。奇想天外な物語において、社会の表看板が実は裏社会と通じているという構造はリアルだ。
 何の利益も生み出さない、どんな企業も関心を持たない資料を読みまくって書いていく人生を私は選んだ。これは新自由主義・資本主義的価値観に背反する。
『キャビネット』はそういう小説だ。

2021年7月 5日 (月)

黄晳暎『たそがれ』

黄晳暎『たそがれ』(姜信子/趙倫子訳)CUON

「人間的に一杯やりましょう」

_0001_20210705220501  生きる意味とは何か。パク・ミヌは、朝鮮戦争後、慶尚道霊山(ヨンサン)の貧しい下級公務員の息子として生まれ、夜逃げするようにソウルに出て、タルゴルと呼ばれる山肌にへばりついた貧民街で思春期を送った。
 タルゴルから逃げ出すために猛勉強して、一流大学に入学したパク・ミヌは、アメリカに留学し、良家の娘と結婚し、帰国後は建築家として成功した。
 一方もう一人の「ミヌ」、キム・ミヌは、1980年代に貧しい夫婦の間に生まれ、幼児期に父を失い、母子家庭で育った。貧しいながら短大を卒業して建設会社の臨時職として就職した。建物撤去作業員管理の補助だった。貧民街の住民を追い立てる現場で、ショベルカーにぶつかった少年が死ぬと解雇された。その後は非正規のアルバイト生活から抜け出せない。
 キム・ミヌはいつも黒シャツを着て貧しく、自分の存在価値を相手に確認しようとしたりしない。
 この年代も階級も、立場も違う二人のミヌの縁を探すのが、チョン・ウヒだ。ウヒは芸術大学を出たあと、演劇の台本を書いているがアルバイトで生活費を稼ぎ、大雨が降ると水浸しになる半地下に下宿している。映画「パラサイト」を見ていればその悲惨さがイメージされよう。
 ウヒは、演劇の仕事は実入りが少ないが、夢が与えてくれる癒やしをアルバイトと比べることはできないと思っている。
 キム・ミヌとウヒは、ピザ屋でアルバイトしていたときに、ウヒの未払いのアルバイト代をミヌが取り立ててくれたことで親しくなった。ミヌはウヒの下宿が水浸しになると実家に連れて行って数日の宿泊を母に頼んでくれた。
 パク・ミヌは、陽の当たる場所を目指して、権力を握っている側に忖度して生きた。再開発の対価として、故郷あるいは育った「場」を破壊した。「多くの隣人たちを歪んだ欲望の空間に押し込め、あるいは追い出した」のだった。
 抑圧と暴力で維持されていた軍事独裁の時期に「力による正義」に寄りかかり、「力」の行方につきしたがって進められる企画を計算し力によって利益を与えられた。彼は、間違ったことに抵抗する人びとを理解したが、そこには加わらない自分を許した。
 「主流社会」に迎合する俗物根性を中産階級の健全な見解と信じ、霊山やタルゴルを失いながら生きた。その喪失の過程には両親、友人たち、恋人もあった。
 キム・ミヌは「解雇者」として暮らし、陽の当たる場所を目指す希望も捨てていた。
 開発独裁の成功過程に、立場は異なれどパク・ミヌもキム・ミヌも噛み合った歯車としての役割を果たした。ただ前者は「成功者」として待遇され、後者は使い捨てされる。
 キム・ヘジン『中央駅』を読んでも、ホームレスまで組み込まれた残忍なシステムを知ることができる。それは、住民たちの「生」を「思い」を一気に追いやり、奪い、抹殺してしまう過程でありながら、収奪の全面に立たされる暴力の側の内面をも酷く傷つけていくのだ。
 建築建設とは何か。コンサルティングチームが組織した組合を起点に、設計業者と立ち退き業者へとつながり、施工者と区庁、区議会から政治の世界にまでつながっていく「食物連鎖」は、開発独裁のもたらしたものだ。韓国だけの特殊ではない。資本主義の高度成長形態の一側面だ。
 老人は郷愁にうちひしがれている場合ではない。「老人」の悔恨は「若者」の諦念を救えない。生きる意味とは何なのか? 生きる価値とは何か? それでもパク・ミヌのように生きたいなら、それも人間的な不幸だ。
 息子の火葬を終えてアパートに帰ったチャ・スナは、ウヒの口癖をまねて、こう言う。
「さあ、これからわたしたちも人間的に一杯やりましょう」

2021年5月24日 (月)

崔仁勲『広場』

崔仁勲『広場』(吉川凪訳)COUN韓国文学の名著
不条理な世界からの逃避は可能か

Photo_20210524222101  崔仁勲(チェ・イヌン)『広場』は、かつても泰流社(田中明訳)などからも出版されていたのだが、ほとんど忘れていた。クオン版を読んで、こんなに面白い小説をよくも失念していたな、と恥ずかしくなる。
 李明俊は「釈放捕虜」だ。朝鮮戦争で巨済島(コジェド)の捕虜収容所に収容され1953年の停戦で釈放された人民軍兵士である。巨済島捕虜収容所と言えば、映画「黒水仙」を思い出す。あれは脱走した捕虜にまつわるミステリーだった。釈放された捕虜の行く末については考えたことがない。彼らは韓国に留まるか、北朝鮮への送還か、はたまた中立国への移住を希望するか選択できる。
 李明俊は、韓国で哲学を学ぶ学生だったが、父親が越北した共産主義者であったために、不条理にも警察で激しい暴行を受ける。それも日本時代に特高刑事だった人間が相変わらず反共取り締まりをしているのだ。
 明俊にとって「韓国」という広場は荒んでいた。
〈韓国の政治の広場には、糞尿とゴミばかり山積みになって〉おり、〈経済の広場は盗品ばかり〉だ。それに文化の広場には、でたらめな花ばかりが満開だった。不誠実な社会だ。
 明俊は北朝鮮に逃れた。ところが、彼そこで見たのは灰色の共和国だった。必要なのは自分の頭で考えることではなく、〈党史の一節を暗誦する能力〉をもって直面する現実に当てはめることだった。そこは、〈革命と人民の仮面をかぶった、相変わらずのブルジョワ社会〉であり〈広場には操り人形だけがいて、人間はいない〉。明俊が、〈人間であることを実感できるのは、彼女を抱いている時だけだ。〉
 朝鮮戦争に人民軍兵士として参戦し、囚われた明俊は、釈放後の選択として中立国への移住を選んだ。明俊は、もはや北朝鮮の社会に対する信念を失っていた。信念を持たずに政治の広場に立つのは恐ろしい。それに、いったん捕虜になった人間が北朝鮮で陥る状況は悲惨に違いない。
 かと言って韓国社会は虚しい。堕落と怠惰の自由しかない。
 戦場で確かめた性だけが明俊にとって最後の広場だった。他に行き場を持っていなかった。明俊は中立国で安穏と生きる妄想を繰り返すが、彼の背中にはぼんやりした影が覆い被さってくる。
 明俊の孤独は国際政治の歴史によって作られたものだ。描かれない背景には、アメリカ、ソ連、中国、そして日本を含む地政学が立ちはだかっている。彼を取り巻く「広場」に個人の自由はなく、革命も、愛もない。
 この小説、移送船のインド人船長らと李明俊との会話は英語だ。ドラマだったら英会話でのやりとりになり、字幕が着くところだ。多言語小説なのだから、今だったら会話部分だけでも英語表記にしたかも知れない。しかし、最初に発表されたのは1960年11月だ(その後何回も改訂されている)。作者にこの発想は無かったかも知れない。
 朝鮮文学者の長璋吉は、〈四・一九と五・一六の間のわずかな自由の期間にあらわれた記念碑的作品が崔仁勲の「広場」だった。〉(「苦悩の文学者たち 解放前後」 1986年2月『韓国を読む』集英社)と書いている。「四・一九」というのは、1960年に起こった李承晩政権を倒した「四・一九学生革命」のことで、「五・一六」というのは1961年に朴正熙が起こした軍事クーデターのことだ。この僅か一年あまりの民主時代に書かれたのがこの小説だということだ。
 その後発禁にならなかったのだろうか? と疑問に思うほど正直な作品だ。
 それに、そもそも「李明俊」は「イミョンジュン」なのだろうか。「リミョンジュン」ではないのか? 南北の言葉の違いはどう反映されるべきだったか。東アジアに横たわる溝は深い。
 朝鮮戦争は現代でも小説のモチーフになっている。
 キム・ヨンス「不能説(プーヌンシュオ)(『ぼくは幽霊作家です』橋本智保訳 新泉社)は、朝鮮戦争時、女性救護隊員との性愛を描写した点で『広場』と共通するが、彼は中国人民志願軍兵士であって、居場所のない朝鮮人ではなかった。ただし、歴史書に書かれた「事実」とは違う歴史を体験者は持っている、という真実を表出した点は、『広場』の不条理とも繋がっている。
 文学とは言葉にならない言葉を読者に投げかける行為だ。不条理の中に留まった「不能説」の主人公も、逃避を選択した『広場』の主人公も歴史の本には書かれない真実を抱えている。
 さて、『広場』が収められたクオンの「CUON韓国文学の名作」シリーズは、書肆侃侃房の「韓国文学の源流」シリーズとともに、韓国現代文学の翻訳が隆盛を極めている中にあって、異彩を放っている。それらが韓国近現代文学における古典的作品の出版を目途しているからだ。昨年末に発行された明石書店の『韓国文学を旅する60章』も文学史的要素の強い紹介本として新鮮だった。
 以前にも冬樹社で金素雲訳の『現代韓国文学選集』や、柏書房『韓国の現代文学』などの選集が出版されてはいたが、マニア向けの範囲を越えなかったのではないだろうか。
 ようやく韓国文学の全貌を日本の一般読者が気にする日がやってきたのかもという気がする。

2021年4月23日 (金)

チョン・イヒョン(橋本智保訳)『きみは知らない』新泉社

私たちは知らないで良いのか

Photo_20210423151901 〈死体が発見されたのは五月最後の日曜日だった。〉チョン・イヒョンの小説『きみは知らない』はミステリー調の不穏な雰囲気で始まる。それは現代社会の醸す不安定な情緒を表象しているかのようだ。
 その家族は韓国の「富裕層エリア」であるソウル江南(カンナム)の複層構造の高級ヴィラに住んでいる。夫サンホは中国相手の小さな貿易会社を経営している。感情的な性格で、何やら怪しい取引に苛ついている。二人目の妻オギョンは韓国生まれの中国人だ。三人の子どものうち上の二人は前妻の子だ。情緒不安定な長女ウンソンは大学のそばに部屋を借りてめったに戻らない。長身でクールな長男ヘソンは医学部に入学した。私立小学校に通う次女ユジだけが現在の妻の子で、ヴァイオリンを習い才能を認められているようだ。
 何の不自由もない、傍目も羨むような家族だが、それぞれに秘密があり、孤独を抱えて、癒やしを求めている。外見と背反して中身は崩壊を始めた家族の像である。
 資本主義社会の壊れた家族の肖像と言えば、柳美里の『家族シネマ』などの初期作品を想起する向きもあるだろう。臓器移植がモチーフとなっていると知れば、梁石日の『闇の子どもたち』やカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』を思い出すかも知れない。中流家庭の孤独はこれまでも小説や映像でも主題となってきた。
 しかし、『きみは知らない』の背景にある新自由主義の歪みは、実はなかなかにグローバルで、東アジアの現代史と地政学を下敷きにしている。そして単純ではない複合民族社会としての韓国を見せてもくれる。
 行方不明になる小学生ユジの母親の名は「玉鈴」で、韓国語読みは「オギョン」中国語なら「ウィリン」だ。名門台湾大学を出ているが、台湾では韓国人、韓国では中国人として見られる。オギョンや元恋人で台湾に住む中国系韓国人のミンは、「内在するレジスタンス倫理綱領」によって束縛されている。外部や他人の目を気にしながら言語や態度を変えて暮らしてきたのだ。韓国では中国人と思われないように、台湾では韓国人だと気づかれないように気をつける。
 オギョンにとっては、二人目の妻であることも韓国上層の階層社会ではマイナス要因らしい。娘のユジも母親由来の排外素因を二重に持っていることになる。
 夫のサンホは、人生に何か目的があると信じたことがない。ただ家族を養うために良心を捨ててでも商売をする。長男のヘソンは、なんとなく父の不正を感じているが、はじめから世界は汚くて陰険なものだと知っていて、自分さえ傷つかなければ知らないふりをしていればいいのだと思ってきた。実の両親に、生まれたことを厭われたと思っている長女のウンソンは、刹那的で自暴自棄な日々を送っていた。彼らはみな、世間の悪意と無関係の自分らしい自分でいられる絆を希求している。
 そして金にすがり、性にすがり、娘や安定した家庭にすがる。あるいは電子空間に真の理解者を探す。
 しかし、電子空間のつながりは魅力的だが不安定だ。幼いユジの理解者は生身の少女の出現に戸惑っただろうし、ユジの短い喜びはやるかたない現実にさらわれる。
 現実の醜悪と困難を大人たちは知っている。知っていながら知らないふりをしている。眼前に突きつけられた真実に私たちは行き場を失う。この小説、実は事件としては不明瞭に終わる。解決はしない。正解も出ない。読者の想像力に任せられる。
「どうせ僕は、誰も知らない人間だから」という言葉を遺したミンの犠牲を誰が知るだろうか。読者は考えなければならない。
 ただ、ユジを見ながら「こんなにかわいかったんだね」と言う異母姉ウンソンのことばには救いが感じられる。
 私たちは誰も、自分が傷つかないように目をつぶって見ないようにしている何かを見なければならない。それがどんなに醜悪であっても、自尊心には都合が悪いとしても。見なければ、美しい光景も「かわいい妹」も見えないのだ。
 作者チョン・イヒョンの翻訳出版は『マイ スウィート ソウル』(清水由希子訳 講談社)、『優しい暴力の時代』(斎藤真理子訳 河出書房新社)に続いて3作目。翻訳者橋本智保さんの解説がいつも素晴らしいので、三文読者の批評は不要かも知れなかった。
 蛇足ついでにもう一言。
 この日本では在日外国人の命は常に危機に瀕している。政治権力による難民迫害にどれだけの日本人が関心を持っているだろうか。
 日本の入管によって殺されたスリランカ人女性ウィシュマさんの死に思いを馳せたい。迫害されて逃げてきた在日クルド人の方々や、クーデター軍事政権に命を狙われている在日ミャンマー人の皆さん、日本に住むすべての民族の人権を守るため、人間として「出入国管理及び難民認定法(入管法)改正案」に反対する。
 こうした主張は、『きみは知らない』とリンクしている。

2021年4月10日 (土)

金学鉄 大村益夫訳『金学鉄文学選集1 短篇小説選 たばこスープ』新幹社

金学鉄 大村益夫訳『金学鉄文学選集1 短篇小説選 たばこスープ』新幹社
人間らしく生きようとすれば、不義に挑戦せよ。

Photo_20210410224801 1991年4月19日発行の『粒(RYU)』創刊準備号に、シアレヒム社「出版だより」を鄭敬謨が書いていて今後の出版予定作品が紹介されている。大風呂敷の中に金学鉄(kim hakcyol)『激情時代』があった。もちろん出版されなかった。それから30年の年月が経ったが、それでも金学鉄は出版されなかった。
 われわれは波瀾万丈の金学鉄の作品と生涯を、ほとんど知ることがなかったのだ。
 日本人の多くは、戦争で日本が戦い負けた相手はアメリカだと、アメリカだけだと思っている。現代史を勉強している少数ならば「日中15年戦争」という言葉くらいは聞きかじっていて中国とも闘ったと知っているだろう。しかし、朝鮮の独立のために日本軍と戦い成果を上げた朝鮮義勇軍があったことを知る人は、ほんのわずかだ。この日本人の常識外に金学鉄は生きた。
 金学鉄は、朝鮮義勇隊(後に朝鮮義勇軍)の将校として抗日戦を闘い、大腿部を負傷して日本軍の戦時捕虜となって獄中で闘った。解放後は左翼活動家として闘いながら小説を書いた。朝鮮戦争が始まると中国へ退避し、朝鮮族自治区の延吉に移って作家として暮らした。
 ところが1957年、中国の反右派闘争の犠牲になり、以後24年間執筆を禁じられた。そのうち1967年12月からの10年間は獄に繋がれていた。金学鉄が作家活動を再開できたのは1980年12月まで待たなければならなかった。(詳しくは本書の、大村益夫「解説 金学鉄――人と作品」を参照されたい)
 本書は短篇集だが、古い作品は1946年、新しいのは1987年発表と発表年の時間幅が広いので作風や題材に変化がある。作者の人生が反映されているとも言えるので、この本に限っては「解説」を読んでから読んでも良いかと思う。
 若い作品は教条的な感じがすることもあるが、綿密に読むと作品的にはそうではない。登場人物の思想のそういう面が表出される場合があるだけだ。
 面白いのは抗日を闘う同志のあいだでの感情的諍いや、粗忽な失敗が描かれているところだ。革命家といえども一人ひとりが異なる個性を持っていて、笑い泣き怒り時にはいがみ合ったりもする。
 あっけらかんとした文体も特徴だ。負傷して囚われるような悲惨な状況さえも楽観的に描かれている点だ。戦争下とは言え、あっけなく人を殺してしまうなあ、と読んでいると、殺した日本兵が朝鮮人学徒兵だったと分かるとやるせなくなってしまう、主人公の悲哀もあっさり描かれる。銃弾を受けて腐った足を切断するが、その足を掘り出して見て壮快に笑いあったりする。これは金学鉄文学の特徴なのか金学鉄の個性なのか分からない。
 朝鮮義勇軍というモチーフも面白い。戦闘もしたが、主に日本兵の懐柔を任務としたらしく、それもそれなりの成果をあげた。こういう小説はなかなか読めない。
 金学鉄は〈朝鮮義勇軍の活動を歴史から抹殺しないでほしいのです。〉と言っている。
 もう一つ注目すべきは、金学鉄の小説は多言語小説だという点。朝鮮語で書かれているが、中国語と日本語が小説の中に飛び交っている。地理的背景も東アジアつまり中国・朝鮮・日本に広がっている。実際に金学鉄が行き来したからだ。植民地支配下朝鮮で生まれ育ったために日本語が堪能で、戦争当時から日本人とも親しくなれた。八路軍に属したので中国の同志と連帯したのは当然だ。金学鉄の民族際性、多言語性に注目すべきだ。
 巻末に、韓国の大学教授金在湧の跋文「植民地支配と南北冷戦を踏み越えて」が掲載されている。その冒頭で〈中国の朝鮮族作家金学鉄は、二十世紀韓国離散文学において、在日朝鮮人小説家金石範とともに、太い柱を形成している。〉と書き出している。韓国の文学批評界における評価の高さが窺える。「韓国離散文学」という言葉が概念を狭めているように見えそうだが、極小の中にこそ世界文学が広がる。
 金学鉄は政治的には恵まれなかった。生涯を革命家として生きたのにも拘わらず、社会主義中国から迫害された。彼が尊敬した彭徳懐は中国革命の英雄であり八路軍の指揮者であり、朝鮮戦争時には中国人民志願軍の司令官だったが、文化大革命で紅衛兵によって迫害され死に追いやられた。
 先に書いたように金学鉄本人も投獄され、釈放後も執筆を赦されなかった。作家として書く自由を奪われる無念はいかばかりだったか。
 金学鉄は東京での講演でこう言っている。
〈社会主義に生涯をかけた者として、「いまこそ、人間の顔をした社会主義の実現を」というのが私の切実な訴えです。〉                  (金学鉄「私の歩んできた道」『季刊青丘』3 1990年春)
 また、本書解説に紹介された遺書には、
  楽に生きようとすれば、不義に顔をそむけよ。
  だが、人間らしく生きようとすれば、不義に挑戦せよ。
とある。凄い言葉だ。
 金学鉄文学選集の構成は、全4巻で、1巻がこの『短篇小説選 たばこスープ』で翻訳は、日本では最も早く金学鉄を紹介し、また中国の朝鮮族文学に詳しい大村益夫さん、2巻が『二十世紀の神話』で翻訳は愛沢革さん、3・4巻が『激情時代』で鄭雅英さんです。

2021年3月31日 (水)

黄晳暎『囚人』に寄せて―黄晳暎と鄭敬謨に関する私的覚え書き

黄晳暎『囚人[黄晳暎自伝]Ⅰ 境界を越えて』(中野宣子訳 明石書店)
黄晳暎『囚人[黄晳暎自伝]Ⅱ 火焔のなかへ』(舘野 晢訳 明石書店)


 2月16日、鄭敬謨(チョンギョンモ)先生の訃報を聞いた。鄭敬謨は私にとっては、『ある韓国人の心』の著者であり、かつて韓国について学び、日韓民衆連帯の末端に私を導いた師であった。
 その前日には韓国の社会運動家で統一問題研究所長の白基玩(ペクキワン)が亡くなっている。白基玩は韓国の軍事独裁政権下で困難な民主化運動を闘ってきた方だ。
 鄭敬謨は日本に亡命して評論活動をしながら、朝鮮統一運動家として働き、呂運享記念事業や日韓連帯市民運動の指導にあたっていた。
 鄭敬謨が韓国問題専門誌として87年から発行した『シアレヒム』には、鄭敬謨以外の論客も登場し、黄晳暎(ファンソギョン)の小説「韓氏年代記」も翻訳発表された。黄晳暎は、1989年に鄭敬謨・文益煥(ムンイッカン)牧師らと北朝鮮を訪問している。黄晳暎は渡日して青山の鄭敬謨の事務所シアレヒム社を訪ね、北朝鮮訪問の手はずを整えたのだ。
 不定期で発行の『シアレヒム』誌は87年に第9号を発行して滞った。代わってシアレヒムの会が編集したA4×16ページの冊子『粒』が季刊で発行されるのは、文益煥と鄭敬謨が金日成と面談した2年後だった。私も編集発行作業の末端に繋がったが、創刊号の編集後記には編集スタッフの一人に「……病気でたおれ入院」と書かれ、第2号には「……全快しました」と書かれた。第3号の編集からは復帰できた。その間、鄭敬謨先生にずいぶん心配され、埼玉の病院まで見舞いに来て頂くご足労をおかけした。文益煥と黄晳暎を北朝鮮に連れて行くという大イベントと後始末も終えて、心の余裕があったのかもしれない。
 その頃黄晳暎はベルリンにいたが、11月には渡米し93年4月27日の帰国までニューヨークに滞在した。そして帰国と同時に逮捕され懲役7年の刑を受け、5年後の1998年3月13日金大中大統領による特別赦免によって解放された。
 鄭敬謨は文益煥と黄晳暎の訪朝を助けたが、黄晳暎は「文化交流」以外の目的を持たなかった。文益煥の統一のための政治的目的とは異なっていた。
〈私が民主化のために運動し、訪朝までしたのは、何か政治的活動をしたかったからではない。私は文学を人生の仕事に選択した人間だ。私の創作以外の活動は知識人として社会に奉仕しようとするもので、それもまた私の文学の重要な一部を成している。〉
2 『囚人』は、マッチョで政治的目的を持った作家と思われがちな黄晳暎の実像を、自ら暴いた自伝だ。むろん自伝である限り全面的に客観的だとは言えないのは自明だ。
 ⅠⅡ巻通して、年代記の間に監獄生活の記録が挟まれている。Ⅰ巻は、1956年から1993年までと、1947年以降の幼年期。Ⅱ巻は1956年から1985年までとエピローグで2016年のキャンドルデモ参加の様子が描かれた。
 黄晳暎は現代史のなかに生きた。
 1943年日本帝国主義支配時代の満州長春に生まれ、解放後平壌に移住した。47年には母の背に負われて三八度線を越えてソウル永登浦に定着したが、朝鮮戦争で各地を転々とした。1960年4月「四・一九学生革命」の時、一緒にデモに参加した同級生が被弾して殺された。その後は高校を中退して放浪したり、出家を目指して寺で修業したりしたが果たせず、自殺未遂で病院に運ばれたこともある。
 66年には海兵隊に入隊し、ベトナムに派兵された。
 韓国のベトナム参戦は、ベトナム人民に大きな恨みを遺したのみならず、元韓国兵の心身にも慚愧の痛みを刻んだ。黄晳暎は、〈ゲリラに対して人間としての憐れみの感情すら持てなかった。ただ異様な物体でしかなかった。〉と回想している。ベトナム人の蔑称「グック」は朝鮮戦争当時米軍が使用した「韓国(ハングック)」の「グック」でなはいかと、黄晳暎は書いている。
 私が黄晳暎の小説を初めて読んだのは『季刊三千里』1976年春第5号に掲載された「駱駝の目」だった。それはベトナム帰還兵の自己嫌悪を見つめた短編だった。
 黄晳暎は、ベトナム帰還後、何事にも無感覚になり急に涙がこみ上げてきたりして、不眠症で悪夢ばかり見るようになった。発作的に花瓶を弟の後頭部に叩きつけたことがある。黄晳暎は苦しんだのだ。
 何もせずに見ているだけの目撃者は、道徳的責任を問われないのか? と内省した。
Photo_20210331204401  黄晳暎が長く閉じこもった生活から書く自己表現に戻ったのは毎晩書き散らしたラブレターの力だった。書くことはそれ自体が力になる。19歳で『思想界』新人文学賞を受賞という早熟で、書くことを根拠地にして生きた黄晳暎だ。九老工団の工場に就職しても、その結果は小説に結実していく。
 30代の黄晳暎は大長編『長吉山』を連載しながら、数々の中・短編も発表し、民衆文化運動の指導にもあたった。黄晳暎の民衆文化運動は日本にも波及し、新日本文学会でも1980年代には盛んに韓国民衆文化運動を紹介した。
 黄晳暎は来日するたびに日本の作家や在日朝鮮人作家たちと交流した。なかでも鄭敬謨との関係は特別だった。黄晳暎の鄭敬謨に対する評価は高い。
〈人生の節目ごとに世間と妥協することなく、ただ知性と良心にしたがって進む道を選んで来たのだ。〉というものだ。
 しかし、鄭敬謨が韓民統など在日同胞団体をさほど信じていなかったという事実も黄晳暎は知っていた。
〈海外で取り組まれている統一運動においても、組織が壊れたり互いに傷つけ合ったりしながら、利害関係によって付いたり離れたりを繰り返してきたのである。〉
 鄭敬謨自身もそうだったが、鄭敬謨主宰のシアレヒム社にも有名無名の多くの人びとが関わっては去って行った。まさに利害関係によって付いたり離れたりだが、問題意識の違いや感性の違いも大きかった。私たちの去った後も『粒』は鄭敬謨の個人紙として発行され2001年9月発行の第36号は、「鄭敬謨著書出版記念会特集号」で、黄晳暎や、今や詩人としてよりセクハラ爺として有名になってしまった高銀(コウン)も寄稿している。この号は、『南北統一の夜明け』(技術と人間)の出版記念会の様子を伝えるもので、黄晳暎の講演は「時代の不寝番」と題された。10年後に同じタイトルで鄭敬謨の大著が発行されている。
 黄晳暎によると、彼の家族は鄭敬謨の父が建てた教会に通い、鄭敬謨のために開園された幼稚園にも通ったという因縁があった。
 黄晳暎はトレンドではない。「封建的な男の視点」は「オールドハニカ(古くさいから)」、特に若い女性には興味を持たれないらしい。
 しかし黄晳暎は自己を振り返る文学者らしい視点を持っている。彼は、自分がどんなに利己的で自己中心的な男だったかを知っているし、妻との関係でも争いが起きるたびに彼女のせいにしていたと省みている。
 黄晳暎は自由気ままに振るまい、やっと稼いだ金も妻子には届けず、作家仲間たちとの飲み代に消えていった。彼は民主化運動、民衆文芸運動、作家活動と忙しいが、妻たちは子供を育てて生きるだけでも大変なのに夫を支えなければならなかった。軍事政権下での命がけの民主化運動のさなかにも男尊女卑は蔓延していたのだろう。
〈私は、性急で即物的で感情を優先させ、誠実とは言えなかった。〉
 しかしそういった自省は、他人の言葉から本質的なものを感じ取る能力に通じたに違いない。Photo_20210331204301
 貧民運動家の李喆鎔(イチョロン)を知った黄晳暎は、この底辺を這いずった元犯罪者の言葉に民衆の真実を見つけた。

 李喆鎔は別の名を李東哲(イドンチョル)という。李東哲は結構な犯罪者だったが、許秉燮(ホビョンソプ)牧師に出会って人生を再考し貧民運動に飛び込んだ。黄晳暎は文益煥牧師に勧められて民衆にとって大きな力になるだろうと、彼の人生経験の変化過程をまとめた。李喆鎔が自分の半生を口述したものを黄晳暎がまとめたのが『暗闇の子どもたち』(『囚人』の翻訳ではこうなっているが、『暗がりのやつら』くらいが適当だと思う。)だ。李東哲はその後自分で執筆するようになり『コバン洞の人びと』や『五寡婦』『聞け、墨汁ども』などを出版した。いくつかの作品は李長鎬(イチャンホ)監督で映画化された。李東哲を紹介したものは少ないが、滝沢秀樹が『いまアジアを考える』Ⅳ(1986年9月 三省堂)に寄稿した文が比較的詳しい。
 黄晳暎は充分ではなかったとしても、民衆の中から真実を見つける努力をしてきた。その時々の判断に誤りがあったとしても、その文学作品の価値は不変だ。
 黄晳暎は、仲間を作って軍事独裁体制と対峙し、現実を文学作品に取り込む努力をした。そして「表現の自由を勝ち取るための闘い」を闘ってきたのだ。黄晳暎にとっては〈物書きと抵抗運動の部分が一体化〉していたのだ。
 誰からも学ぶ黄晳暎にとっても鄭敬謨の存在は輝いていたようだ。前述の『粒』掲載の挨拶で、黄晳暎はこう言っている。
〈 私は他者として日本に住みながらむしろ日本の在り方に対して批判の声をあげることを以て、自らの使命と心得ている鄭敬謨先生の存在こそ、日本自身のために貴重な「抗体(ワクチン)」だと考えています。〉

(起承転結なし)

2021年3月13日 (土)

パク・ソルメ『もう死んでいる十二人の女たちと』斎藤真理子訳 白水社

ぽんと浮かんだ者たちの記録

パク・ソルメ『もう死んでいる十二人の女たちと』斎藤真理子訳 白水社

Photo_20210313131502   おそらくパク・ソルメという作家はコギトを強く意識しているのだと思う。
 人間にとって実存とは考えること、考え続けることだと。日本の東日本大震災に触発されたとおぼしき「私たちは毎日午後に」「暗い夜に向かってゆらゆらよ」「冬のまなざし」などは、古里原発の事故という実際には起きていない次の原発事故を背景にしている。しかし抽象的で、よく読むと死者と生者の区別、人間と動物の区別も困難だ。
 「私たちは毎日午後に」では、男は子犬の半分くらいに小さくなる。私たちは毎日面白い話、くだらない話をして笑う。
 昨日はフィリピンで洪水が起きてたくさんの人が死んだ。ずっと前にはアメリカでビルが崩壊する事件があった。去年は日本で大きな地震があった。東北で大地震と津波があった。福島第一原子力発電所の爆発事故が発生した。
 何が起きたのかと毎日のように考えているソウルに住む私たちは、元気に過ごしている。一方で古里原発の事故があったけど、関係者は一ヶ月も隠していた。人ごととして考えていさえすれば笑って暮らせるけれど、隠された事実を知ることによって安穏は失われるかも知れない。
 「暗い夜に向かってゆらゆらよ」では、古里原発の事故以後に私とめすライオンが釜山タワーを目指して歩くが、釜山タワーはあるべきところにない。
 「冬のまなざし」では、釜山の海雲台(ヘウンデ)はもう行けない場所だ。
 古里核団地は海雲台と22キロの距離にある。かつてホテルやマンションが建ち並びデパート、レストランが繁栄を極めた華やかだった海雲台は無くなった。
 だけど私たちは古里じゃなくK市にいるから大丈夫、という気持ちで生きていく。
 私はK市で生まれ育った。海満(ヘマン)からはK市が一番近い都市だ。海満という島はあらゆる意味で困難な現実からの逃げ場だ。
 別の短編「海満」で、海満そのものが描かれた。
海満は南部地方の港から船で5時間かかる。「冬のまなざし」と併せて考えれば南部地方の港というのはK市の港ということになる。
 海満には特別なものはなにもない。ただ、だらだら過ごすにはよさそうな島だ。首都での生活と対置される。ここで過ごすと、正しいことがすべてを動かすのではなかったと悟る。
 正しさとは何か。
 冒頭の作品「そのとき俺が何て言ったか」において、カラオケ店に勤務する男は、「大事なことをしっかり心に刻みつけて」いた。「人は生きている限り心をこめて歌わなければならない」。男は正義を体現している。
 たまたまこのカラオケ店に友人のサンナンととも軽い気持ちで入ったチュミは男の正義の前に恐怖を味わうことになる。
 二人はやることがないから楽しかった。しかし、男にとって客が誠心誠意歌うのが正義だ。男はチュミに正義を暴力でたたき込む。誰もが陥りやすい正義という陥穽のおぞましさを見せられる。
 翻訳者斎藤真理子の「解説」によるとこの短編集は、作者の4冊の短編集から集めた日本版オリジナル編集だ。その冒頭にこの「そのとき俺が何て言ったか」を置いたのは見事。
 「じゃあ、何を歌うんだ」では状況との距離による感性のズレを読ませた。
 韓国系アメリカ人のヘナは5・18について関心を持っていて、韓国語を学ぶ人々の集まりで光州事件について発表した。韓国語で聞くのと英語で聞くのの間にはいくつかのカーテンがあった。
 作中に金南柱の詩「虐殺2」と金正煥の「五月哭」が扱われる。光州生まれだが光州事件を体験しない私は、六〇年代後半のメキシコ、チリの大学に軍人が踏み込んだり、一九四七年の台北、ゲルニカに関する文章のように感じる。光州を歌った詩の普遍性とともに、肉体が離れてしまった歴史のどうしようもない現実感の表出でもある。私は光州の人と呼ばれるとくらくらするような距離を感じるのだ。
 では表題作「もう死んでいる十二人の女たちと」はどうか。5人の女たちを強姦殺人したキム・サニを、彼の死後、彼に殺された5人と、犯行手口の似た殺人者に殺された7人を加えた12人の女たちが繰り返し殺し続ける。キム・サニは毎回苦痛を味わう。私は小さい頃からの友達だったチョハンによってそのことを知る。
「精神をどこかへぽんと浮かせることのできる者たち」には、それを見ることができるようだ。精神がぽんと浮かんだ者たちは道ばたの何かになっているに違いない。
 チョハンは殺された女たちの繰り返される復讐をノートに記録している。これは「ぽんと浮かんだ者」の記録であり、文学の原型として提出された実存だ。
 キム・サニみたいな者たちは、ソウルで相変わらず元気に生きているということを、もう死んでいる12人の女たちは分かっている。情報から導き出された実存する「知」だ。
 さて、もう一つ「愛する犬」について、解説には〈難解だと言われることの多いパク・ソルメの別の面、すなわち優しくてかわいい小説〉らしいのだが、私には一番難解で、読者の感想を拒否しているとしか思えず、目下批評の対象になり得ない。

Photo_20210313131801 Photo_20210313131501

2020年12月 5日 (土)

キム・ヨンス『ぼくは幽霊作家です』、パク・ソリョン『滞空女』、ホ・ヨンソン『海女たち』

キム・ヨンス『ぼくは幽霊作家です』に触発されて、パク・ソリョン『滞空女』とホ・ヨンソン『海女たち』に言及する

 日本でもベストセラーになったチョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(斎藤真理子訳 筑摩書房)は、フェミニズムにリンクした韓国文学ブームを招き寄せた。多くの女性に共感され隠された憤りを表面に引き出し、いくらかは男性をもフェミニズムの勉強に導いた。作者の目的は達せられたと言って良い。
 かつて山代巴を読む会に加わっていた筆者としては、山代巴が女性のなかに人権意識を植え付けようと『囚われの女たち』(径書房)を書いたことを想起せざるを得ない。それらは目的があって伝えるための文学だった。
 一方、伝えることの困難を意識し、文学は正解を提示できないという真理を大前提にした作家に、キム・ヨンスがいる。Photo_20201205111301
  キム・ヨンスの『ぼくは幽霊作家です』(新泉社)は、翻訳者である橋本智保によると、自身が選ぶマイベストなのだそうだ。この短篇集は、歴史が見せる事実に対する懐疑に満ちている。

 歴史という名の危険な爆薬を一気に爆破させるのは、必然ではなく庭の樹が枝を伸ばす方向のように偶然がもたらせるのではないか。この世の出来事はすべて因果関係があるが、その途中の行路には偶然と些細なものがあふれている。確かなもなんて何ひとつない。
 そして人は真には理解し合えない。
「あれは鳥だったのかな、ネズミ」の僕にとって歴史学は真実に近づくための道具だったが、身近にいるセヒにさえ理解されない。他人のすべてを理解するなんてあり得る筈もなく、果てしない暗闇の中に僕は去っていく。
 「不能説(プーヌンシュオ)」に登場する、中国人民志願軍兵士として朝鮮戦争に参戦した老兵士は、戦闘で死んだ人民志願軍兵士の、あの惨憺たる光景を言葉で表すことはできない、「不能説」と語る。歴史というものは、書物や記念碑に記録されるものではない。人間の体に記録されるのだ。それこそが真実だ。震える体が、あふれ出る涙が物語るものこそが歴史なのだ。
 作家は心臓で語る詩を、とても耳では理解できない、心臓で聞く詩を表現したいのだろう。たとえ相手に届かなくとも、言葉ではとても語り尽くせないことを、そう言わずにいられないことを語るのだ。
「さらにもうひと月、雪山を越えたら」で、オリンピックが開催された1988年、韓国はおおむね勝者がすべてを手にする社会だった年、ヒマラヤ、ナンガ・アルバット遠征隊に参加して遭難しても凍える指で最期までノートに向かった青年は、届かない言葉を何のために書き続けたのだろうか。白い峰、冷たい大気、反射する光の時間は、川が流れるように限りなく続くのに、人間の時間はクレパスのような暗い深淵に陥ってしまいがちだ。クレパスに落ちるのは作家の言葉だ。
「恋愛であることに気づくなり」の俺は、1930年代後半の朝鮮で、雑誌に国際情勢について書いたり「Y凸」というペンネームで朝鮮社会の封建的な旧習を撤廃し、近代的な心性を導入するためのもの書きをしていた。しかしそこに疑いのない真実はあるのか。作家キム・ヨンスとは書く姿勢が反転している。キム・ヨンスの文学はクレパスの向こう側に届かない言葉の積み重ねなのだ。
「こうして真昼の中に立っている」で作家は、〈私たちはみな、本当に善良な人には気づかないのに、善良を装っているペテン師には騙されがちです。こんな獣のような時代には、いくら真昼でも真実を見つけ出すことはできない〉と言い放っている。届いた言葉に騙されてはならない。
 自明のことだが、文学が表現するのは史的唯物論ではない。史的事項を描いても虚構に過ぎないが、虚構だからこそ描かれる真実もある。Photo_20201205111302
 パク・ソリョン『滞空女 屋根の上のモダンガール』(萩原恵美訳 三一書房)は、実在した女性労働運動家姜周龍(カン・ジュリョン)の生涯を紹介した小説だ。姜周龍という女性が日本の植民地支配時代に、旧習に従って幼い夫と結婚し、夫を追って独立運動に加担した。夫を失った後殺人容疑で収監されたり、父親に売られるように結婚をさせられそうになって、実家を捨てて家出し平壌のゴム工場に勤める。波瀾万丈の生涯にはどの段階でも封建的因習が立ち塞がり、女性としての艱難辛苦が待ち受けている。ゴム工場では、労働者として搾取され、朝鮮人として民族差別を受け、その上に女であるための暴力を受けなければならない。姜周龍は貧困の中死を賭して闘い続けた。『滞空女』はプロレタリア文学であり、フェミニズム小説である。しかし実在した歴史的人物である姜周龍の本当の心情など誰にも分からない。それは作者と読者の想像の範疇から抜け出せない。しかしそこに真実の欠片がないとは言えない。

 K-BOOK振興会のネット連載「戸田郁子の日々是拘泥」で、戸田は黄晢暎(ファン・ソギョン)「『鉄道員三代』を紹介する書き出しで、取材に来た女性新聞記者と、若い女性作家の人気について話したとき、「あなたは、金薫(キム・フン)や黄晢暎(ファン・ソギョン)のようなベテラン作家は読まないの」と尋ねると、彼女はかぶりを振って「オールドハニカ」(オールド+動詞のハダ。古臭い、時代遅れ、野暮ったい)と答えたと書いている。
 戸田は自分を「オールドハンアジュンマ(古臭いおばちゃん)」と自嘲しながらも、〈若い世代は、暗くて重たいものは読みたくないのね。しかし時世の流行を云々するのではなく、10年後、20年後、50年後に、なにが残っているかを見よ!と叫びたくなる私である。〉と前書きを結んでいる。
 今年(2020年)95歳の金石範などはオールドハン作家の極みかも知れない。フェミニズムの視点から金石範文学を読み解く批判者が出てくると面白い、という思いはさておくとする。
 金石範は大作『火山島』の続続篇である『海の底から』で、水葬(スジャン)について書いている。それは水上(中)虐殺のことだが、主人公の南承之が密航して対馬島に隠れている女性からその話を聞く。1948年に起きた済州島民衆蜂起が鎮圧された後、朝鮮戦争が勃発すると、2000名を超える人々が予備拘束され素っ裸の500名がロープに繋がれたまま海に沈められたと言うのだ。
 むろん四・三事件で海に沈められた民衆はそれだけではない。銃殺されたり、崖から突き落とされたり、屍体を投げ捨てられたこともあったろう。済州島の海は多くの無辜の命を呑み、血まみれに荒れたのだ。
 その海で命を育んだ海女たちを歌った詩集が、ホ・ヨンソンの『海女たち──愛を抱かずしてどうして海に入られようか』(姜信子・趙倫子訳 新泉社)だ。
_0001  歌われたのは海女たち個人の歴史だ。

  幼くして海に潜ることを覚えた。

  あのとき父は海にむかって
  わたしの衣の下の素肌の恥じらいを砕くように
  陶の器を砕いて ばらまいて
  さあ潜って とってこい
  大きく足を踏み出して 振り返って 言った

日本帝国主義の時代を抗って生きた。

  誰のものでもない海に潜った罪

  命を海にかけて生きる罪ならば
  ありましょうが
  さらに 罪と言うならば
  ……
  ぎりぎりと腕を縛られ
  夢もろとも 捕まえられました

解放後起こった凄惨な四・三事件を経験し、密航して日本へ逃れた。一人の物語ではない。


  三十日後 ふたたび密航の夜

  ずたずたに引き裂かれんばかりに黒い対馬
  あちらに揺れこちらに揺れ 錨綱ひとつを頼りに
  浮いては沈み 沈んでは浮く命

済州島の海女たちの歴史は一人ひとり異なるが詩人の感性なら一つにまとめることが可能だ。
 翻訳者のひとり趙倫子(チョ・リュンジャ)は、〈彼女たちが歴史の中で限界を超えて生きたことを知るとき、私たちは「勇気」を受け取るのだと思います。〉と訳者あとがきに書いてる。
 無名の海女たちを読んだ詩を「心臓で語る詩」と呼んでも不都合はあるまい。
 さて、金石範はこう言う。
〈『火山島』などの作品が私であり、私と重なった見えない私である。現実の作者の私は影である。〉(「生・作・死」『すばる』2020年12月)
 こういう覚悟は「伝える文学」の作者にはできない。
 戸田郁子に似て、少し異なる懸念を筆者は持っている。島尾敏雄の「ちっぽけなアバンチュール」が『新日本文学』(1950年5月)に掲載されたあとの論争を題材に、菊池章一が書いた「ペンフレンド島尾十四郎」(『戦後文学の五十年』武蔵野書房 1998年 所収)を読み直して、人生上のアドヴァイスと文学作品の批評は違う、と自省しきりになるコロナ禍の年末だ。

2020年11月24日 (火)

斎藤幸平『人新世の「資本論」』

斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書
相互扶助と自治に基づいた脱成長コミュニズム

Photo_20201124221701  マルクスなどはすっかり読んだ気になっていたが、この本に出会って我が家の本棚を探してみると『共産党宣言』と『賃労働と資本』と、あと数冊まったく読んだ覚えの無い文庫本があるのみだった。『資本論』は古本屋で安かったので買ったが捲らないまま廃棄してしまっていた。
 最近はマルクス主義史観の経済成長に縋った進歩主義に違和感を持っていた。ソ連の変節には「修正主義」と論難して済ませた時期もあったが、中国が鄧小平以後資本主義を導入してからは胡散臭さが鼻から消えなかった。そして香港の民主運動弾圧の報道を見て怒りまくっているわけだ。
 ところが『人新世の「資本論」』は、マルクスが最晩年に目指したコミュニズムとは、平等で持続可能な脱成長型経済だ、と言う。晩期マルクスの視点では、生産過程の民主化とは、「アソシエーション」による生産手段の共同管理にあり、生産過程の民主化は経済の減速を伴うのだと。逆にソ連は経済の減速を受け入れなかったから官僚主導の独裁国家になったと言うのだ。同様の意味では、資本主義を導入した中国が独裁的全体主義国家に変貌していったのも当然ということになる。
 じゃ『共産党宣言』はどうなるの、と思ったら晩期マルクスはヨーロッパ中心主義的進歩史観から脱却し、グローバル・サウスから学ぶ姿勢を持ったという。マルクスは進歩史観を完全に捨て脱成長を受け入れた。
 著者斎藤幸平の問題意識は、気候変動やコロナ禍など地球規模での破滅に向かう現代社会をどう救うかという点にある。表題の「人新世(ひとしんせい)」とは、人類の経済活動が全地球を覆ってしまい、収奪と転嫁を行うための外部が消尽した時代を示す。地質学的に地球は新たな年代に突入した。それを「人新世」(Anthropocene)と言う。
 「人新世」の矛盾の顕在化は資本主義の産物だ。経済成長を優先した地球規模での開発と破壊が原因だ。現代社会の惑星的危機を回避するためには、晩期マルクスの思索から学ぶべきだとする。
 日本を含むグローバル・ノースにおける大量生産・大量消費の資本主義社会を維持するために、「帝国的生活様式」はその代償をグローバル・サウスに転嫁してきた。この周辺グローバル・サウス「外部化社会」の代償は不可視化されていて見えにくい。例えば、昨今推進されるSDGsでは地球温暖化は止められない。気候危機の原因は資本主義にある。
 斎藤幸平は、『資本論』や『ゴータ綱領批判』などの著作や、これまで無視されてきたマルクス晩年の「研究ノート」などの新資料を読み解くことによって新しく『資本論』を解釈した。マルクスは生産性向上第一主義的進歩史観から思想的大転換を遂げていたと、斎藤は指摘する。
 マルクスの思想は「脱成長コミュニズム」に向かっていたのだ。生産力至上主義の若きマルクスも晩年には変わっていた。人間は誰でも変化し成長する。
 脱成長コミュニズムに到達しない限り、資本主義が崩壊するより前に地球が人類の住めない場所になっている可能性が大きい。人新世時代の終着点だ。
 現在は「プラネタリー・バウンダリー(地球の限界)」に達している。
 拡大再生産しながらは二酸化炭素排出量は削減できないのだ。そして「脱成長コミュニズム」は可能だ。今は経済成長を諦め、脱成長を気候変動対策の本命として真剣に検討するしかないのだ。
 そこで鍵となる言葉が〈コモン〉だ。市民が共同で管理する公共財だ。例えば土地だ。土地は根源的な生産手段であり本来は社会全体で管理するものだ。私有化され投資の対象となったままではダメだ。
 マルクスにとってのコミュニズムとは生産者たちが生産手段を〈コモン〉として共同で管理・運営する社会のことだ。マルクスは、人々が生産手段だけでなく地球をも〈コモン〉commonとして管理する社会をコミュニズムcommunismとして構想していた。
 コミュニズムとは、知識、自然環境、人権、社会といった資本主義で解体されてしまった〈コモン〉を意識的に再建する試みである。水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理することを目指した。ここには市民が共同管理に参加しなければならない。
 脱成長コミュニズムでは「人間と自然の物質的代謝」が重要になってくる。人間は絶えず自然に働きかけ、生産し消費し廃棄しながら、この惑星上での生を営んでいる。この自然との循環的な相互作用のことだ。
 経済成長しない共同体社会の安定性こそ、持続可能で、平等な人間と自然の物質代謝を組織できる。
 そのためには、資本と対峙する社会運動を通じて、政治的領域を拡張していかなければならない。資本は〈コモン〉の潤沢さを解体し、人工的希少性を増大させていく。「使用価値」を犠牲にした希少性の増大が私富を増やすからだ。これを斎藤は「価値と使用価値の対立」と呼ぶ。
 〈コモン〉では利潤を追求しない。人々が生産手段を自律的・水平的に共同管理する。利潤優先の経済システムでは、清掃や調理や給仕などのエッセンシャル・ワークは、低賃金だ。しかし、ワーカーズ・コープなどの協同組合は、エッセンシャル・ワークを自律的で、魅力的な仕事に変えることを目指す。
 無限の経済成長を断念し、万人の繁栄と持続可能性に重きを置くという自己抑制こそが「脱成長コミュニズム」という未来を作り出す。
 〈コモン〉、つまり私的所有や国有とは異なる生産手段の水平的な共同管理こそがコミュニズムの基礎になる。
 私たちは、新自由主義によって、相互扶助や他者への信頼が徹底的に解体された後の時代にいるが、相互扶助と自治に基づいた脱成長コミュニズムこそ、惑星的危機からの脱出に繋がる。
 硬直した老人脳に刺激が大きかった。

*斎藤幸平編集のマルクス・ガブリエル他『資本主義の終わりか、人間の終焉か?』集英社新書 についてはこちらをご覧いただければ幸いです。

2020年10月31日 (土)

金石範『海の底から』岩波書店

世界に対峙して書く
金石範『海の底から』岩波書店
 

Photo_20201031160201 金石範の『海の底から』は、雑誌『世界』に2016年10月から連載を始め2019年4月に完結し、今年2020年2月に岩波書店から出版された。『海の底から』は大長編小説『火山島』の続編『地底の太陽』(2006年11月 集英社)の更に続編で、これで『火山島』は一応の完結を見た。ただし「満月の下の赤い海」(『すばる』2020年7月)のようなスピンオフが今後もあり得る。
 金石範は、『火山島』全巻の韓国語訳が発行されたことに推されて、1917年9月第1回李浩哲(イ・ホチョル)統一路文学賞を受賞した。ソウル市恩平区が、南北分断の不条理を描いて前年死去した作家李浩哲にちなんで、世界の作家を対象に創設した賞だ。金石範は2015年『火山島』韓国語版が出版されるとすぐに、第1回済州四・三平和賞を受賞している。長編『火山島』の執筆によって「四・三」の真実を国際社会に知らしめる契機を作るとともに、イデオロギーを超えた普遍的な人間の価値を描き出したことが認められたのだった。
 李浩哲統一路文学賞受賞に伴う訪韓の様子は、『世界』2017年12月号と翌年1月号に「続・韓国行」として掲載された。1915年4月に四・三平和賞受賞で故郷訪問したさいには、朴槿恵政権の官製式典に嫌気がさしたところに、右翼の四・三潰し示威と保守言論の金石範誹謗報道があり、11月に予定された『火山島』出版記念シンポジウムには本人が入国拒否されている。金石範の李承晩政府の正統性を否定する発言が朴槿恵政権と韓国右翼の逆鱗に触れたようだ。
 しかし1917年6月、連日のローソクデモによる朴槿恵政権退陣と文在寅民主政権の成立で、李浩哲統一路文学賞受賞に伴う韓国訪問となった。しかし高齢の作家を動かしたのは、何より読書会等で『火山島』が多くの市民に読まれている事実を知ってのことだ。
 四・三事件を金石範は「四・三民衆抗争」と呼ぶ。四・三事件とそれに伴う大虐殺の最終責任は李承晩政権と米占領軍にある。『火山島』は四・三事件の追及と現在に至る政治社会腐敗の根を問う、余りにも大長編であった。
 むろんそれだけではない。人間が人間として存在することの否定に対する抵抗は続編に引き継がれる。
 『海の底から』は、『火山島』を引き継ぎ、『火山島』の主要な登場人物だった南承之(ナム・スンジ)を主人公としている。
 済州島では1948年に朝鮮半島の南だけでの単独選挙、単独政府樹立に反対する武装抗争が始まり、ゲリラ化した闘争はアメリカと李承晩政権による大規模な討伐と島民大虐殺によって鎮圧された。その過程は、南承之の兄貴分的な存在であるニヒリスト李芳根(イ・バングン)を主人公とした『火山島』の背景として描かれた。南承之らを日本に逃がした李芳根は、裏切り者柳達鉉(ユ・ダルヒョン)と対決し死へと追い詰め、母方の縁戚でゲリラ討伐、殺戮の限りを尽くした警察警務係長の鄭世容(チョン・セヨン)を殺した後、自らの命を絶った。
 南承之はもともと在日朝鮮人だった。大阪に母と妹が暮らしている。革命のために済州島に渡った南承之は、拷問のための満身創痍を李芳根に助けられて、済州島から逃れて日本に戻ったのだった。豚になっても生きろ、生きることが抵抗であり革命なのだった。
 『海の底から』より前に『火山島』の結末を引き継ぐものとして南承之を中心に書かれたのは『地底の太陽』だった。済州島四・三蜂起に敗れた南承之の物語は戦後日本を舞台に再開された。南承之は豚になって生き残る。日本に逃れて、逃れたという負い目を恥じながら生きる。李芳根の死を知った南承之は李芳根の自殺について考え続けている。
 『海の底から』は李芳根の一周忌から始まる。南承之は李芳根の妹で東京に住む李有媛(イ・ユオォン)を思いながら神戸でゴム工場を営む従兄の家で世話になり、大阪と行き来している。南承之は有媛を思い慕われながら、別の女性幸子(ヘンジャ)と関係を持ってしまった現実から逃げようと思い悩む。小説は日本を舞台に南承之という在日朝鮮人を通して人間の存在意味を問い糺す。それも現代史のダイナミズムのなかに意志と責任を翻弄されながら揺れる存在意味だ。
 そして1950年6月25日、つまり朝鮮戦争勃発の日となる。南承之も〈北朝鮮軍が南侵、南北の戦闘が起こったという衝撃的なニュースを〉知る。朝鮮戦争は戦後東アジア史の大きな転換点だ。朝鮮戦争は、不幸にも日本の戦後復興・高度成長の契機にもなった。
 済州島でも2000名を超える予備拘束逮捕、秘密裏の殺害が相次いだ。50台のトラックに載せられた素っ裸の500名がロープに繋がれたまま海に沈められる水葬(スジャン)があった。この話を南承之は密航して対馬島に辿り着いた二人の女性の一人安正恵(アンジョンへ)から聞かされる。もう一人の康娟珠(カンヨンジュ)は両の乳房が切り取られて無い。二人とも予備拘束され拷問にあった犠牲者だ。この二人を南承之は対馬まで迎えに行き大阪に連れて行く責務を負っている。金石範が済州島四・三事件を題材にした小説を書く切っ掛けになり小説にも描いた「乳房のない女」との出会いが『火山島』の続編の最終章に織り込まれた。作家人生を円環状に繰り返し見せているようだ。この点について金石範自身が、「この小説は終わりなく続くのです。」(「支配されず、支配せず」『世界』2019年7月)と言っている。つまり『海の底から』は金石範文学の全体像を窺わせる構造になっている。
 『海の底から』は日本を舞台として南承之を中心にした小説だが、そこには作家自身の精神性が反映されている。南承之の煩悶する姿には、戦後日本と朝鮮の歴史が色濃く反射される。それも済州島との切っても切れない絡み合った蔓のような関係を手繰りながら進むのだ。
 済州島と日本を物理的に結ぶのは韓大用(ハンデヨン)だ。南方帰りのBC級戦犯だった韓大用は李芳根の企てたゲリラ脱出事業の担い手で、16トンの焼き玉エンジン船韓一(ハニル)号を託されている。それは山のゲリラ組織の方針には反するもので「反革命」との誹りを免れるものではなかった。しかし李芳根は豚になっても生きるのが革命だと考えている。ならばなぜ自らは死を選んだのか。殺人は正義たり得るのか。正義だとしても許されるのか。小説は読者に問いかける。ラスコーリニコフの苦悩を我々が背負わされる。
 李芳根の死と、死後の状況を南承之や有媛に知らせる役目も韓大用が負った。李芳根が自殺した山泉壇側に、李芳根の恋人文蘭雪(ムンナンソル)が16世紀の詩人黄真伊(ファンジニ)の詩を刻んだ小さな石碑をたてた。

  이져 내 일이야 그릴 줄을 모르다냐
  이시라 하더면 가랴마난 제 구태야
  보내고 그리난 정은 나도 몰라 하노라
  なんと わがせしことの 末を知らざりしを
  居ませと 一言ありせば 行かざりしを
  敢えて送りしのちの この焦れる心 われ知らざりしを

蘭雪はブオギに請われて黄真伊の詩と、李芳根が口頭で蘭雪に伝えた詩を韓紙に書いて渡す。

  난설의 눈물이 진주라면
  명주손수건에 싸두웠다가 내 가슴에 안으려마는
  눈물이 흔적 없은니 흔적만을 마음에 새겨두리라
  ナンソリの涙が真珠なら
  絹のハンカチに包んで わが胸に留めおくものを
  涙があとかたもなく消えても 消えたあとを 胸に刻みおかん

 ブオギは李家の下女で李芳根とは特別な関係にあり、山から李芳根の屍体を一人で担いで降り屋敷まで運んでいる。蘭雪を案内し碑建立を手伝ったのもブオギだ。
 この詩の書かれた詩紙片はブオギから韓大用に託され、韓大用、南承之、李有媛が集まった大阪の朝鮮料理屋平和亭で、有媛はこれを読む。文蘭雪の気持ちがこめられた黄真伊の詩と、蘭雪が受け取った李芳根の幼稚なまでの純愛を知って、有媛は涙する。
 李芳根のために黄真伊の詩を刻んだ碑は何ものかによって破壊されている。文蘭雪のその後の消息は不明となる。人間の命は歴史の荒波に飲まれると余りに小さい。それでも「死者が生者のなかに生きる」、死者の遺志が南承之、李有媛、韓大用らに共有される。それは支配・被支配の関係からなる世界と対峙する思想だ。
 『海の底から』は『火山島』の主人公である李芳根の死をめぐる思想小説であると同時に、李芳根の死を自身の心に刻もうとする南承之と李有媛の恋愛小説でもある。
 愛憎哀楽の甚だしい人間個人も、歴史や現実の政治の禍中に存する。歴史的現実に人間はどう向き合うのかを問い続ける、世界に対峙して書く、それが金石範文学なのだ。

2020年10月10日 (土)

徐嘉澤『次の夜明けに』

徐嘉澤『次の夜明けに』(三須祐介訳 書肆侃侃房)
暗黒の現代史に抗う人間性の結晶

Photo_20201010211201  徐嘉澤『次の夜明けに』は、「二二八事件」に始まる。
 春蘭(チュンラン)の夫は日本統治時代から新聞社で編集の仕事をしていたが、1947年、闇たばこ取締りによる殺傷事件が起こり、抗議デモに国民党政府の衛兵が掃射射撃を始めた。新聞社には群衆が押しかけ事実に基づいた報道を求めた。夫は新聞社に詰めて公理と正義のために闘っていた。しかし新聞社の責任者たちは連行され、帰って来た夫は心を病んだのか生ける屍のようになっていた、
 夫婦には二人の息子平和(ピンファオ)と起義(チーイー)がいた。成長した平和は人権派弁護士になり、起義は記者として闘い、永遠に民衆の側に立つことを選んだが、美麗島事件で逮捕された。起義の息子哲浩(ジョイホウ)は、同性愛者で人生とは食べて飲んで遊ぶことだと思っているような青年だった。
 台湾と言えば、多くの日本人には民主的な国で料理が美味しく清潔な先進国というイメージだろう。新型コロナウィルス感染症も科学的な対応で押さえ込みに成功し、香港の民主化運動にも連帯を示した民主国家だと。そして「親日国」だと思い込んでいる。
 しかし台湾は日本の植民地として苦難の年月を経たあと、大陸から敗走した中国国民党軍によって暴力的に支配された時代を歩んだ。台湾は「暗黒の50年代」と呼ばれる独裁政権による白色テロ時代から、民主化を実現した現在まで多くの犠牲を出しながら歩んできたのだ。
 台湾の「二二八事件」と言っても日本では未だに馴染みがない。もしかすると映画「非情城市」で何となく知った人もいるかも知れない。かく言う私も韓国の済州島四・三事件ほどには関心があった訳ではない。しかし戦後東アジアを覆った白色テロの一環として考えさせられたことはある。
 陳明忠は「白色テロの証言」(『東アジアの冷戦と国家テロリズム─台湾シンポジウム報告集─1997年11月)で、大陸で敗れた国民党政府は、共産党ばかりか内戦に反対し和平を主張する者から民生の改善を要求する者まで共産党のスパイとして粛清の対象とした。結果、当時台湾にいた900人ほどの共産党員の10数倍が殺されたり逮捕され、4000人が処刑された、と証言している。
 陳明忠自身は、1947年に「二二八」事件が発生したとき、「台湾民主聯軍」の突撃隊隊長になり国軍に夜襲をかけるなど活躍したが1950年7月に逮捕された。10年後1960年に釈放されたが、1976年7月に再逮捕されると21日間にわたって拷問を受け秘密裁判にかけられた。妻も保安所に連行されたが釈放されるとアメリカの妹に連絡をとりアメリカでの救援活動が始まった。1987年に戒厳令が解除されても減刑されなかったが、翌年蒋経国が死ぬと減刑通知され釈放された。2回の逮捕で計21年の年月を獄中で過ごしたことになる。
 『次の夜明けに』が描いたのは、こういう時代だった。
 『次の夜明けに』は短篇連作形式で、台湾の戦後から現代に至る三世代の描写を通して、家族とは何か、正義とは何か、愛とは、人間が生きるとはどういうことなのか、を読者に問いかける。
 そして、台湾現代史に織り込まれた様々な社会問題、老後の生活、外国人労働者に対する差別と搾取、LGBTの人権問題、凄惨なイジメを巧みに描き出し、私たちに問題提起している。それは国境を超えて今の日本にも通じる。
 「上層部の人間」の欲望は彼らにとっての理想の国を掲げる。コンピューター化されたハイテク工場でロボットが働く。管理された住宅施設でよそ者を受け付けない。しかしそれは「鶏を殺して中の卵をとるような、目先の利益に目がくらんで将来を忘れ」た愚かしい理想だ。
 政権は、うわっつらの政治的成果を出すことに懸命になり人民の生活と将来の安寧を浪費している。「カネこそすべて」なのだ。
50  小説の中で上から抑えつけられる「報道の自由」も、日本の今と似ている。
 さて公理から目をそらし正義に反しても裏切らなければ、家族を妻や子を守れないとしたら、彼を責めることはできない。むしろそうした人間性を破壊させるおぞましい権力を憎悪するだろう。『次の夜明けに』は歴史や政治を書いたものではない。人間を破壊し痛めつけるものに対して抗う人間性の結晶としての表現だ。
 小説は作者の意志であり自己表現でもある。訳者にとっても同じだろう。「訳者のあとがき」から一言引用したい。
 〈真にリベラルな社会とは、そうあり続けようとする不断のプロセスそのものなのではないだろうか。〉

*上記記事発表後、引用した陳明忠さんが昨年亡くなっていて、その追悼集会で上映されたビデオがYouTubeにあるとのご教示を受けました。
チワス・アリ「青春戦闘曲」(2020.02.28式場で上映)
https://youtu.be/_HqsUJntbGY
 青春戦闘曲は、戦前に中国大陸で歌われ、台湾光復後は台湾学生運動でも広く歌われたそうです。

2020年10月 1日 (木)

チェ・ウンミ(橋本智保訳)『第九の波』

チェ・ウンミ(橋本智保訳)『第九の波』書肆侃侃房 2020年9月

僕らの愛は政治から逃れられない

Photo_20201001134901  半沢直樹を観て喜んでいる人たちが自民党に投票する不思議、というツイートを見た。直接自分の生活と関わりの無いドラマでは不正に怒り、犯罪的権力者をギャフンと言わせたいと憤っているけれど、いざ実生活に戻ると世間の空気を読み、上司や近所のお偉いさんにおもねてしまう。コロナ禍でますますその傾向は強まっている。ワイドショーの菅新政権礼賛の気持ち悪さ。
 桜を見る会疑惑で安倍政権は打撃を受けた。黒川弘務東京高検検事長を検事総長にするための定年延長ごり押しが、黒川氏の「賭け麻雀」発覚で消えて批判された。更にコロナ対策で配ったマスクの不衛生と持続化給付事業の電通丸投げが発覚して、土地転がしならぬ事業転がしで内閣支持率は激落ちした。しかし安倍晋三の辞任発表で持ち直し、安倍政治の継承を謳う菅義偉新総理の支持率も高い。
 森友学園をめぐる財務省の公文書改竄事件で、財務省近畿財務局管財部の上席国有財産管理官赤木俊夫さんは自殺に追い込まれたが、改竄を指示した佐川宣寿財務省理財局長はなんの罪も問われぬまま国税庁長官に出世してから翌年辞職した。
 加計学園グループの岡山理科大学獣医学部新設をめぐっては、安倍晋三首相が「特別の便宜」を図ったと目され、大学の杜撰な設置計画は放置されたまま認可された。
 福島の原発汚染水は海に廃棄が計画され、復興はほど遠く、避難民は放置されている。地球温暖化のもたらした大雨や巨大台風の被災者も救われていない。
 コロナ不況でも株価は持ち直し、持てる者は経済的富をなんとしても手放そうとしない。そのための政治が機能している。上級国民を批判する声は、嫌韓反中国の声や、在日朝鮮人、アイヌ、障害者、反基地闘争を闘う沖縄人民への差別のがなり声に打ち消されて聞こえにくい。
 というようなことに苛立つ今日、読んだ本が凄かった。
 チェ・ウンミ『第九の波』だ。
 しかしこれ社会問題を告発するための小説ではない。恋愛小説だ。保健所勤務の薬剤師ソン・イナ、その保健所に公益勤務要員として働く学生ソ・サンファ、国会議員の秘書でイナの元恋人ユン・テジン。因みに「公益勤務要員」とは徴兵制のある韓国で、病弱などの理由で兵役に服するに適さない場合、公的機関に代替して勤務することを指す。サンファは目に傷害を持っている。
 この三人が交差する町は韓国のトンヘ=日本海に面する架空の町陟州(チョクチュ)だ。陟州では、原子力発電所誘致をめぐって、市を二分する激しい争いが起こっている。原発利権を手に入れたいトンジンセメント社長オ・ビョンギュが市長だ。トンジンセメントでは長年劣悪な条件で下請け労働者を使い捨てにしている。彼ら労働者を中心に市長リコール運動が高まっている。市長派は暴力と脅迫で切り崩しに躍起になっている。
 小説はある老人が毒物マッコリを飲んで死亡した事件から始まる。老人は元トンジンセメントの下請会社で石灰石削岩技師だったが、18年前にイナの父親が死亡した事件の容疑者だった。イナはテジンとの生活が破綻し心も体も傷つき2年前に陟州に帰って来た。
 サンファの父親はトンジンセメントの下請として、正社員が廃車にしたダンプカーの運転手をしていて大怪我をした。しかしたとえ死亡事故でも労働者の過失、安全管理不足として処分されるのは下請け労働者だった。解雇された父と同僚は勤労者地位確認の訴訟を起こしたが、逆に損害賠償請求訴訟を起こされ、自宅、保険、祖母の医療費まですべて差し押さえられていた。そのためサンファは公益勤務後の夜は薬局でアルバイトしていた。サンファの母はカルト宗教団体薬王(ヤグァン)成道会に入信して帰らない。サンファも薬王成道会の奨学金を受けている。
 背の高い好青年サンファは歳上のイナに魅かれて機会があればつきまとい、イナも徐々にサンファに愛情を示すようになっていく。侮蔑と分断のなかでも愛は育まれるのか。イナのかつての恋人テジンは二人を遠くから見ている。
 ユン・テジンは高校生のときに、道路舗装工事でできたコールタールの泥濘に頭から突っ込み、変わり果てた容姿になったが、薬を飲み続けながらも徹底して軀を鍛えた。イナと出会って一時は自分はまともの人間なのかも知れないと思ったこともあったが、イナの悲劇を自分のせいだと信じ、二人は傷つけ合って別れたのだった。テジンは議員会館で長年キャリアを積み、自分の能力と経験以外誰も信じなくなった。自分の仕える議員や同僚も軽蔑していた。無自覚にニヒリストなのだ。
 陟州は権力者が国策に呼応し原発利権を貪ろうとする町、そしてカルト集団が暗躍し、強力な鎮痛剤で中毒になり洗脳される町。利益が得られるなら何でもする権力者の手先が暗躍する町。虐げられる者は差別されることに慣れっこになっている。
 なんだか2020年日本の縮図のようだ。「著者のことば」によると、小説の骨になる市長リコール事件は2012年に実際に起きた住民投票をモチーフにしているのだそうだ。
 最初に恋愛小説だ、と書いた。「ロミオとジュリエット」も「愛と死を見つめて」も「ある愛の歌」(古いか?)も殆どの恋愛小説にハッピーエンドはない。『第九の波』を推理小説として読めば、一応の解決はある。また韓国現代史の断面を小説として紹介したものとして読むならば、こういう葛藤を何度も繰り返しながら着実に民主化が進んでいると考えることもできる。
 しかし『第九の波』は社会の度しがたさに愛が呑み込まれ、連綿と犠牲を生み出す暗い海で藻掻き続ける若い命を表している。愛は政治から逃れられない。小説は静かに始まって激しく終わった。

2020年9月17日 (木)

ピョン・ヘヨン『モンスーン』

勤労市民の生はブラックホールに吸い込まれる
ピョン・ヘヨン『モンスーン』(姜信子訳 白水社)

Photo_20200917110901  新型コロナウィルス禍によるパンデミックによって、世界は新しい日常を外側から強要された。人々は顔の下半分を隠し、近寄りすぎず、集まらず、面と向かって話し合ってもいけない。会社も学校もリモート化が進み、人と人の接触は極力避ける、そういう社会で我々はブラックホールに吸い込まれるかのように、見えない任務を果たしていくのだろうか。
 ピョン・ヘヨンの『モンスーン』(2019年8月 白水社)は、コロナ後の世界はコロナ以前から始まっていたのではないか、と思わせる。我々は資本主義によって分断され、既に向かい合うことを自制されていた。ソーシャルディスタンスはとっくに始まっていたのだ。
 「同一の昼食」には直接〈人間は他人と少なくとも二メートル以上の距離を置かねばならぬ存在なのかもしれない。〉と書かれた。大学の複写室で商売する彼は、学生や講師たちとはまったく親交がなかった。彼の一日は定食Aセットを基準に、午前と午後が転写画のように反復した。昨日と今日が、先週と今週が、昨年と今年が同じで、未来は過去と同一のようだった。
「観光バスにのられますか?」では上司の指示で大きな袋を運ばされる二人SとKの道中が描かれた。彼らは指示された通りにバスに乗って目的地に行き、その都度ケイタイに届くメールの指示を待って別のバスに乗る。そんなこと繰り返すが自分たちが何をどこに運んでいるのか知らない。仕事はブラックホール化していて、もう殆どの者には理解出来ない構造になっている。多分人生も同じだろう。
「ウサギの墓」で地方に派遣された彼は、毎日都市から来た文書を整理して、その都市と関連する情報を検索収集して簡潔な書類にまとめるのが仕事だ。何のための仕事かは分からない。仕事の目的が分からないまま日々を繰り返す。
「散策」の彼は妊娠した妻を伴って支社勤務の辞令を受ける。放し飼いされる大型犬を妻が怖がり外出もままならない。彼は犬を処分するために森に入るが、道に迷って帰れなくなってしまう。我々は何の意味か不明な前進を余儀なくされて、帰り道は見えない。
「クリーム色のソファの部屋」では、支社勤務を終えソウルへ向かう夫婦と赤ん坊の道中だ。雨が降ってきたのにワイパーが動かない。夫のジンにとって車とは内部のことがまったく分からない黒い機械のかたまりに過ぎない。ブラックホールだ。この小説も主人公たちは帰れない。帰ろうとしてもトラブルが続出してたどり着けないのだ。
 そしてこの主人公も、自分の世界が巨大な船舶の一部に過ぎず、労働者たちが製造する部品と変わりがないと知っていた。
「カンヅメ工場」の従業員たちにとってはカンヅメがブラックホールのようなものだ。彼らはカンヅメのふたを開けるとき、飯を食っているのか、検査をしているのか、分からなくなり、結局どっちにしても生産工程の一部だとばかりに機械的に口を動かす。
 彼らの誰もがひそかにカンヅメに何かを入れて密封した経験がある。現金だったり、指輪、クリスマスプレゼント、家の書類、市場で買ってきた猫の肉、死んだペット犬の死骸、鼻をつく臭いの靴下と下着等々だ。工場長が失踪したが次の誰かが替わるだけだ。
 表題作「モンスーン」には、消えた灯りを点す再生の意味がありそうだ。しかし他の作品同様なんら説明はない。読者は想像しなければならない。
 赤ん坊を亡くしてテオは会社を辞めた。テオは子どもの死に関して妻のユジンを疑っている。団地の工事停電の日、テオが駅前のバーに入るとユジンの勤める科学館の館長が近づいて来て一緒に飲むことになってしまう。テオはつい赤ん坊の死について不用意な言葉を発してしまう。テオは誤解を意識した。それはユジンになすりつけた罪をテオが被る行為であり、自己の正当化を崩すものだった。想像は誤解を生むかも知れない。読者としては読書そのもの危うさも考えなければならない。
 ピョン・ヘヨンは不条理な現実世界を読者に突きつけてくる。我々はデジタル化し、リモート化した仕事の意義を肌で感じることができなくなりつつある。金儲けだけが目的であれば、作業がブラックホールに吸い込まれ見えなくても良いのだ。しかしそれは支配階級の論理だ。
Photo_20200917110902  同じ作者の作品をもうひとつ紹介したい。『ホール』(カン・バンファ訳 2018年10月 書肆侃々房 韓国女性文学シリーズ)だ。
 交通事故で妻を失い、自分は目の瞬きで意思表示をするだけの寝たきり状態になった男オギ。左手だけがようやく動くようになり自宅に帰るが、既に両親を亡くし家族は妻の母だけだ。オギと義母の関係は典型的な非対称性の暴力関係にある。
 男が俗物だったとしても、不倫の経験が何度かあったとしても、妻との関係が上手くいっていなかったとしても、動けず喋れない人間の人権を蹂躙はできない。しかしこの小説では被暴力支配下にある男の絶望への道が描かれる。冒頭で医者はオギに生きる意志の重要性を解き、オギは励まされるが、身動きできないオギの人生はことごとく潰されていく。
 人間が落ちていく穴はどこにでも誰にでもありそうで、また誰もが掘ってしまう。気付かぬうちに自分が非対象的な暴力を振るっていることもあり、人を穴の闇に導いているのかも知れないという恐怖が横たわっていることもある。自覚しなければならない。
 ピョン・ヘヨンはこの小説でアメリカの文学賞シャーリイ・ジャクスン賞を2017年に受賞している。他に日本語訳が出版されているものとしては、短篇集『アオイガーデン』(2017年 クオン)がある。

2020年7月23日 (木)

善野烺『旅の序章』

善野烺『旅の序章』解放出版
差別と暗い情念

Photo_20200723204701  小説集『旅の序章』は前半の短篇6点と表題作の長篇とによって構成される。どの作品も基底にあるのは差別を強いられる場=トポスの暗い生命力だ。被差別部落は日本人のナショナリズムを維持するために必要不可欠な要素であり近代国家の犠牲だった。
 冒頭の短篇「時の流れ」に描かれたのは、被差別のムラで性を体験したが、その後仕事を転々として底辺を這いつくばって生きてきた男の情だ。女とは縁の無いまま行商暮らしをして暮らす中年男に訪れる出会いが愛おしい。
「十年後の手紙」の時本信夫は自身の出身地集落が運命的に背負わされた問題で屈託せざるを得ない。十年前高校生のとき手紙を貰って言葉を交わした女子高生がいた。進学校でただ一人就職だった彼女に、信夫はバカにされた気がした。今になって彼女がその後不幸な半生を辿ったことを知ることになる。
 「年暮記」の信夫は神戸に住んでいるが、北埼玉のK町に住み本庄で店をやっている易子に会うために涙ぐましい努力をする。大阪から夜行バスに乗ろうとしたが降雪のため運休だった。なけなしの金で寝台に乗って東京に出て、高崎線の熊谷から秩父に向かった。秩父鉄道沿線には易子との思い出があった。
 易子とは神戸で知り合って遠距離恋愛を続けてきた。信夫はなんとなく易子が自分と同じ立場ではないかと考えていた。しかし信夫の出生が分かると易子の兄から強く反対されてしまう。
 信夫は秩父鉄道の終点三峰口まで行き、バスとロープウェイを乗り継ぎ更に歩いて三峯神社まで行き電話したが、易子は出なかった。信夫は易子と会うまでに右往左往して時間を潰す。そのあげく夕方本庄のホテルに入り、夜中になっても来ない易子が心配でタクシーを頼んでK町まで行って引き返したりする。信夫にとっては易子との性交以外は時間潰しに過ぎないかのように残酷に描かれる。出生地の闇を抱え恋人の家族に反対される信夫は不安で仕方がない。いつ捨てられるかビクビクしている。
 「師走の記」の時本和夫は妻の幸子と神戸に住んでいる。幸子の実家は埼玉だ。「年暮記」の信夫と易子の関係を先に進めている。大阪に住んでいる幸子の叔父小池信吉が死んだという報せが届く。阿倍野の病院の霊安室には信吉の同僚だった足立らが待っていた。信吉と親しかった足立はもろもろの手配など親切に立ち回ってくれたが、時本は足立の話に朝鮮人に対する侮蔑を感じて厭な気持ちになる。「在日」や「部落」はやっかみと侮蔑の対象への符帳なのだ。時本には符帳の当事者として足立の言葉が胸に刺さる。信吉の入っていた創価学会の信者に、信吉の住んでいた「あの辺り」は暴動が起きたり不穏な地域なので注意するように言われる。差別の場は至る所に存在し立場によって異なる。
 「窒息」も「年暮記」と同様に埼玉県北部が舞台として描かれ、北関東の殺伐とした雰囲気に読者として共鳴する。会社員の橋本信は、天皇の様態の悪化を懸念しての「自粛」や、その死(1989年=昭和64年1月7日土曜日朝)をめぐって周囲のわざとらしい慰謝と自慢のない交ぜになった態度を嫌悪していた。新しい元号「平成」や「平和主義者」としての天皇賛美の風潮を腹立たしく思っていた橋本は、悪酔いして同僚で高校後輩の青山に絡み青山の過去を責める暴言を吐いてしまう。
 昭和が終わり平成という年号が動き始める時制が、「令和」という虚構の始まりに新型コロナ汚染という現実を前にして自粛して耐える現在と重なって見えてくる。天皇という幻想に暦を司らせる虚構の祝祭から放逐された自意識が主人公にはある。
 橋本は取引先の土井工務店の土井が苦手だった。土井は五十がらみの紳士でゴルフや土井工務店の慰安旅行に誘われて付き合っていた。ところが土井にホテルに誘われて彼の嗜好を知り避けるようになっていた。
 土井は六〇年安保世代で学生時代は国会前デモに参加していた。土井は自分を「ボウトの血とアイヌの血が混じっている」と自任している。ボウトというのは秩父困民党のことらしい。天皇に逆らった暴徒だ。
 職場では天皇の代替わりと新年号に嬉々とする雰囲気に反発し青山に感情をぶつけた橋本だったが、同性愛者の土井の身を以て語る天皇制批判には感情が追いつかない。
 風邪を引いて会社を休み寝ているところに青山から生徒を暴力で半身不随にしてしまった真相を告げる手紙が届く。橋本は自分の「反天皇制」が気分だけで実のないものだ思い知らされたに違いない。
 この小説集には、度々被差別部落出身である不遇から恋愛成就がままならぬ男が描かれているが、「陽炎の向こうから」では、主人公の時本ではなく、見知らぬ男が手帳に残した日記から、震災で逝った恋人洋子の心情に寄り添っている。洋子は求婚する彼に「あなたとの間には乗り越えないといけない壁があるのよ……」と言った。勿論出身地の問題である。この作品には時本の友人が経験する人種差別も語られ、差別に対する客観的視点や差別構造の多重性が(表層的ではあるが)描かれる。この小説は最後に希望を語るが、しかし社会がどう変わろうと差別はウィルスのごとくに変形しながら生き延びる。闘い続けなければ増殖するのだ。
 作品集の半分を占める「旅の序章」は、「僕の出生地の問題」に関わって女に愛されなかった青春時代と困難だった就職を描いた。僕はビニ本と呼ばれるエロ本中心のチェーン店本部に就職し長崎や佐世保に長期出張して店の運営にあたっていた。あるとき昼勤を頼んでいる矢沢というおじさんと飲みに行くと、矢沢は兵隊時代に同僚の兵隊が上官の命令で民間中国人を銃剣で刺し殺すのを見たという。その同僚兵隊が同和地区出身だったと言う。十二人までは突き殺すのを数えたがそれ以上は見ていられなかった。
 本部に帰って本店の手伝いをするようになったが、二十四時間営業の方針を実行できない僕は退職してしまう。会社の寮を引き払ってアパートを見つけた僕は仕方なくスーパーマーケットのアルバイトを始めるが、そこも二十四時間営業だった。この設定は現在のコンビニ経営者の過重労働を先取りしている。
 僕は『かよちゃん』という女将がひとりで切り盛りする食堂の常連になる。『かよちゃん』は差別される地区のど真ん中にあって、被差別部落出身の僕としては気兼ねが要らない場(トポス)だった。
 僕は、行き着けになった喫茶店で働く天真爛漫な恵子と親しくなる。マスターに「あの子はね、屠場のある、あっちのほうから通っている」と教えられる。僕は身寄りのない恵子と蜜月関係になる。
 万引きする不良少年たちともめて怪我したのを切っ掛けに店を辞めてしまった。実家に戻って教員になるために大学に学士入学するが、恵子との連絡は取れなくなってしまう。
 この作品には阪神淡路大震災がエピローグとして書かれている。被災地のボランティアで、長崎で出会った車椅子の吉田と再開する。『かよちゃん』のあたりはすっかり更地になっている。この小説は東日本大震災後に書かれている。表現がやや軽きに失すると雖も、震災後の希望へと繋げたい作者の心情は理解出来る。
〈可能的に、「国民」の一部を「非国民」として、「獅子身中の虫」として、摘発し、切断し、除去する能力、それなくしてナショナリズムは「外国人」を排除する「力」をわがものにできない。〉
                                                               (鵜飼哲『まつろわぬ者たちの祭り』インパクト出版2020年4月)
 世界を疲弊させる排外主義は、国内に必ず被差別階級を生み出し攻撃する。同時に差別される側に妬みや嫉妬、劣等感と裏返しの優越感という暗いエネルギー情念を生み出す。

«金石範「満月の下の赤い海」(『すばる』7月)