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2018年4月24日 (火)

在日朝鮮人文学

愚銀のブログ内で在日朝鮮人作家の作品に言及した頁を紹介します。

「在日朝鮮人文学」とは何か

「在日朝鮮人文学」の変容とは何か


在日朝鮮人文学の黄昏

宋恵媛『「在日朝鮮人文学史」のために』

金泰生文学の軌跡

「在日朝鮮人文学」と金泰生の風景

金時鐘×佐高信『「在日」を生きる』集英社新書


金石範「海の底から」世界連載中

金石範「消された孤独」

金石範の『過去からの行進』

金石範「終っていなかった生」

金石範「地の底から」

金石範さんの入国を韓国政府が拒否!

麗羅『山河哀号』

尹在賢『凍土の青春』

金蒼生『済州島で暮らせば』

地方語・民族語・帝国主義語──金聖珉「楓の挿話」

柳美里『人生にはやらなくていいことがある』

柳美里『貧乏の神様』

柳美里『JR上野駅公園口』

転換期の作家・李良枝

金重明『幻の大国手』再読

黄英治『前夜』

黄英治『あの壁まで』

黄英治『記憶の火葬』

深沢潮『ひとかどの父へ』

李信恵『鶴橋安寧 アンチ・ヘイト・クロニクル』

崔実『ジニのパズル』

2018年4月 4日 (水)

イ ヒョン『1945,鉄原』

南北朝鮮の対立の原点を描いた青春小説

イ ヒョン『1945,鉄原』梁玉順訳 影書房Photo

 アベ政権の河野太郎外相は3月31日に、北朝鮮が「次の核実験の用意を一生懸命やっている」と、高知市で開いた講演で断定したが、アメリカの北朝鮮分析サイト「38ノース」は4月2日、北朝鮮豊渓里(プンゲリ)の核実験場では「過去数カ月に比べて活動は大幅に減少している」とする分析を発表した。河野外相は、北朝鮮憎しのまったく見当外れの発言で恥をかいた訳だが、対米従属、アジア蔑視の日本人のメンタリティーという需要に応えた積もりに違いない。
 アジア蔑視の中心にこそ「北朝鮮」=朝鮮民主主義人民共和国がある。ところが、平昌オリンピックへの北朝鮮代表団の参加以後南北融和は急速に進んでいる。あわや核戦争も辞さぬとされた東アジアの平和は一旦保たれつつあり、朝鮮半島の戦争危機は話し合いで解決されようとしている。ところが日本のアベ政権は北朝鮮を巡る中韓米露の話し合い路線に乗り遅れ、いまだに対北朝鮮強行政策から抜け出せないでいるお粗末だ。
 そもそも朝鮮半島の南北対立はいつ起きたのか、という基本的な知識さへ持たない嫌韓国・憎北朝鮮の日本人は少なくない。1948年に南朝鮮での単独選挙を経て、李承晩大統領を戴く大韓民国が成立した。翌年には対抗した北朝鮮で朝鮮民主主義人民共和国が成立した。
 イヒョン作『1945,鉄原(チョロン)』は、日本帝国主義の頸木から放たれた1945年8月から2年半ほどの期間に、朝鮮のほぼ中央に位置する町「鉄原」で繰り広がられる青年群像の活躍と煩悶とを描いた小説だ。
 鉄原は現在、軍事境界線の南、非武装地帯(DMZ)に隣接する民間人統制線の内側にある。しかし1945年以後のこの小説が展開された時期はまだ38度線の北側の町としてソ連が進駐し、鉄原郡臨時人民委員会が支配的だった。獄中の独立運動家や共産主義者は解放され、大地主の所有した土地や財産は再分配された。それまでの身分制度は徹底的に破壊されたのだ。
 姜敬愛(カンギョンエ)は、小作農の娘で両親を亡くし大地主黄寅甫(ファンインボ)の妾である徐華瑛(ソファヨン)の小間使いとして働いていたが、解放後は鉄原郡臨時人民委員会の管理する人民書店で働いている。古い身分制度に固執する名家の娘郭恩恵(カクウネ)は気位の高い両班の娘だが、心を隠して敬愛と対等な立場で人民書店で働きながら、京城へ逃げる機会を待っている。黄基秀(ファンキス)は黄寅甫の末息子だが、身分制に反感を持ちソ連への留学を夢見ていた。
「お母さん、共産主義は虐殺しようというのではないんです。復讐しようというのでもないんです。(中略)もう一度はじめようということです。お母さんとぼくとで、新しい世の中で、またはじめられるんです」
 基秀の理想に燃えた無垢な言葉は、当時の青年たちに共通していたかも知れないが、すべてを奪われたと思い込んだ母は首を括ってしまう。
「わしゃ、アカがなにかよう知らん。だけど、はっきりいうけど、日本人どもの手先になっていたやつが、のうのうといい暮らしをしているのはほっとけん。とんでもないことだよ。だからね、黄家の万石の財産をみんなうばいとったアカが好きじゃ。わしゃもう、無条件でアカの味方よ」
と言う漣川(ヨンチョン)おばさんの言葉は庶民を代表している。米軍が駐留している南朝鮮では植民地時代に日本の手先となって朝鮮人を虐げた「親日派」が幅を利かせている現実があった。
 やがて鉄原でも右翼団体によるテロが活発化していく。大韓民国設立の正当性にも一石を投じそうな小説だが、この後起きる朝鮮戦争と、韓国の軍事独裁政治と北朝鮮の独裁政権の対立を鑑みれば、決着の着かないこの物語は複雑でしかない。敬愛たちの純粋な夢は美しいが、その後の困難は果てしなく厳しい。民主政府が政治を担う現代韓国でもいまだに極右勢力は蠢いている。人の心はなかなか変えられない。しかし「反共」が国是であった韓国でこのような小説が書かれ読まれるという事実は、民主制度の確立が目の前に迫っていることを知らせる。
 日本では相変わらず政治の私物化がまかり通っているし、排外主義的風潮はいっこうに消えない。先日も大阪で韓国人男性が面識の無い日本人男性にナイフで刺された。韓国のマスコミは「被害者は日本語が上手ではなく、誰が見ても韓国人だということで、このような被害にあった」と伝えたが、日本のマスコミは被害者が韓国人であるということさえ報道を避けた。「慰安婦」問題をはじめ「反日」的情報の提供を避けているとしか思えない。
 日帝時代からの革命闘志だった洪正斗(ホンジョンドゥ)ではなく両班の親日家黄寅甫の愛人になった徐華瑛の「愛とはときに、そんな招かれざる客のようなものなのよ」という言葉が、艶めかしく人間の愚かしさを言い当てている。
 朴婉緒の『新女性を生きよ』(梨の木舎)が同時代のソウルを描いているので読み比べてみるのも良いかも知れない。その続きが『あの山は、本当にそこにあったのだろうか』(かんよう出版)だ。

2018年3月27日 (火)

あまりにも真昼の恋愛

エメラルド色の輝きで彷徨う
キム・グミ『あまりにも真昼の恋愛』すんみ訳 晶文社

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 『あまりにも真昼の恋愛』に収められた短篇すべてを一読して、李箱や金承鈺を思い浮かべた。そのどちらにも似て、また似ていないが主人公たちの生きる社会に強いられる不条理の空気感に同質性を感じる。しかしながら日本帝国主義支配下だったり軍事独裁政権下で生きる庶民の閉塞感とは違う、むしろ現代日本に蔓延する諦念に似た雰囲気が描かれる。
 表題作「あまりにも真昼の恋愛」では、平社員に降格された30代半ばのピリョンが、小劇場の舞台に立つヤンヒと再会して、自分の生きてきた普通の人生に疑問を持つ。家庭を持ち出世するために働いてきた自己を振り返るが、引き返すには現実は重すぎるだろう。
 「趙衆均の世界」では、試用期間中の私は50前の歳で何の役職でもない趙衆均
(チョジュンギュン)氏と仕事をしていくうちに、趙衆均の変わった生き方に惹かれていく。趙衆均氏は校正の仕事に執拗に食い下がり日程に間に合わない。趙衆均氏は学生時代にデモに参加して警察に捕まったことがあり、その頃の仲間が「過ぎ去った世界」という名の酒場をやっている。マスターはかつて死刑囚だったらしい。趙衆均氏が解答用紙に書いた詩が「過ぎ去った世界」だ。
 「セシリア」の私は学生時代の先輩と離婚経験があり、今は小論文の講師をしている。私は学生時代から仲の良い友だちがいなかったセシリアを訪ねた。芸術家のセシリアは、あなたが訪ねてくると思ったと言い、別れ際にはもう来ないでと言う。
 これらの作品では平凡と非凡が対象されていると読むことができる。この世界に順応して生きる閉塞感と、順応しない絶望感とどちらが自由だろうか。答えは明確ではない。
 「半月」の少女は、母が借金を作ったため、ほとぼりが冷めるまで叔母さんの住む島に行くことになった。叔母さんは島で唯一の保健所で医師の仕事も兼ねた看護師をやっていた。都会の生活にも苦悩はあるが、田舎にも生きる闘いがある。
 「肉」の夫は〈お金がもらえる仕事は、卑しくて汚いことばかりだ〉言う。私たちはみな卑しくて汚いことばかりやって生きてきたのかも知れない。
 「犬を待つこと」の彼女は、自分が限られた階層や傾向の人たちの枠から出ていないことに気づいていた。〈彼女はよろけながら抱きついてくる犬を頭に浮かべた。ただ犬だけが彼女をまっとうに見つめてくれていたと思うと悲しさに襲われた。〉彼女は失うことによって初めて人生を考え直したのだろう。亀裂を感じて展望を考えた。
 「私たちがどこかの星で」の彼女は孤児院出身で新米看護師だった。孤児院の賄いおばさんから、孤児院がつぶれそうなので寄付をお願いする手紙が来ていた。
 公平な愛を見せるシスターと子どもたちの関係、看護師である彼女と患者の関係、彼女と賄いのおばさんとの関係、来年も彼女がこの病院で働けるかどうかの鍵を握っている看護師長と彼女の関係などは、すべて「非対称性、不均質性に由来する社会的諸関係」
(山城むつみ「カイセイエ」『すばる』2018年3月)と呼べる。その関係は常に暴力性を帯びている。唯一ドアマンと彼女の関係だけが対等に感じられる。
〈彼女はスズの兵隊のように焦がれる恋に苦しんだあげく、告白を待っているのかもしれなかった。ここは大きな病院で、痛みのない人はいないから。皆が不完全で、それだけは公平な世界だから。〉
大きな病院とは、この社会そのものの象徴であると思われる。〈彼女は患者を連れて移動しながら、いまだに道に迷った。〉
 新人が着るエメラルド色のユニフォームを着た彼女が、新米であるが故の輝きを失わないまま道に迷い歩き続けていくさまを、希望の姿として捉えたい。
 「普通の時代」が描いたのは、この社会が手抜き工事で作られた土台の上に建っているという事実だ。
 「猫はいかにして鍛えられるのか」は、オストロフスキーの長編小説を彷彿させるタイトルだが、不屈の精神で革命戦争を導くようなタイプを描いてはいない。モ課長はただ自分の技術を生かしたいだけで、誰にも与しない。リストラのための職能啓発部へ異動になるが、他の社員たちと強調せず、たんたんと課題をクリアしていく。そして退社後には迷い猫探しに勤しんで「猫探偵」と呼ばれる。モ課長は猫を迷子にしてしまった飼い主には厳しいが、自分が勤める会社や生きている社会には批判の目を持たない。〈流れるままに流されればいい〉と思っているが、社長との圧倒的な価値観の違いを知ると、クビになった人たちが煙突に設置しかけた垂れ幕を読むために煙突を登り始める。
 この社会で人は被害者でありながら加害者であるかも知れないことに気づけないでいる。加害性は社会に強いられ、差別性は気づかないうちに生み出され育まれる。
 メッキさえ剥がれ始めた酸素不足の社会で私たちが意識しなければならないものは何か、読まされた気がする。

2018年3月18日 (日)

金時鐘×佐高信『「在日」を生きる』

詩は現実認識における革命だ

Photo 「在日」を生きる、とは今さらながらのタイトルだが、戦後日本に生きる「日本人」出身ではない詩人の視点から、現代日本の抱える様々な問題の根幹を考えることに焦点を絞って見ればこんな対談になったと言えようか。軽い語りの対談だが、中身は重い。
 金時鐘
(キムシジョン)は植民地朝鮮の皇国少年であった。従って金時鐘の意識の基底をなしたのは日本語だった。〈それも皇国史観を徹底して賛美する日本語だった。それは非常に情緒的な日本語です。〉それだけに金は、日本語から距離を置き客観的に日本語を見る努力をしてきたのだろう。
 朝鮮語(韓国語)の母音は陽母音と陰母音に分けられる。万物は陰陽によって調和統一されるというのは朝鮮民族に受け継がれる考え方だ。ところが、近代以降の日本語は、明るい、澄んだ音ばかりを選りすぐって教科書言語としての標準語が作られた。〈日本語は代表的な陰性母音を、教科書言語をつくるときから無くしてしまった。…〉近代日本語いわゆる標準語は、教科書言語であり帝国主義言語であり、軍隊の言語であり、その閉鎖性ゆえに日本国内の方言さえも排除していった。金時鐘はは、〈統一言語、教科書言語、そして純血言語としての日本語の、排他性がひそんでいます。〉と言う。
 更に、金時鐘は日本の「詩」や「歌」、演歌にまで批判の目を向ける。
〈軍歌だけではなく、抒情歌といわれるものも含めて、歌というものは批評を持たないんです。〉
 演歌こそ〈戦前回帰の温床だと思いますね。〉
〈演歌というのは、一大思想詩ですよ。人間の情感的な体質を常に旧態依然なものに醸成する、べらぼうな威力を持っている。〉
 圧倒的に美しく懐かしいが、思考というフィルターを排除した演歌や演歌的な叙情歌に危険な匂いを察知する金時鐘の嗅覚は鋭い。演歌は考える力を無にし情緒の海に溺れさせる。

  書かれない小説は存在しませんが、詩は書かれなくても存在する。日常次元で普段の一切に演歌的情感が沁みているから、離れようがない。距離を置くということを思いつかない。

 金時鐘は〈詩とは、行き着くところ、現実認識における革命だと思います。〉と言う。
 私たちは政府の不正に面と向かっても、考えない。考える代わりに演歌を歌う。国会前や大阪や札幌で声を上げる代わりに諦めの歌を歌うのだ。着ては貰えぬセーターを編む、それがファシズムの許容だ。
 本当に詩を言葉にするということは、実存との衝突を怖れず、あるいは怖れながらも、出会い関わり合うことができる人に芽生える言葉を発するということだ。「安保法制反対」「森友・加計疑惑解明」「アベ退陣」というコールに詩がないと言えようか。「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」の句を、さいたま市立三橋公民館が、「公民館だより」への掲載を拒否したのは文学的に意味のある事件だった。
 金時鐘の「解放教育運動の実践」として公立高校で朝鮮語を教えたときの経験も、読み捨てる訳にはいかない一節だ。内容は本書を読んで頂くこととするが、「地下
(じげ)言葉」には考えさせられた。〈番町地区の部落言葉には、丁寧語がありません。彼らはそれを地下言葉と称しますが、親子でもぞんざいな言葉で交わし合います〉。朝鮮(韓国)では子は親にたいして敬語を使うので、金の言う「親子でも」には文化的背景があり、現代日本人を前提にするなら、「他人の関係でも」と言うべきだったかも知れない。兎にも角にも、丁寧語の無い地下言葉も大事だが一般の市民生活にはそぐわないから、〈折り目正しい言葉を学んでいかなくてはならんのや。〉と言う金時鐘の言葉に、在日朝鮮人一世が日本語と向き合うとき、自己に認めさせる「合理性」を感じさせられた。不思議とそこに忸怩たるものを感じ取れなかった。
 一人の人間として生き、羞じ、怒る詩人の本音を垣間見ることができた。日本の内側にいて、日本的情緒に囚われない在日朝鮮人詩人の言葉を、東北生まれの言論人佐高信が刺激的に引き出した好著と言える。
                                                                                                 (集英社新書)

2018年3月12日 (月)

小島剛一『トルコのもう一つの顔』

偉大な民族国家トルコの多様な少数民族言語を歩く

 前回2月17日付けブログで、ムラトハンムンガン編『あるデルスィムの物語』を紹介した際に末尾で〈デルスィムのクルド人が使うザザ語とクルド語の関係は不明だ〉と書いたが、磯部加代子は「訳者まえがき」に、デルスィムの〈人々はクルド語とは別の言語とされているザザ語を話し、宗教的には……アレヴィー教徒が多数を占めてる。〉と書いている。また「訳者あとがき」では、1991年発行の小島剛一著『トルコのもう一つの顔』との出会いが、磯部のトルコへの興味とデルスィムへの関心の起源だったと書いているので、気になってkindle版で読んだ。Photo 『トルコのもう一つの顔』はフランス在住の言語学者小島剛一が17年に渡ってトルコの少数民族言語を踏査した経験を書いたものだ。トルコ語ばかりでなく、トルコの少数民族語やそれぞれの方言についても詳しい。トルコにはクルド人、ザザ人、アラブ人、ラズ人、ギリシャ人、アルメニア人、ヘムシン人、ガガウズ人など70以上の少数民族がいるが、トルコ政府は「トルコ共和国国民はすべてトルコ民族である」と定義しているため、国内の少数民族の存在を認めていない。現在ではトルコ語を母語としない国民の存在を認めてはいるらしいが、少数民族とは認知せず、クルドやザザなどの少数民族の置かれた立場は依然としていると思われ、『あるデルスィムの物語』の「訳者あとがき」を読めば、トゥンジェリと改名されたデルスィムの現実が垣間見られる。ましてや20世紀後半のトルコで調査した小島剛一の活動は陰に陽に妨害される。その都度肩すかしをするようにすり抜けたり親しくなった人々に助けられたりする。これは調査報告書ではない。論文でもない。日本に住んでいると気づきにくい多様な価値観との共鳴と反発の体験を綴った紀行文だ。
 トルコと言えば、日本では親日国として知られ、トルコの人は親切だと言われる。小島剛一も「トルコ人ほど親切な人たちも珍しい」という一章を設けている。その親切な人たちが、少数民族や他宗教徒には、まったく事実ではない強い偏見で対峙している現実を見せられる。〈虫も殺さぬ顔で、「イスラームの敵アレウィー教徒を殺せば天国の門が開く」と言う人にはじめて会ったときには背筋が冷たくなった。〉われわれは井の中の蛙だ。〈知らないものは見えないし、興味のないものは小さく見える〉のだ。木を見て森を見なければ、人間として生きる道を誤るかも知れない。トルコ人だけを責められはしない。〈日本にもアイヌ人の強制同化や日韓併合の歴史がある。〉昨今のヘイトスピーチや嫌韓反中本の氾濫を鑑みれば、これを過去のことだと清算することなどできない。日本語という井戸の中で四角い小さな空しか見たことのない蛙人間としての自己を振り返る契機になるかも知れない。
 「民族」に関しては、日本人はおおざっぱだ。『トルコのもう一つの顔』を読むきっかけになった『あるデルスィムの物語』の副題は「クルド文学短編集」となっているが、デルスィムに住む民族の大半はザザ人でトルコ語ともクルド語とも異なるザザ語を話し、殆どがアレウィー教徒だ。彼らの教義は他の回教徒とは著しく異なる。例えば彼らは葡萄酒を飲むし、回教寺院に行かず礼拝もしない。男女平等を宗とする。つまり小島剛一の論に沿う限りザザ人はクルド人ではない。『あるデルスィムの物語』の副題は「クルド文学短編集」ではなく、「ザザ文学短篇集」か「トルコに於ける被抑圧少数民族文学短篇集」とした方が正確だった。付け足せば、『あるデルスィムの物語』に収められた10編の作者10人の出身民族も不明だ。これは本人にもよくは分からないのかも知れない。『トルコのもう一つの顔』を読めば、「隠れ民族」やら「忘れ民族」という状態もあるらしいので、トルコ政府の強制同化政策が長期に渡っている状態では仕方あるまい。そう考えるとこのような副題を付けること自体が問題を孕んでいるのかも知れない。

2018年2月17日 (土)

あるデルスィムの物語──クルド文学短編集

〈そこ〉にいる人たちの視線に自覚的であれ、と小説は語る
ムラトハンムンガン編 磯部加代子訳『あるデルスィムの物語──クルド文学短編集』さわらび舎

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 山城むつみ「カイセイエ──向井豊昭と鳩沢佐美夫」(『すばる』2018年3月)を読んで「非対称性の暴力」という言葉を学び、直後にクルド文学短篇集と副題の付いた本書『あるデルスィムの物語』を読んだ。「非対称性の暴力」とは山城むつみによると、意識の問題ではなく存在の問題であり、〈個人の意識がどうであろうと、たとえ私が良心的で弱者の味方として善意に満ちあふれていても、《ここ》に私が存在していることがそのまま、加害的、差別的な暴力となる《そこ》が今もなおあるということ〉だ。植民支配・同化政策による先住民や被支配民族の置かれた立場が、まさに非対称性の暴力による支配ということが言えそうだ。それはたんに過去の問題ではない。
 寡聞にしてクルド民族について知ることが殆ど無かった。本書の発行についてもTwitterで古い友人が発信していなければ通り過ぎていただろう。無知な私には、翻訳者磯部加代子の懇切丁寧な解説抜きにここに収められた10篇の短編を理解するのは難しい。
 「訳者まえがき」の助けに依ると、クルド人はチグリス・ユーフラテス川を中心とする地域の先住民族であり、その居住する地域クルディスタンはトルコ、イラク、シリア、イランに分断支配される多国間植民地だ。デルスィムとはトルコに支配されたクルドの地域の一つである。1937-8年に住民虐殺、クルド人の民族浄化=トルコ人化、スンニー化が執行された。その過程でクルド家庭の女児はクルド人の親から引き離されトルコ人将校の家に手伝いや養女として引き取られた。そうした事件を歴史的背景としてこの作品集は編まれた。この本の原文はトルコ語で書かれており、クルド語ではない。そう言った意味では在日朝鮮人文学をさかのぼり、植民地時代の朝鮮人による日本語文学、例えば、張赫宙や金史良、あるいは李光洙などを想起させる。またこの事件について口を閉ざし語らない人々が多く登場するが、済州島四・三事件が長期に渡って語られなかった事実と類似する。
 しかし、作品集中ヤウズ・エキンジ「祖父の勲章」で新聞報道されているように、現在のトルコでは考古学の発掘のように自国歴史の輝かしき歴史が汚辱にまみれたものであることが、いくらかは知られるようになっているらしい。主人公の祖父はデルスィムの虐殺者の一人である。
〈僕は、写真の下の記事を読んだ。首相が公式に謝罪し、記録が公開されたと記事は伝えていた。その「デルスィム作戦」において、洞窟の中の人間が生きたまま焼かれたことや、殺された死体はムンズル川に流されたこと、男たちが集められいっぺんに串刺しにされ、親を失い孤児となった小さな女の子たちは、将校たちのお手伝いとして引き取られたと書かれていた。僕は体の毛が逆立つのを感じた。〉
 主人公は叙勲された祖父の歴史、民族の栄光の歴史の血塗られた事実に目を向ける。
 収録された幾つかの作品は慈悲深いトルコ将校の家に貰われた女児の物語だ。ヤルチュン・トスン「カラスの慈悲心」では、私がなついているエスマー・カルファは将校の家の女中のようだ。私はカラスがたくさん出てくる夢を見る。夢の中で私は子どもを背負っている。記憶の物語は語られない。訳者解題によると、〈この物語の背景には、おびただしい数の「養女となった女児の物語」がある。〉デルスィムでの被害女児を貰い受けた軍人がどんなに優しい人間であったとしても、そこには非対称性の暴力が横たわっている。
 ジェミル・カヴクチェ「ムニラおばさんのお伽話」では、司令官の家に連れ去られたファトマは「今後クルド語を話したらお前を焼き殺す!」と言われて以来クルド語を話さなくなった。デルスィムから連れ去られた女児は同化させるために母語を奪われている。
 カリン・カラカシュル「サビハ」で、孤児院の子どもを養女としたのはトルコ建国の英雄ムスタファ・ケマルだ。その娘サビハ・ギョクチュンは世界初の女性パイロットで、デルスィム作戦に参加して名を上げたが、実はアルメニア人だったらしい。正義のために、父のためにデルスィムを空爆する女性パイロットの姿は前向きで栄光に満ちているかに見えるが、殺し殺される凄惨な流血の記憶を奥深く隠している。
 虐殺の過去を背負った人間を描いた作品もいくつか見られる。ここには非対称性暴力の自覚の芽生えが見られる。そこには微かな希望がある。ベフチェット・チェリッキ「ロリ… ロリ…」は被害者と加害者の遭遇がモチーフだが、加害者が加害の意識を持っていなければ、この遭遇はあり得ない。しかもこの遭遇は語られることがない。加害者の孫は被害者彼女と同じ言葉でありながら内に秘められた意味が違うと感じる。アイフェル・トゥンチェ「重荷」で、テレビクルーの取材を受けた老いたネイイレ夫人は、デルスィム事件で勲章を授与された英雄である父の真実を話してしまう。母は妊娠した女性や赤ん坊まで殺した所行を懼れ、夫の銃で自殺していたのだ。
 故郷から離れた地で、母語のかすかな音に魅かれることもある。ブルハン・ソンメズ「先史時代の犬ども」の舞台は英国だ。自殺未遂を繰り返すイェスマはトルコ語とデルスィムのクルド人が使うザザ語混じりに、父を殺され母をレイプされた事件について語る。〈三世代にわたり続く暴力とは、一体何なのか。それは、非トルコ人に対する同化政策というトルコ共和国における未完の暴力である。今なお、故郷を追われた者たちの尽きぬ望郷の念、凄惨な流血の記憶、複雑なアイデンティティといった、数えきれない痛みを生み出し続けている。〉(訳者解題)
 ギョヌル・クヴルジュム「禁じられた故郷」は作品中で最も詩情豊かに悲しみを湛えた作品だ。二人のよそ者でありマイノリティーである男女の出会いは、これもデルスィムを巡る凄惨な歴史を踏みしめていく運命だ。井戸に向かって囁かれた言葉は、井戸の奥深くで広がって行く。難解な作品群のなかにあっても最も読解しがたい作品だ。
 馴染みの無いクルドの文学というだけではなく、今以て沈黙で語らなければならないデルスィムの後裔たちを解読するためには相当な努力と想像力を必要とする。「訳者まえがき」「訳者解題」は適切で読者を助けてくれる。更にエッセイ風の「訳者あとがき」が、日本とトルコ、トルコとデルスィム、といった相関関係をあぶり出してくれる。
 『あるデルスィムの物語』は、トルコにおいてはデルスィム虐殺の事実を認めクルドの人々の視線を受け止めることを求めるのだろう。また文学という普遍において、先住民アイヌの視線、朝鮮人「従軍慰安婦」の視線を受け止めること、重慶爆撃や南京虐殺、731部隊の生体実験の歴史的事実を受け止めることを要求するだろう。
 なお、本書はトルコ語による小説で、磯部加代子によれば〈クルド人と自認する作家たちが作品を書く際に選ぶ言語は、ほとんどの場合トルコ語である。〉とのことだが、アラビア語、ペルシャ語及びクルド語で書かれたクルド文学もあれば日本語訳にも期待したい。デルスィムのクルド人が使うザザ語とクルド語の関係は不明だが、ザザ語による文学があるのだろうか。在日クルド人による日本語文学の可能性にも期待したい。

翻訳者がトルコに関心を持つきっかけになった関連書籍に、小島剛一著『トルコもう一つの顔』(中公新書)がある。
http://kghayashi.cocolog-nifty.com/blog/2018/03/post-4122.html

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2018年1月 8日 (月)

金石範「海の底から」

歴史人間はどう向き合うか

 在日朝鮮人作家金石範は、昨年(1917年)9月、韓国で第1回李浩哲(イ・ホチョル)統一路文学賞を受賞した。ソウル市恩平区が南北分断の不条理を描いて昨年死去した作家李浩哲にちなんで、世界の作家を対象に創設した賞だ。金石範は2015年『火山島』韓国語版が出版されるとすぐに、第1回済州四・三平和賞を受賞している。長編『火山島』の執筆によって「四・三」」の真実を国際社会に知らしめる契機を作るとともに、イデオロギーを超えた普遍的な人間の価値を描き出したことが認められたのだった。
 今回の李浩哲統一路文学賞受賞に伴う訪韓の様子は、『世界』12月号と1月号に掲載された。そのため連載中の「海の底から」は休載となった。「海の底から」は、完結した長編『火山島』を引き継いでいる。拷問のため満身創痍で済州島から逃れて日本に戻った朝鮮人南承之(ナ・スンジ)が主人公だ。済州島では1948年に朝鮮半島の南だけでの単独選挙、単独政府樹立に反対する武装抗争が始まり、ゲリラ化した闘争はアメリカと李承晩政権による大規模な討伐と島民大虐殺によって鎮圧された。その過程は、南承之の兄貴分的な存在であるニヒリスト李芳根(イ・バングン)を主人公とした『火山島』の背景として描かれた。南承之らを日本に逃がした李芳根は、裏切り者柳達鉉(ユ・ダルヒョン)と対決し死へと追い詰め、母方の縁戚で警察警務係長の鄭世容(チョン・セヨン)を殺した後、自らの命を絶った。
 実は「海の底から」より前に『火山島』の結末を引き継ぐものとして書かれたのは『地底の太陽』(2006年11月、集英社)だった。済州島四・三蜂起に敗れた南承之の物語は戦後日本を舞台に再開された。南承之は豚になって生き残る。日本に逃れて、逃れたという負い目を恥じながら生きる。李芳根の死を知った南承之は李芳根の自殺について考え続けている。
 「海の底から」の連載は1950年6月19日、李芳根の一周忌から始まる。南承之は李芳根の妹李有媛(イ・ユオォン)を思いながら神戸でゴム工場を営む従兄の家で厄介になり、大阪と行き来している。南承之は有媛を思い慕われながら、別の女性と関係を持ってしまった現実から逃げようと思い悩む。小説は日本を舞台に南承之という在日朝鮮人を通して人間の存在意味を問い糺す。それも現代史のダイナミズムのなかに意志と責任を翻弄されながら揺れる存在意味だ。
2018_02 11月号の連載第12回の末尾でようやく1950年6月25日、つまり朝鮮戦争勃発の日となる。2号休載して2月号掲載の第13回では、南承之も〈北朝鮮軍が南侵、南北の戦闘が起こったという衝撃的なニュースを〉知る。朝鮮戦争は戦後東アジア史の大きな転換点だ。朝鮮戦争は、不幸にも日本の戦後復興・高度成長の契機にもなった。金石範の連載は、今後朝鮮半島と日本を横断しながら、より日本そして在日する朝鮮に足場を置きながら進むに違いない。南承之の煩悶する姿には、戦後日本の歴史が色濃く反射される。それも済州島との切っても切れない絡み合った蔓のような関係を手繰りながら進むのだろう。個人が歴史とどう向き合うのか問い続ける、それが金石範文学だ。
   *  *  *
 「海の底から」では、済州島で墓を祀ることを許されない李芳根のために碑が建てられるそうだが、おそらく李芳根の名は刻まれないのだろう。16世紀の詩人林悌(イジェ)が黄眞伊(ファンジニ)の墓に捧げた詩が刻まれる、と聞いた。儒教的身分社会である朝鮮時代に身分ある士大夫が、下賤な妓生(キセン)の墓に盃を捧げ詩を読むなどあってはならないことだ。しかし文学とは社会的規範の枠を壊してこそだ。金石範文学しかり。「海の底から」の今後が楽しみだ。

청초(靑草) 우거진 골에 자난다 누웠난다.
홍안(紅顔)을 어디 두고 백골(白骨)만 묻혔난다.
잔(盞) 잡아 권할 이 없으니 그를 슬퍼하노라.

  *  *   *

 1918年5月号に発表された連載を見ると実際には、林悌の詩ではなく黄眞伊の詩を文蘭雪が揮毫して小ぶりな大理石に刻んだものが建てられました。

 

2017年12月 4日 (月)

吉川 良『セ・パ さようならプロ野球』 同成社

階級対立ならぬセ・パ構造から世界を読み解く

Photo パク・ミンギュ『三美スーパースターズ最後のファンクラブ』を読んで思い出したのがこの古い小説。奥付を確認すると1983年12月15日刊。「おしん」の放送された年に『新日本文学』に連載され、すぐに書き足して同成社から出版された。
 47歳の佐々木敏男は、長年勤めた中小企業が吸収合併されるのに腹を立てて退職、妻子とも別れ、運送屋で働いていたが、酒場で知り合った子持ち女記代のアパートに住みついてしまった。そこが川崎だ。仕事も辞めて家事をやる代わりに小遣いを貰っていた。記代の息子正人の同級生には「ヒモ」と陰口を言われる。敏男の唯一の趣味がスポーツ新聞のロッテの記事を切り抜いてスクラップブックに貼り付けることだ。ロッテと言っても現在の千葉ロッテマリーンズではない。川崎に本拠地を置くロッテオリオンズだ。落合、有藤、村田兆治ら有力選手を抱えてはいたが人気は無く、新聞記事も少ない。観客動員数は巨人の5分の1強だった。川崎球場は閑散としていて、ヤジも覇気の無い自チームの選手に対するものが多い。
 この小説、連載が現実と同時代の1983年で、この年、ロッテオリオンズの成績はパシフィックで43勝76敗11分、勝率361でリーグ6位だ。ドラフトにおける新人選手の希望は「在京セ」が主流、パリーグには日が当たらず、その中でチーム改革に力を入れた広岡監督率いる西武ライオンズは明るいほうだったが、ロッテは完全に日陰の身の上だった。
「なんとなく俺にそっくりなんだな。俺はどうみてもセ・リーグじゃないし、チームでいえばロッテだ。…」
 〈俺はセじゃないんだ。パなんだ。セになろうとするのをやめたんだ。〉という敏男の捨て鉢な思考は自虐的にも見えるが、実のところそれだけとも言えす、周縁に対する情に満ちていた。作者の情は韓国に行った広島の福士(張明夫)や台湾出身の三宅宗源にも及ぶ。張明夫は三美スーパースターズで活躍し、パク・ミンギュの小説にも出てくる。敏男がもっとも気にしている選手はまだ二軍にも上がれないテスト生で打撃投手佐藤文彦だ。勝ち馬に乗らない。吉川良の美学が窺える。「日本の国は、巨人が勝っていた方がいいんですよ。いろんな職場で仕事が気分よくはかどる」という世間の声の方が、負け犬根性に思えてくる。
 階級対立ならぬセ・パ構造から世界を読み解くと言っても今は昔だが、〈成功した人間にしか心を許さなくなっているような時代の流れ〉は今も続いていて、しかも現在は成功者二世・三世の時代だ。親のコネで出世した政治家が政治を弄び、コネ入社の無能な上司が東大出の新人社員を苛め殺す。ジャーナリストは政治家に媚びを売ってオコボレを拾い、犯罪さえ隠蔽される。
 吉川良(よしかわ まこと)は1937年生まれだから2017年現在80歳、競馬新聞などにコラムを書く競馬作家だ。しかし元々は純文学作家だった。1978年『自分の戦場』ですばる文学賞受賞後、三度芥川賞候補に上がった。吉川の小説は、『セ・パ』の前年までは集英社で発行されていた。『セ・パ』は商業文芸誌に掲載される内容ではない。野球選手から芸能人までほぼ実名で半ばやっかみ半分で腐されている。ディテールの描写は見事だが、小説としては事実に依拠した表現が多すぎる。純文学作家としての成功よりも書きたいことを書いた感が強い。
 『セ・パ』を出版した同成社は、今は違うが当時は『現代韓国詩人選』『現代韓国小説選』シリーズなどや張斗植、成允植ら在日一世作家の作品を出版する出版社だった。当時としては価値あるマイナーな版元だった。村松武司の詩集も出していた。
 『セ・パ』の後、吉川良は商業文芸誌には戻らない。PHPや競馬新聞には大いに書いた。1999年には『血と知と地』で JRA賞馬事文化賞、ミズノスポーツライター賞優秀賞という、およそ芥川賞からは距離のある栄光を手にしている。
 パク・ミンギュはプロ野球をモチーフとした小説でプロ作家としてデビューしたが、吉川良は同じようにダメな野球チームに寄り添った『セ・パ』で商業文壇から離れて行った。

 仕事をしたい、と敏男はふと思った。しかし仕事につけば、こんな気ままな時間はなくなってしまう。いずれ自由を明け渡さなければならない時がやってくるのだ。その時になってふりかえれば、おそらくこの寒いスタンドに坐っていた自分を、ステージでライトを浴びている役者のような、かがやいた時間として思いだすにちがいない。

 退屈な時間こそ大事だ。人に合わせて働きに働いて人間と言えようか。吉川良は現在インターネット上のJBBA NEWSに「烏森発牧場行き」 http://enjoy.jbis.or.jp/column/yoshikawa/を連載中である。

2017年11月30日 (木)

姜英淑『ライティングクラブ』現代企画室

ダサい町内会のクズな文学サークル

Photo 若き日から文学好きで文学学校や幾つかの読書会、文芸同人誌などに参加してきて、様々な個性の知古を得た。そこそこ名を残した人もいたし、そうでもない人も大勢いた。『ライティングクラブ』という書名を見た時、浦和にあった私営の市民文化センターに借りた埼玉文学学校の教室を思い浮かべた。文学学校の今は健全な集まりだが、以前は二次会の飲み会で独りよがりな議論をぶつけ合うための一次会的な存在だった。二次会にしか参加しない者もいた。それに比べ、イ・チャンドン監督作品「詩」(日本語版タイトル「アグネスの詩」)で主人公のミジャが通った詩の教室は健全だった。では韓国の小説『ライティングクラブ』の教室はどんなものか。
 主人公の母親が始めた綴り方教室は、ソウルの下町に借りた小さな部屋だ。母娘はここで貧しく暮らした。鍾路(ジョンノ)区桂洞(ケドン)は今は人気の観光地だが、その頃は「ダサい桂洞」だった。娘は母親にたいして侮蔑を込めて「キム作家」と呼んでいた。キム作家は無名の雑誌にエッセイ一つ発表しただけの自称作家に過ぎなかったが、「ダサい桂洞」に間借りした部屋で綴り方教室を始めたのだ。最初は子ども相手の作文教室だったのが、だんだん大人も集まる町内会の文学学校のようになる。彼らは酒を飲み、一人前の小説家や詩人のように振る舞って騒ぎ文集まで出す。町内会に文学サークルができるってのは一寸凄い。
 その間に主人公である娘にも色々ある。普通でも思春期だ。ましてや、母親が18歳のときに産み、中学2年生まで田舎の友人に預けられていた娘だ。おとなしい順調な学校生活は望むべくもない。母が文章教室以外に職場を持たないから貧しい。娘も読んだり書いたりすることが大好きなのだったが大学には行けない。自分の食い扶持を得るために高校を卒業したら働く。働き続けて社会に対する疑問を強くする。
 娘はキム作家ではなく本物の小説家に自分の書いた小説を読んで貰う。J作家はなかなか真実のある指導をする。「…人が小説を面白がるのは、きっと小説が人間の生き様に一番似ているからよ。違う?」「あなたの原稿には主義主張しかない。言葉だけなのよ。そんなふうに書いて人を楽しませることができる? あなたの考えを知りたがっている人がいると思う? …」「…でも簡単明瞭な描写の裏に必ず作家の思考、作家の判断が表れていなくてはいけないの。…」
 文学作品を書くことを学んだ者ならば一度は言われたことがあるような議論だが、これは真実であり、しかも書く側にとっては困難な真実だ。
 この母娘に家族はない。韓国の小説には珍しく根っこが描かれない。娘には母しか無いとしても母には母と父や家族があってもいい。娘の友だちには家族があるが、ほぼ崩壊している。姜英淑(カンヨンスの家族観は現代日本に似て政治史が見にくい。
 娘はダサい桂洞から離れてニュージャージーのネイルサロンで働くが、読むことも書くことも止めなかった。そしてここでライティングクラブを始める。集まってきた人々との関係は「書くことを愛する桂洞女性の会」と相似している。
 この小説、最後に大どんでん返しがあるのでストーリーは紹介できない。が、娘が「まったく、こんなクズども見たこともない!」と心で罵った、文才のたいしたことない庶民の姿が微笑ましくなってくる。
 地図を見ながら舞台になったそこここを歩くのも一興だと思うので、これからソウル行の予定を立てる文学好きの方にはお薦めします。

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2017年11月23日 (木)

パク・ミンギュ『三美スーパースターズ最後のファンクラブ』晶文社

「打ちにくいボールは打たない、捕りにくいボールは捕らない」

Photo 『三美スーパースターズ最後のファンクラブ』を読んで、自分の人生を振り返り、良かったかもと思う人にはアタリだ。勝ち組の本ではないからだ。テレビに頻出する何やってるのか分からない「セレブ」のファンたちには難しいかも知れない。
 冒頭から3分の1くらいは冗長だ。100頁ほどで諦めた読者もいるのではなかろうか。韓国仁川の中学生が地元にできたプロ野球チームを応援する話なのだが、韓国野球に興味を持っている日本語読者は少ないだろう。わたしはたまたまだが、1983年に韓国でプロ野球を見に行ったことがある。良く覚えていないが、多分、東大門野球場でMBC青龍 対 OBベアーズの試合だったような気がする。応援するチームではないし、知らない選手ばかりだったので面白い訳がない。
 そもそも日本のプロ野球さえそれほど興味がなかった。それまでに球場に見に行ったのは2回だ。小学生のとき読売巨人軍対東映フライヤーズの二軍の試合を見に行った。ぼくたちは、守備についた巨人の選手に「ホリウチガンバレー」と叫んだ。その選手は「ガキは黙って見てろー!」と怒鳴り返してきた。二軍に落とされ、ピッチャーも外されて外野に回された若者の屈折した感情を、今は理解しようと思うが、それ以来巨人は嫌いだ。
 次は1978年10月4日、友だちに誘われ、ヤクルトスワローズ対中日ドラゴンズ戦を神宮球場に観に行った。この試合でヤクルトは創立29年目で初のリーグ優勝を決めたのだが、外野まで殆どがヤクルトファンの中、ただ一人中日ファンのおじさんが、「中日ガンバレー、来年があるー!」と声を張り上げていた。それなのに外野を守っていた中日の選手に「やかましいー、黙って見てろー!」と怒鳴られていた。その前も後も、中日ドラゴンズに興味を持ったことがない。
 そんなわけで野球選手に親しみを感じたことは殆ど無いが、東北楽天ゴールデンイーグルスが田中将大投手の八面六臂の活躍で優勝するまでは、東北を心の中で応援していた。2004年6月に近鉄バファローズが事実上オリックス・ブルーウェーブに吸収合併され「オリックス・バファローズ」が創設された際に、選手を新規球団「東北楽天ゴールデンイーグルス」と振り分けたのだが、オリックスが先に指名し残りを楽天が貰うという分配ドラフトが行われた。このとき元近鉄の投手岩隈久志はオリックスの指名をが断固拒否した。こういうのをカッコイイと言う。それが理由だ。(今はいちおう埼玉つながりで埼玉西武ライオンズをそっと応援している。)
 『三美スーパースターズ最後のファンクラブ』の主人公たちが野球チームを応援したのは、現実とは違う夢を野球チームに仮託したに違いない。人々は自分の人生を生きることができない。だから人々はその人生をスポーツ選手に「仮託」している。しかしスーパースターズは弱かった。それが良かった。資本主義社会で断片化した人生を「プロ」として生きる幻想を彼ら三美スーパースターズのファンたちは前もって喪失していた。
 これは生き方の小説だ。人生観の小説だ。必死こいて勝ち続ける生き方より、長く退屈な昼と夜を過ごす生き方を読者に指し示している。そうは言っても「そんなわけにはいくかい」と読者は思う。実は作者も思っているに違いない。主人公は家庭の事情もろもろで、一度は一流大学を出てプロのサラリーマンとして生きる道を選ぶ。しかし現実は更に厳しい。電通でパワハラにあって自殺に追い込まれた東大卒女子社員を連想したが、主人公はリストラされる。死ぬ前にクビになって良かった。
 作者の心情が揺らぐので文体も揺れている。無駄も多いし、ちゃちな表現も多々観られる。〈ジャージャー麺には、過去を思い起こさせる不思議な力があった。〉なんていう台詞は『失われた時を求めて』のパロディーなのだろうが、手垢のついた通俗性に満ちている。こういう通俗ぶった表現も多々ある。僕とソンフンは李長鎬監督イ・ボヒ主演のピンク映画「膝と膝の間」を観られなかった。多分残念ではなかったと思う。同じ李長鎬監督イ・ボヒ主演作品なら「馬鹿宣言」の抽象性の方がパク・ミンギュには近しいだろう。ペ・チャンホ監督の「鯨取り」の価値観にはもっと共鳴したに違いない。「膝と膝の間」の低俗には映画史的意味があるのだ。パク・ミンギュはわざわざ低俗趣味を装っている。たまに美しく洗練されたことばが、照れてふざけた説明文の中に入り混じっている。
 この小説は独特のようで、そうでもない。主人公たちが高校生である部分は、懐かしい庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』などに似ている。19歳で出会った彼女との関係は李龍徳の『死にたくなったら電話して』を想起させた。あっさりと書き捨てているのだが、突っ込んで書き進めたら怖い小説になったかも知れない。
 しかし一番似ているのはパク・ミンギュ自身が後に書いた『ピンポン』だろう。僕とソンフンのキャッチボールや、最後のファンクラブとプロ・オールスターズとの試合の場面などは、場面自体が『ピンポン』に引き継がれている。『三美スーパースターズ』の安ぽいメタファーは『ピンポン』ではより巧妙に描かれる。『ピンポン』の習作だったんじゃないかと思わせるほどだ。
 「打ちにくいボールは打たない、捕りにくいボールは捕らない」そんな人生観で生きて行けたら楽だろうな。「一割二分五厘の勝率で生きてきた。」なんて成功した作家が語ったんだったら嫌な奴だが、成功する前に書いたデビュー作だから許してやる。

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2017年11月 7日 (火)

國分功一郎/山崎亮『僕らの社会主義』ちくま新書

政治と芸術を喜びとの関係から考える

Photo 『僕らの社会主義』は、2017度最も注目された哲学書『中動態の世界 意志と責任の考古学』(2017年、医学書院)の著者國分功一郎と、コミュニティーデザインで社会を変えようと「活動」する山崎亮の対談をまとめた本だ。
 『僕らの社会主義』という、どこか島田雅彦の「優しいサヨク」を彷彿させるが、もっとダサくて刺激的な、ほぼ売れそうにないタイトルに騙されてはいけない。旧社会党の復活を祈念した本ではない。社会民主党や共産党を支持するための本でもなさそうだ。
 社会主義=ボルシェビズムという定式に対するアンチテーゼとして出版されたと読んだら、大袈裟だろうか。二人は19世紀イギリス社会主義の父と呼ばれたロバート・オウエンに始まる独特の社会主義思想の流れに注目していた。オウエンやトマス・カーライルからウィリアム・モリスに至る社会主義の流れを再検討したのだ。そこにはプロレアリア独裁を目指した革命政党のものとは異なる思想の潮流があった。モリスが考えたのは、革命ではなく革命後の貧しい平等では更になく、「楽しく働いた結果としての美しい製品に囲まれた生活」だった。モリスの考えは柳宗悦らの民芸運動にも影響を与えた。
 19世紀イギリスの思想潮流から学んだ対談『僕らの社会主義』は「社会の新しいあり方」について考える本なのだ。國分と山崎は人々の生活を豊かにするための「活動」を提唱する。ハンナ・アーレントが『人間の条件』で示した人間の行為「労働」「仕事」「活動」の三つのうちで最も重きを置いた「活動」に倣っている。
 山崎は「楽しさ自給率」という言葉を使う。自分たちで楽しみを生み出す力を高めていくこと。〈みんなスマホでゲームばかりやっている。地域で楽しさが自給できていない状況は、ちょっと寂しいなと思います。地域にある山・河・海・友達・伝統工芸などといった豊かな資源を駆使し、自分たちの力で楽しみを生み出していく。〉楽しさを自分で生み出す力を手に入れれば、物をたくさん持っているかどうかとは別に、人生を楽しくすることができるようになるのではないかと考える。TVマスコミが賞賛する「金持ち」の贅を尽くした裕福な暮らしが愚かしく思えてくる。
 國分は、〈楽しさには革命的な意味がある。社会革命において楽しさというのは非常に重要な要素ですね。〉〈生存することと生きることは同じではない。人は生きていくためにバラを必要とします。つまり尊厳を必要とします。それが徹底的に貶められているのがいまの社会なんですね。〉と語る。
 人間は食うだけでは生きていけない。教養を身に付け、美しさを愛で、芸術に喜びを感じ、楽しい人生を送らなければならない。山崎は豊かな生活の条件として「言葉の復権」を提示する。現代は〈コミュニケーションは過剰だけれども、人が言語を使わなくなっている〉。人と人が話をして繋がっていく、対話して仲間を作り活動することが大事だ。「コミュニティーデザイン」とは地域計画に市民が物申すことであり、地域の人たちとともに公共建築のデザインを考え、更に地域の活動や事業に参加していこうという多層的な活動を言わなければならない。
 山崎は大学教員でありながら、この本の制作過程で社会福祉の勉強をし、社会福祉士の資格を得た。社会福祉を通じて、活動を楽しむ人と能動的に振る舞えない人ともつなげていく、そんな活動を目指して実践している。
〈政府が目指しているのは、どうしたら株価を上げられるかということと、どうしたら国民の社会保障や教育にお金を使わずにすむかということです。〉そんなところから幸せなど作り出せる訳がない。『僕らの社会主義』は、政治と芸術を喜びとの関係から考え、社会主義思想の流れから有益な要素を取り入れようという意欲的な対談だった。
 それにしても、 ハン・ガン『ギリシャ語の時間』を読んでいなければ、おそらく『中動態の世界』を読んでいなかったろうし、『僕らの社会主義』にも辿り着かなかったと思う。この本で覚えたコミュニティーデザインという言葉もしばらくは知らないままだったに違いない。読書は連続して広がっていく。一冊では完結しない。だから次々と楽しさが湧いてくる。これをブログに上げるのも楽しいし、文学学校や読書会などの集まりで紹介するのもまた楽しい。これもアーレントの言う「活動action」であるに違いない。

2017年10月30日 (月)

ハン・ガン『ギリシャ語の時間』(晶文社)

静寂の中にとしての言葉は存立しうるか

Photo 男はカルチャースクールのギリシャ語講師、女は受講生だ。ギリシャ語といっても古典ギリシャ語だ。
 男は14歳で韓国を離れドイツで17年間を過ごした。将来の失明が宣告されていた男は家族の暮らすドイツから離れ、一人で母国語が話せる場所に帰った。ドイツで学んだギリシャ哲学の学位など韓国では役に立たなかったが、カルチャースクールで古典ギリシャ語の初級とプラトンの原書講読を教えていた。男は自分の人生と言語と文化は真っ二つに割れてしまっている、と考えている。男は度のきつい眼鏡をかけてはいたが、それでもよく見えなかった。日が暮れると急激に視力が落ちる。
 女は去年の晩春まで大学と芸術高校で文学を教えていた。黒板に向かったまま「あれ」がきた。原因はない。女は幼い頃から賢く、三歳のときに自分一人でハングルを身につけた。彼女は賢かったが成績は特別ではなく目立たない学生だった。〈彼女は空間を占有することが嫌だったのだ。〉〈彼女は自分の存在を遠くまで広げたくなかった。〉16歳の冬に「あれ」が来た。〈彼女はもはや言語で考えることをしなかった。言語なしで動き、言語なしで理解した。〉
 女は高校でフランス語を選択することによって、ふと言葉を取り戻した。学校を卒業し、働き、結婚して子どもを産んだ。しかし女は離婚して子どもも夫に連れて行かれた。女は20年ぶりに言葉を失った。言葉を失った女を襲ったのは死後のような静寂だった。20年前、よそよそしい外国語によって沈黙を打ち破った女は、こんどは自分の意志で言語を取り戻すために古典ギリシャ語の教室に通った。が、彼女は授業中に話しかけられてもまったく話さない。
 この小説の男は視力を失いつつあり、女は言葉を失い言語で考えない。──女の意志はどこにあるのだろうか?
 彼女は見るだけで、見たものの一切を言語に翻訳しない。──そんな状態で思考できるのだろうか?
 女は彼女の持つ言語では言い表せない世界を表現する言葉を獲得したいと願っている。

 数えきれない舌によって、また数えきれないペンによって何千年もの間、ぼろぼろになるまで酷使されてきた言語というもの。彼女自身もまた舌とペンによって酷使し続けてきた、言語というもの。一つの文章を書きはじめようとするたびに、古い心臓を彼女は感じる。ぼろぼろの、つぎをあてられ、繕われ、干からびた、無表情な心臓。そうであればあるほどいっそう力をこめて、言葉たちを強く握りしめてきたのだった。

 この美しい小説を読み解く鍵になる言葉は「中動態」だ。ギリシャ語講師である男は言う。〈古典ギリシャ語には受動態でも能動態でもない第三の態がある〉〈私たちが中動態と呼んでいるこの態は、主語に再帰的に影響を及ぼす行為を表します。〉
 國分功一郎『中動態の世界 
意志と責任の考古学(2017年、医学書院)は、小林秀雄賞を受賞して話題になったので読んだ人も少なくないと思う。翻訳した斎藤真理子の適切な「訳者あとがき」でも紹介されている。現代人が「能動態」と「受動態」の対立として描いているパースペクティヴの外側に「中動態」があり、かつては能動態と中動態が対立していたと言う。行為とは、能動のようでも必ずしも意志的でなく、受動のようでありながら意志的な側面を合わせ持つ。國分はアリストテレスやプラトンを中動態の理解の上で読み、ハンナ・アーレントの哲学解釈にまで至らせる。
 カズオ・イシグロの小説がそうであるように人間の行為は、個人の意志を超えて推移する。責任はどこのあるのか判然としない
(もちろん政治的には、その段階毎に法によって指示される社会規範は必須だ)。『ギリシャ語の時間』の二人の主人公は視力を失い、また言葉を失っている。彼らは思うように行為できない。大きく制約を受けている。だからといって意志的でないとも言えないし選択的人生を歩んでいないとも言えない。人は理解しているようで理解しない。和解を目指して和解しない。だからといって視力を失いつつある男と、言葉を失った女に表象されるものが不幸とは言えない。むしろそこには何ものか光がさしているとも言えるのではないだろうか。

   完全に自由になれないということは、完全に強制された状態にも陥らないということである。中動態の世界を生きるとはおそらくそういうことだ。
                        (國分功一郎『中動態の世界』)

 作者ハン・ガンは1970年生まれ。『菜食主義者』で2016年マン・ブッカー国際賞を受賞。日本語訳は他に『少年が来る』がある。

*國分功一郎と山崎亮の共著『僕らの社会主義』についても記事あります。

2017年10月12日 (木)

キム・ハギ『完全なる再会』(1993年、影書房)

同調圧力と「長いものには巻かれろ」

Photo_2 10月11日夕刻、沖縄東村高江の民間の牧草地に米軍普天間飛行場所属のCH53大型ヘリコプターが墜落炎上した。CH53は2004年にも沖縄国際大の建物に墜落する事故を起こしている。またオスプレイも昨年12月に名護市の浅瀬に墜落大破するなど米軍機による事故が続出している。
 辺見庸と目取真俊の対談『沖縄と国家』
(2017年、角川新書)で作家目取真俊は尋常ならざる怒りを表出している。目取真は、沖縄辺野古基地反対運動に体をはっている。現場で警察や右翼の暴力に晒されながら闘ってこそ本物で、机上やインターネットでの上品な運動なんかニセモノだと怒鳴りたいのに違いない。
 民主主義は多大な犠牲の上に獲得される。キム・ハギの中短篇集『完全なる再会』は民主主義の土台となった人々の物語だ。収録された作品の登場人物の殆どは獄中の人々とその家族等だ。
 作者キム・ハギは1958年生まれ。1980年に逮捕され、過酷な取り調べを受けた後釈放され、軍隊に強制徴集されたが、歩哨に立っている夜に逃亡した。一週間後に逮捕され、1982年に特別舎棟に収監された。キム・ハギはそこで長期服役囚たちに出会う。長期服役囚というのは朝鮮戦争以前のパルチザン経験者や、その後北朝鮮から越南して捕まったスパイも含まれる政治囚たちだ。
 キム・ハギは1988年に釈放されるとすぐに創作活動を始め、1989年『創作と批評』に発表した「生きている墓」で第一回林秀卿統一文学賞を受賞した。「生きている墓」は非転向の政治犯長期囚たちが収容されている特別舎棟の日常を描いている。彼ら政治犯は、一切の私語が許されない特舎でモールス信号を使って連絡しあい、看守やその手先として暴力を振るう「もち棒」と呼ばれる凶悪犯らと果敢に闘っている。彼らは当然収監前の拷問で身体を痛めているが、もち棒たちによって更なる暴力を見舞われる。
 登場する囚人たちは実際の長期囚たちをモデルとしている。例えば、1961年朴正煕の軍事クーデター後の韓国に、軍の主要実権者の一人となった実の叔父を説得するために北から越南した「崔海鍾
(チェ・ヘジョン)」は実在した長期囚「崔夏鍾(チェ・ハジョン)」さんだ。崔夏鍾さんは徐勝(ソ・スン)『獄中十九年』(岩波新書)にも出てくる。
 「生きている墓」の他、「完全なる再会」「初雪が降る日」「根を下ろす」などは特舎内の長期政治囚たちとその背景を描き、同時に信念を持っていないのに特舎に入れられた主人公のある種の覚醒をも表出している。
 例えば、「初雪が降る日」では、無知ゆえに逮捕された李元基
(イ・ウォンギ)は非転向長期囚が収監される特舎に入れられてしまう。初めはアカを嫌っていた元基だが、同郷の李相雨(イ・サンウ)老人と話しているうちに、真実に目覚めていき断食闘争に参加するまでになる。
 「根を下ろす」の主人公金斗赫
(キ・ドゥヒョク)は学生運動の首謀者だったが彼女と別れて厭世的になっている。彼は裏切った仲間や世間に絶望し、特赦の静かな空間で平安を味わっていたが、腰の曲がった非転向長期囚朴仲麟(パ・チュンニン)の奇行に惹かれ言葉を交わしていくうちに闘う希望を感じ始める。
 特舎には、日本帝国主義と闘ったパルチザンから連綿と繋がったきて、今なお隔離され押し込まれた空間で自由と民主主義のためにあらゆる暴力に耐えながら非転向を貫く人々の歴史が生きていた。信念は、時には家族をも犠牲にする。常に後悔と挫折が繰り返される。
 彼らは〈牛の毛よりも多い日々を信念と悔恨、終わりのない挫折と希望の中で支えあってきた同志たちであった。〉(「ある囚人のいい朝」)
 「労役場」の舞台は特舎ではなく一般の懲役囚が働く現場だ。主人公の金英培
(キ・ヨンベ)は、アカと間違われて捕らえられ、男根に電極を突っ込まれる拷問を受け、苦しみから逃れるため嘘の自供をしてしまった。自供させてしまった以上、人違いと分かっても釈放できなくなってしまい、英培は懲役刑に処せられる。
 印刷工場で働くことになった英培だったが、そこでは政治囚と一般の犯罪囚が徐々に対立していき、権力への媚びと金と暴力で支配された社会が形成されていった。
 労役場は、一見、すべてが平等で自給自足の経済体制のように見えるが、資本の法則が徹底的に貫かれている。看守と在所者というふたつの階級があり、看守は暴力で支配し奪い、囚人たちは圧倒的に多数であるにもかかわらず、踏みつけられ、括られて、どうすることもできない。その上、凶暴な殺人犯らの収奪が許されている。アカを憎んでいた英培だったが、刑務所暮らしのなかで知りあった千老人に深く影響されていく。

  千老人は、真実は知識があって偉そうにしている少数にあるのではなく、貧しくて無学で騒々しい多数にあると言っていた。収奪する者ではなく、収奪されている者にあるのであって、監禁する者じゃなくて、つかまっている者にあるというのであった。

 「ヘミ──海に濃くかかった霧」では、解放前から培った思想と信念を持った伯父を匿ったことが密告されて家族は拷問されたあげく死刑や懲役にされてしまう。〈どこでも密告者は一等功臣で、伯父さんのような人は強姦殺人犯よりもっと悪い罪人として取り扱われるのである。〉
 キム・ハギは自身の学生運動や強制徴集からの脱走、獄での生の経験を書いた。取り調べという名のあらゆる拷問や、監獄での暴力に耐えて守った連帯を描き、家族の苦渋に対する悔恨や、裏切られたという思いまでが希望に生まれ変わる、そんな小説を書きたかったのだろう。
 獄の中というのはアベノミクスに蝕まれた日本社会と似ている。同調圧力に屈し「長いものには巻かれろ」精神で少ないオコボレ欲しさに友人や同僚を裏切り、敵を作って憂さ晴らしの暴力を振るう。弱い者を差別し、権力者や富者に媚びる。我々が民主主義を闘いとるためには、何度も敗北し多くの苦渋を飲まなければならないのだろう。
 翻訳した李哲は、1975年に国家保安法で死刑宣告をされ13年服役した人だ。こなれた翻訳とは言えないが、感情が肉体化した共感がある。

2017年9月30日 (土)

韓国映画を中心とした映画評

文学と映画行ったり来たり第1回~第11回
http://kghayashi.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-3648.html

馬鹿宣言
http://kghayashi.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/13-9e7b.html

海角七号/春が来れば/私の小さなピアニスト
http://kghayashi.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-bb55.html

ハピネス/母なる証明
http://kghayashi.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-b09e.html

冬の小鳥 私を離さないで 
http://kghayashi.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/15-f7b6.html

闇の子どもたち/わたしの中のあなた/わたしを離さないで
http://kghayashi.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-a460.html

(日本語タイトル「アグネスの詩」)
http://kghayashi.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-b401.html

道―白磁の人― 
http://kghayashi.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-df31.html

明日、ママがいない/バービー 
http://kghayashi.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-4694.html

2017年9月10日 (日)

金石範 「消された孤独」 『すばる』10月

作家精神の習作期を問う

Photo 金石範(キの新作「消された孤独」は作者習作期を検証した作品と言える。
 主人公のKは90歳を過ぎた作家で若き日に屋台を引いていた経験を思い出している。K像はむろん作者である金石範自身と重なるが、金石範が屋台の飲み屋だった実像は作家梁石日も書いている。
〈鶴橋駅前で屋台のホルモン焼きの一杯飲み屋をしていた金石範さんを、若い私はときどき訪ねて飲んでいた。〉
(講談社現代新書『修羅を生きる』1995年)
 金石範は屋台の話を小説に書いているが、小説が先で屋台を引いた事実は後に起こっている。「消された孤独」のなかで作家Kが自らの習作期を回想している作品を、整理して羅列してみると以下のようになる。なお小説中の〈非同人の同人誌〉というのは事実としては『文藝首都』のことだ。

1953年「夜なきそば」を在日朝鮮人文学会『文学報』に発表
1958年「これから」を『文藝首都』11月号に発表。
1957年「看守朴書房」を『文藝首都』8月号に発表。
1957年「鴉の死」を『文藝首都』12月号に発表。
1960年12月~3月、鶴橋駅前で屋台の飲み屋をしていた。
1974年「夜の声」を『文藝』4月号に発表、同年7月『詐欺師』(講談社)に収録
1984年エッセイ「どん底」を『すばる』3月号に発表。1993年7月『転向と親日派』(岩波書店)に収録
1993年「炸裂する闇」を『すばる』9月号に発表。1996年6月『地の影』に収録。

 金石範を作家たらしめた作品は「鴉の死」である。「夜なきそば」「これから」は習作という扱いが妥当だ。完成形が「夜の声」ということになる。

  Kは九十年の生涯で、もっとも精神的、存在の重心が溶け落ちて崩壊した時期は仙台時代だったと感じている。それは生活の敗北、自分自身とのたたかいの敗北の時代だったと、いまも考える。……Kの人生の途上の屋台「どん底」は一種の衒いだとエッセイに書いたように、それは真のどん底ではなかった。

 1951年、20代半ばのKは「民戦」組織関係の仕事をしながら文化協会を設立、機関誌を発行していたが、日本共産党を離党して大阪からも離れて、仙台に移り、北朝鮮関係の地下組織に潜り込む。しかしそこでの生活に馴染めず神経症を患い脱落、敗北感を味わう。仙台からも去ったKは3年後、すれ違いに仙台の組織に入った友人の自殺を知る。この辺りは「炸裂する闇」に詳しく描かれている。
 金石範は東京で数年の間、平和団体機関紙の仕事などをしていた。『金石範作品集』
(2005年10月 平凡社)の年譜によるとこの頃金泰生(キテセン)に出会っている。後に同人でないのに『文藝首都』に作品を発表するようになったのは同人であった金泰生と無関係ではなかろう。
 1955年大阪に戻った金石範は、以後工場労働などで生計を立てながら、「看守朴書房」や「鴉の死」などの小説を執筆していた。その後に屋台「どん底」の数ヶ月が、本当のどん底ではない衒いとして挟まる。Kは結局酒を売るより友人等と飲み尽くしてしまう。諦めて屋台を売った代金まで皆で使ってしまった。
 しかし金石範のニヒリズムは、韓国へ「帰国」して李承晩政権を倒す革命闘争に参加の約束を果たせぬまま日本に居すわり続けた戦後すぐの時期から始まる。そして日本共産党と北朝鮮系組織からも脱落して闇を深める。屋台「どん底」の時期は貧しかったに違いないが精神的には底辺ではなかった。梁石日は先の本で〈側にはいつも美しい奥さんが生まれて間もない子供を背負って手伝っていた。手伝っていたというより監視していたのかもしてない。というのも酒好きの金石範さんが酒を飲んで仕事を放棄するのではないかと心配していたからだ。〉と微笑ましいエピソードを続けている。
 1948年に遠縁の叔父の妻ともう一人の女性を迎えに対馬に行き、済州島四・三事件の惨劇を知る。「消された孤独」に描かれたこのくだりは1981年5月『文学的立場』第3号に発表された「乳房のない女」と重複する。この経験が金石範をして済州島四・三事件を生涯のテーマとさせるきっかけになった。KがY女から聞いた白いタオルの話は「看守朴書房」などのモチーフになっている。
 Kは生活のどん底に根ざしながら、生活とは異次元の小説「鴉の死」に到達する。書くことによってこそKは深いニヒリズムから抜け出し生きた。老年になって過去の地平の一点を見つめ直したのだ。
 金石範は全七巻の長編『火山島』
(1997年9月 文藝春秋、後に岩波書店オンデマンドで復刊)の続編『地底の太陽』(2006年11月 集英社)の更に続編「海の底から」を雑誌『世界』に連載中だ。「消された孤独」は老作家が自己の今後を励ますための作品であるような気がする。

*『文藝首都』は保高徳蔵が主宰した同人誌で、戦前戦後に渡って北杜夫、佐藤愛子、中上健次など多くの有名作家を輩出し、張赫宙、金史良、金達寿、金泰生など朝鮮人作家も多く参加した。保高みさ子『果実の森』(1978年 中公文庫)、なだいなだ『しおれし花飾りのごとく』(1981年 集英社文庫)などのモチーフになっている。

2017年8月 7日 (月)

朴婉緒『あの山は、本当にそこにあったのだろうか』

朝鮮戦争の時代を生きた青春の足跡

朴婉緒『あの山は、本当にそこにあったのだろうか』(橋下智保訳、かんよう出版)

Photo_2 朴婉緒という名を聞けば、私が思い出すのはペ・チャンホ監督映画「その年の冬は暖かかった」だ。朝鮮戦争で離れ離れになった幼い姉妹。姉は裕福な家庭に育ち、結婚後もベトナム戦争需要で更に金持ちになる。妹は孤児院で育ち、結婚後も貧しく生きるが、夫はベトナム戦争に従軍して片足を失う。この妹をイ・ミスク、その夫を国民俳優アン・ソンギが演じた。因みにイ・ミスクはこの映画で大鐘女優主演賞を受賞した。伝説的名作映画「鯨とり」でもアン・ソンギと共演している。
 さて、1931年生まれの朴婉緒にとって光復は14歳、朝鮮戦争の開始は19歳のときだった。戦争と動乱のなかに青春期を送り、人間の生きる意味を見つめ続けた。『あの山は、本当にそこにあったのだろうか』は朝鮮戦争の最中、南進する人民軍に追われ韓国軍が敗走した後、ソウルに取り残された家族の物語だ。同時にこれは作者の自伝的小説でもあり、主人公の「私」は朴婉緒自身と思っても差し支えない。
 私は人民軍統治下のソウルの人民委員会で働いていた。人民軍の後退に伴って私と義姉とその赤ん坊は家族と別れて北へ同行させられるところを逃げだす。二人と幼子は逃避行の途中、クロン峠の虎婆さんと呼ばれる気性が激しい女主人に助けられ、交河(キョハ)村というところへ行って情勢が落ち着くのを待った。交河は二つの河が交わる平地で、隠れにくく逃げるのも厄介で、戦場としてはふさわしくないが田んぼが多く食物が豊かで人情が厚い。戦闘も爆撃も掃討戦もない地だった。昔から戦乱のさなかに避難民たちが集まる村だ。映画「トンマッコルへようこそ」を思い出す。トンマッコルは韓国軍、人民軍、米軍兵士までが共存するユートピアだった。交河はユートピアではないが、悲惨さしか伝わってこない朝鮮戦争時に、蟹を捕る子どもたちの姿が描かれたり、助け合って生きた大らかさにホッとした。まさにどこにでもどんなときにも生活はあったのだ。
 ソウルに戻った私は郷土防衛隊の隊員にさせられる。戦線情勢の変化に右往左往し、再会した家族ともまた分かれたり、負傷していた兄も失ってしまう。それでも母も叔父も義姉も逞しく生きていく。私はPXで働くことになるがそこで出会った人々もメチャメチャ生き強い。特に女性の芯の強さが生き生きと描かれる。アルファベットも知らないのに英語がぺらぺらのティナ金はいつも私の相談役で庇護者でもある。彼女はPXの総責任者であるキャノンと自分の家庭とのあいだにあって複雑な関係の持ち主だ。単純では無い米軍政下の韓国人女性のあり方が、卑屈ではなく明るく描かれた。
 主人公自身についても、母娘の葛藤あり、恋愛あり、20歳前後の若者なら通過すべき儀礼は内戦下でもなくならない。人生はどんなに過酷な状況下にも存在する。朴婉緒が描いたのは朝鮮戦争の状況でも残虐でもなく、戦時下に生きた人間の有様だったのだ。どんな時代でも生きる意味はあるのだ、どんな人間でも生きる価値はあるのだと思わせてくれる。世の中そんなに酷い奴らばかりでもなさそうだ。
 じつはこの小説は朴婉緒の自伝的小説3部作中第2作で、第1部『あんなにたくさんあったシンアは誰が食べたのか』は『新女性を生きよ』というイマイチな日本語タイトルで既に梨の木舎から1999年に出版されている。第3部は翻訳されていない。長編では他に『慟哭 神よ、答えたまえ』(かんよう出版、2014年)などが翻訳されている。短篇・中篇も、「この世に最も重い義歯」(李丞玉訳『現代韓国小説選』同成社、1978年)、「盗まれた貧しさ」(「韓国文芸」編集部訳『韓国現代文学13人集』新潮社、1981年)、「空港で出会った人」(三枝壽勝訳『韓国短篇小説選』岩波書店、1988年)、「母さんの杭」(山田佳子訳『現代韓国短篇選 下』岩波書店、2002年)などがある。

2017年7月28日 (金)

剥製になった天才を考える 補遺

金秉斗さんのことなど
                        ──『吟醸掌篇』Vol.2 補遺

 『吟醸掌篇』Vol.2に自分勝手に選んだ「朝鮮文学の短篇三点」について書かせて貰った。李箱「翼」、韓雪野「泥濘」、表文台「合格者」の3点で、題して「剥製になった天才を考える」とした。その際作者についても簡単に紹介させて頂いた。しかし翻訳者に関しては名前だけに止めるしかなかった。このさい翻訳者についても少し紹介しておきたい。
 表文台(ピョ・ムンテ)「合格者」を翻訳した金秉斗(キム・ビョンドゥ)は、私にとっては朝鮮語の二人目の師であった。
 金秉斗は1934年生まれ。東京朝鮮中級学校教員や「朝鮮時報」「朝鮮新報」記者、朝鮮画報社の「今日の朝鮮」編集部長などを歴任し、その間1972年には南北朝鮮赤十字会談に在日記者団の一員として同行、平壌・ソウルで取材する機会を得ている。また宋恵媛(ソン・ヘウォン)『「在日朝鮮人文学史」のために──声なき声のポリフォニー』によると、1960年代に在日本朝鮮文学芸術家同盟機関誌『文学芸術』などに「意地っ張り」「年取った学生」などの朝鮮語小説を発表している。日本語でも短篇小説を発表したことがあると記憶するが、資料が見つからない。済州島から日本へ密航する船の中を描いた「地獄船」といったようなタイトルだったと思う。
 私の知っている金秉斗さんは1980年代、月刊『記録』に「飛揚(ピヤン)」のペンネームで白基院、高銀、李陸史などの詩・エッセイなどを翻訳していた。飛揚とは済州島の西北済州市翰林邑に浮かぶ小さな火山島である飛揚島からとった名で、金秉斗さんの出身地だということだった。
 金秉斗さんを知ったのはシアレヒム語がく(楽)塾だった。シアレヒム語がく(楽)塾は『ある韓国人の心』(1972年 朝日新聞社)などの著者鄭敬謨が主催するシアレヒム社が韓国問題を主題とする専門誌『シアレヒム』発行するかたわら、韓国語を学んだり韓国の音楽を楽しんだりする場で、韓国語クラスのほか合唱部などもあった。金秉斗は前任の金学鉉が辞めたあとの講師だった。金秉斗クラスの参加者は私を含めてそれほど勉強に熱心ではなかったが、それぞれユニークな面々であった。牧師志望の男性、韓国で囚われる政治犯の釈放運動に参加している女子大生、貿易会社で通訳をしているマジシャン、ピアニスト、銀行員、その外老若男女だった。
 私は初めて参加した日から渋谷の沖縄料理店での二次会に参加し、個性的な面々と朝まで濃い時間を共有した。これが毎週続くのだが韓国語はいっこうに上達しない。授業の無い日でも何かと理由を付けては集まり、上野の朝鮮料理屋で密造酒を嗜んだりした。合宿もしたがだいたい飲んでいて、二日目は朝からビールだった。議論はしたが勉強した記憶がない。
 金秉斗は主催者と仲違いしてシアレヒム社を去ったが、その後エディタースクールなどでも朝鮮語を教えた。私はエディタースクール参加者の自主勉強会や、中野の飲み屋の二階で開かれた別の勉強会などでも金秉斗と付き合っていた。この頃に表文台の別の作品「天国に向かう道」の原文講読もした。金秉斗さんとの付き合いがなければ表文台を知ることもなかったに違いない。
 それに金秉斗さんが兄のように慕っていた作家金泰生は、埼玉文学学校のチューターとしても私は知っていた。金泰生の死後、私は金秉斗の推薦によって『記録』誌に「解題金泰生・生と死の文学」を4回に渡って書いた。これは後に『在日朝鮮人日本語文学論』(1991年 新幹社)に収めた。
 金秉斗さんと何時しか会わなくなり暫くして、癌の治療で髪の抜けた彼と行き会ったことがある。その後また暫くして亡くなったと伝えられた。この人については公表できない逸話も少々ある。
 李箱「翼」、韓雪野「泥濘」の翻訳者である長璋吉(ちょう しょうきち)は、1968年末から1970年初めまで韓国留学した戦後韓国留学の先駆者で、東京外国語大学で朝鮮語の教員だった。私の最初の朝鮮語師匠であった大村益夫らと1970年代に朝鮮文学の会の活動をしていた。朝鮮文学の会の機関誌『朝鮮文学──紹介と研究──』に留学の経験を連載し、後に『私の朝鮮語小辞典』(1973年 北洋社、1985年 河出文庫)としてまとめている。長璋吉のエッセイはユーモラスで親しみやすく、この本を読んで朝鮮語の勉強を始めた人もけっこういるようだ。韓国在住の作家である戸田郁子もいつも読んでいたと回想している。長璋吉の著書には他に『韓国小説を読む』(1977年 草思社)、『朝鮮・言葉・人間』(1989年 河出書房新社)などがあり、翻訳も金宇鍾『韓国現代小説史』(1975年龍渓書舎)などがある。因みに韓国で出会った女性と結婚したことを「もらいつけない女房なんぞというものをかの地にもらって気もそぞろだったのではあるまいかと邪推」されている(『朝鮮文学──紹介と研究──』第5号、1971年12月)と書いている。そうとう冷やかされたに違いない。長命であったなら今日の朝鮮文学研究、韓国文学紹介の第一人者であったはずだが、1988年に47歳という若さで他界した。
 『吟醸掌篇』では、李箱の翻訳者としてもう一人崔真碩(チェ・ジンソク)をあげた。それには理由がある。李箱の翻訳は外にも数人・数点あるが、私の知る限り崔真碩編訳『李箱作品集成』(2006年 作品社)がもっとも新しい。崔真碩は李箱研究の第一人者であり、難解な李箱文学の理解者である。李箱を読み解く上で崔の論考は必須と考えたからだ。

2017年6月26日 (月)

パク・ミンギュ『ピンポン』

世界に「あちゃー」されたモアイ

パク・ミンギュ
(斎藤真理子訳)『ピンポン』白水社

Photo 自民党の豊田真由子議員が自分の政策秘書に暴言を浴びせた上暴行までしていた。運転中の秘書の顔を後ろから殴りつけるなど尋常ではない。パワハラを超え暴行罪だ。より大きな権力を持つものが下位の者をいたぶる。テレビでは心理学者が、サディスティックパーソナリティー症候群の可能性があると言っていた。相手が痛がり苦しむ姿を見て、自分が上位にいることを確認して喜ぶのだそうだ。政治家の社会に限らず、そんな奴はどこにでもいる。彼らは上位者には従順だ。
 慶応大学や千葉大学の学生が犯した、酔わせて抵抗出来なくなった女子学生に輪姦するという「準強姦」も最近のことだ。ジャーナリスト山口敬之が女性を強姦したと訴えられた事件も、酒に混入した薬物で抵抗できなくなった女性に対するものである可能性が高い。山口はアベ政権を擁護する論陣を張りアベ総理を讃える本を出版している。そうした功績が影響したのか不起訴になったため、被害者女性が顔を出して記者会見した。
 孔枝泳『トガニ』は、障害者に対する施設経営者の暴行と町ぐるみの隠蔽との闘いを描いた。木村友祐『野良ビトたちの燃え上がる肖像』では、社会から締め出され追い詰められた河川敷に暮らすホームレスたちの姿が描かれた。
 韓国の鬼才パク・ミンギュの小説『ピンポン』のモチーフはいじめられっ子だった。
 『ピンポン』は二人のいじめられ中学生「釘」と「モアイ」の物語だ。常に釘のように叩かれ頭蓋骨に罅が入ったことさえある釘。暴力を振るわれても逆らわず無表情なモアイ。二人は学校の不良チスと子分たちに殴られることによって、従属している。釘は、いつチスに呼び出されるかびくびくしている。チスにとってモアイは資金源で釘はパシリだ。チスたちのイジメは凄惨だ。グループの全員に犯され援助交際で稼がされていたマリは10階から落ちて死ぬ。釘はチスを殺したいほど憎みながら、マリを薄汚いものとして毛嫌いしている。モアイは達観している。地球が滅べば良いと思ってさえいる。読者から見れば二人は諦念に取り憑かれた敗者でさえある。しかし諦めて社会に従順なのは、イジメを傍観する中学生たちや学校そのものも、また世代を超えて社会も同じだ。
 いつもの原っぱでさんざん殴られたあとで、二人の前に突如として卓球台が現れる。そして釘とモアイは卓球を始める。卓球用具店の主人セクラテンは「自分のラケットを持つということはね、いってみれば初めて自分の意見を持つってことなんだよ。」と言う。

   卓球はね、
 
   原始宇宙の生成原理なんだ。今や卓球が残っているのはここ地球だけだ。よそはどこでも、「結果」による「結果」を目指して進行するようになって久しいが、ここでは……まだそこまで行っていない。だから人類はまだ卓球をしているのさ。結果をだせなかったのは人類だけなんだから。

 世界に「あちゃー」された釘とモアイの人類を賭けた卓球が始まる。相手は唯々生存のために本能でレシーブする鳥とネズミだ。二人は助っ人に選んだ歴史上の偉人ラインホルト・メスナーとマルコムXの後を継いでラケットを振り続ける。鳥とネズミはどんな玉でもひたすら正確に返してくる。退屈なラリーが何日も続く。
 たぶんそういうことに意味があるんだろうなと思う。ひたすら卓球ラケットを振り続けることに。なぜならそれは反従属だからだ。
 マリーナ・アブラモヴィッチのパフォーマンスRhythm 0(リズム0)は、人間は抵抗されないという条件の下では、他人を非人間的に扱い簡単に傷つけることを示した。パク・ミンギュの指し示した社会とは、そういう世界だ。パク・ミンギュは、同時に存在する別次元の世界「卓球界」も差し出した。ラケットは作家にとっての言葉なのだと思う。
 豊田真由子の秘書はついに豊田の暴言を録音して晒すという抵抗を見せた。文部科学省の元次官は黙っていなかった。アベ政権と親しいジャーナリストに強姦された性被害女性は必死の覚悟で記者会見に臨んだ。
 しかし世界に「あちゃー」された釘とモアイの、行く末は未だ見えてこない。

2017年6月21日 (水)

小沢信男『私のつづりかた』

小沢信男『私のつづりかた─銀座育ちのいま・むかし(筑摩書房)
の感想にかこつけて

Photo もはや戦後72年と言ってもぴんとこない。むしろ戦前の匂いさえする。思い返せば1995年戦後50年は豊かだった。その年、松本昌次・簾内敬司編集で「戦後50年の真の意味を問う!」とうたった『さまざまな戦後』全3巻が日本経済評論社から発行された。森崎和江、富森菊枝、松下竜一らそうそうたる執筆陣のなかに私の名も加えて貰えた。少しは期待されていたのだと、今になってつくづく思う。
 小沢信男さんは『週刊金曜日』
(1995年11月24日)に書評を書き、「日本へきて五十余年楽しい年とてなかったが、最も楽しかった一日だけをあげるならあの八月十五日だ、という金泰生の言葉を、林氏は生まれる前の地雷として踏むのである。」と私の駄文を批評してくれた。比喩文の隠然たる力で、私は足下の地雷を意識させられた。
 小沢信男は1927年生まれ、泰明小学校卒、銀座っこだ。父親が銀座でハイヤー会社を経営し妻と三男二女を養っていたそうな。その父上が幼い信男少年の作文を綴じて、図画とともにとっておいた。それをご本人がまた後生大事に保存していたから残ったのだろう。今年90歳の小沢さんが小学生のときの自らの作文と絵をネタに昔の東京を振り返り、芸術新聞社のWeb頁に連載した。それをまとめて上梓したのが『私のつづり方』である。これは大事な資料だ。生活資料、庶民史の資料としてもそうだが、散歩の達人にして名文家小沢信男の「つづりかた」だ。そりゃしがない端くれでも、もの書きの末端に連なる身として興味が湧かない訳がない。
 郵便制度の確立に伴う手紙文エクリチュールが近代文学誕生に必要な要素の一つだったということは、金哲『植民地の腹話術師たち』(2017年、平凡社)
 に教えられたのだったが、近代的学校制度の確立も近代文学と密接に関係していたのだろうなと思わずにいられない。
〈言葉ないし文字という道具は、しょせん貝殻で海の水を掬うようなことだろうか。〉小学2年生だった自分の作文を読み直して小沢さんはこんな感想を述べている。ジュンパ・ラヒリだって〈適切な言葉を見つけ、最終的にいちばんぴったりで説得力のある言葉を選ぶこと〉
(『べつの言葉で』2015年、新潮社)が、もの書く仕事の核心だと言っている。おそらく、アメリカの英語作家だったラヒリがイタリア語で書く新鮮と発見と辛さは、小学2年生の小沢信男少年と似ていたに違いない。
 少年小沢信男が、たとえ与えられた課題だったとしても、語彙をさがしてつづりかたに向き合っていた1930年代は、読んでいる限り、現代と違ってのんびりな風情だが、妙に今と似ているところがあって危うい。
 日米友好親善人形の奇妙さ、鎌倉に遊んだ花火大会、歌唱大会の華やかさと、美濃部達吉『天皇機関説』発禁のバランスの気持ち悪さ。これは老人小沢信男の知性だ。少年小沢信男の慰問文はつまらない。戦地への慰問文にありきたりのことしか書けないのは致し方なかったようだ。こうなると文学も滅ぶ。2年生の小沢信男少年は軍楽隊の歓迎送に動員され作文を書いた。折々天皇行幸などにも動員されたようだ。銀座の小学校から赤坂見附の角まで遠出して並ばされたこともあったと書いているが、私の母はこういったことは覚えていない。四ッ谷見附あたりまでなら麹町の方が近いが、一行が通ることは無かったのか。気になる。呆けてきても昔のことは覚えていると言うが、母の場合はたんに興味がなくて元々覚えていないのかも知れない。
 作文が残っていたにしても小沢さんの記憶は詳細だ。私の母は小沢さんより一つ上の1926年生まれ、ほぼ同年代で、通った小学校は違ったがそんなに遠い訳でもない。母の小学校時代の記憶はぶつぶつで、二・二六事件の朝の微かな印象と、6年の学芸会で邦枝完二作「鉢の木」の主役佐野源左衛門をやったということくらい。因みにヒロインは邦枝梢さんだったそうで、作者の娘だものそりゃそうなるね。梢さんは後に木村梢として『東京山の手昔語り』
(1996年、世界文化社)という本で麹町・番町界隈の記憶を書き残している。覚えていないのは我が母ばかりなり。家のなかの様子や学校の授業の記憶はさっぱり抜けている。そんなこんなを聞いていたら「コージさんは空襲のときどこにいたの?」と聞き返されて唖然(コージというのは私の名)
 とにもかくにも老人にも親があり子どもの頃があった。他人ごとではない。人に歴史あり東京に歴史あり、82年前の自分の作文から、小沢さんは現在を語ってるという読み方は、さすがにうがち過ぎだろうな? 
 90歳の小沢さん、最近でも著作活動盛んです。『東京骨灰紀行』、『捨身なひと』、『俳句世がたり』などなどが世間の耳目を引いています。『私のつづりかた』が続きます。しかして今年の最新刊『ぼくの東京全集』(筑摩文庫)を読んで欲しい。アンソロジーです。永久保存版です。散文では1965年発表の「わが忘れなば」が古い方。1冊の冒頭は大本営発表、空襲後の焼け野原の描写で始まる。小沢さんの青春の心象は東京の風景変化と重なる。
 すいません。起承転結なしの書きっぱなしです。ブログは楽だわ。
 小沢信男さんの『捨て身な人』
『通り過ぎた人々』 に関連した記事も書いています。酔狂な方どうぞクリックして下さい。

2017年6月14日 (水)

目取真俊『目の奥の森』(影書房)

文学は錆びない、アベ政権下日本を照射する

 3・11後、文学の無力を思い、AKB48が被災地でボランティア公演する様子をテレビで見て、うちひしがれたもの書きは少なくなかったと思う。そうしたもの書きの端くれであった私は、いとうせいこう『想像ラジオ』に救われたのだった。
Photo 文学はプラグマティックには役立たない。いや、戦意高揚や独裁者を讃える役割を果たす場合はある。歴史を改竄し排外主義を煽る場合もあるだろう。為政者の役に立つ文学に文学的価値を認めるなら「文学は役に立つ」と言えなくはない。東日本大震災に際して「ガンバレニッポン」と民族主義を煽ったキャンペーンも彼らにとっては文学かも知れない。しかし文学の価値とはそんなところにはない。
 文学は未曾有の災害に対してさえ意味を持った。まして政治に対して意味を持たないはずがない。では政治が歪み歴史が歪められようとするとき文学は何をするのか。時の政権が政治を私物化し首相の「お友達」だけが優遇される社会、強姦・下着泥棒などの輩でも権力者に使えれば許される、そんな社会に文学は対峙し得るか。
 今日深刻化する国家ファシズムとの闘いの、最前衛に立たされているのは沖縄だ。沖縄では共謀罪が先取りされたかのように、辺野古基地反対闘争に理不尽な弾圧が加えられている。抗議者は警察によって殴打され、被害者が加害者として逮捕される。作家目取真俊が差別言辞で警察官から罵倒された事実は忘れがたい。影書房は最近目取真俊の旧作を2冊新装復刊した。『目の奥の森』と『虹の鳥』だ。どちらも10年前に上梓された作品だが少しも古さはない。むしろ今日的課題を読者に強く意識させる小説だ。
 『目の奥の森』は沖縄戦末期、米軍兵士による少女強姦事件と少年漁師による復讐、村人たちの狼狽する有様を、アメリカに迎合する村の区長、現場にいた幼かった少女たち、強姦された少女の妹、沖縄出身の日系二世である通訳、強姦した側の米軍兵士など複数の視線を交差させ、時間を超えて浮き彫りにしていく。過去のありそうな悲惨な事件を描いたに止まらず、いつでも起こりえる人間の歴史として書かれたことは文学としての価値を高めている。
 米軍兵士による強姦事件は、調査にあたった少尉の考えが「忖度」され、なんの処分もされない。現在の日本も同じだ。政権の肩を持つジャーナリストのおこした睡眠強姦事件はもみ消される。強姦され精神を病んだ小夜子は徹底的にバカにされ、村の男達に弄ばれる。性犯罪被害者の被害後受ける仕打ち(再被害)の惨たらしさは、今日勇気をもって被害を告発した性被害者が被る性的罵倒と同一性のものだ。
 描かれたのは過去ではない。ただ一人米兵に挑んだ盛治が学校でイジメられる少年だったように、60年後沖縄戦の話を聞いた少女は「健康な」同級生たちからイジメられている。沖縄戦を体験し、姉が生涯消えない傷を負ったという老女の話は、聞くフリだけの健康な子どもたちの魂には届かない。村社会の暗黒は現代社会に繋がっている。差別とイジメが支配する社会が時代を超えて照射される。被害者が更にいじめ抜かれ、立ち向かう者は忖度する者に組み伏せられる。
 かつて貝を捕った砂浜は今はないが、盲(めしい)たまま老いた盛治はいつまでも海辺で佇み、小夜子も介護施設で海を見つめる。
 美しいのはどちらか、醜く輝きのない生はどちらか、文学は人間と歴史をうっすらと照しだす。

2017年5月14日 (日)

金蒼生『済州島で暮らせば』新幹社

目は海の青に染まり、胃はサザエで満ちる

Photo_2 韓国の新大統領に文在寅が選ばれ、安倍政権に忖度するマスコミは、韓国で「反日」政権が選ばれ「韓日合意」が守られるか懸念との報道をばらまいた。そもそも所謂「12・28韓日合意」など何の意味があるのかしらけた気持ちでいたのだが、金蒼生(キムチャンセン)『済州島で暮らせば』によって教えられたことがあった。合意の影響か、従軍慰安婦を扱ったテレビドラマ「雪道」の再視聴が中断されていた。朴槿恵政権は合意の文面以上に国民の言論と表現の自由を押さえ込もうとしていたのかも知れない。
 この本で久しぶりに猪飼野の作家金蒼生さんに再会した。金蒼生は1982年『わたしの猪飼野』を上梓して、日本に生まれ育った自分と朝鮮人である両親との違い、父母の朝鮮語に馴染めない自分と、日本語が上手でない父母との葛藤、そういったあらゆる在日二世の煩悶と民族意識の獲得の過程を描いた。韓流以後今日の韓国語学習者の隆盛と比較すれば、朝鮮語を話す者と言えば警察関係者と自衛隊くらいだった頃の大阪生野区の風景は今読み返しても興味深い。その金蒼生が済州島に移住して『済州島で暮らせば』を上梓した。
 金蒼生の母は済州島で海女をしていたが、18歳で玄海灘を渡り大阪の猪飼野で暮らした。蒼生は11人兄姉の末っ子だ。日本の植民地時代、生活のため日本に渡った朝鮮人の多くは故郷を再び見ることなく生涯を終えている。二世以降の世代で「祖国」に帰ろうと思うものは少ないだろう。しかし日本生まれの在日二世である金蒼生は2010年10月末、還暦に近い歳で、更に歳上の夫と二人で済州島の中山間地帯の村に移住した。済州島の中でも田舎だ。荒れ果てた古い農家住宅を整理し、草を刈り、初めはキムチ樽を風呂桶替わりに使った。蟻や蜘蛛を追い出し、ムカデに刺されながら徐々に生活に慣れていくと、蜜柑畑の広がる風景は美しい。
〈…私は今、済州島の豊かな自然のなかで深く呼吸をしながら暮らしている。夫亡き後も、日本に戻ろうとは微塵も思わない。寂しさややるせなさを感じると、村周辺を歩く。夕暮れの美しさ。遠くに見える梨湖(イホ)の海。沖に灯る漁火。済州島の自然に癒される日々だ。〉
 この本は済州島に移住した著者の移住生活の記録であり、同時に知的生活の感想でもある。済州島は「四・三事件」と呼ばれる白色テロの起きた悲劇の地だ。犠牲者を追悼する様々な催しに参加しながら、〈済州島民となった私は考え続ける。〉
 これはまた豊富な読書や映画・ドラマ鑑賞の文学的批評の様相も呈している。金永甲(キムヨンガップ)のエッセイ写真集『その島に私がいた』。済州四・三の作家玄基榮(ヒョンギヨン)の『順伊おばさん』や長編『地上に匙ひとつ』。ベルンハルト・シュリンク『朗読者』。日本人として真摯に朝鮮と向き合った数少ない戦後作家小林勝。四・三の悲劇を映像化した映画「チスル」。植民地時代から解放後に渡る歴史ドラマ「黎明の鐘」。日本軍従軍慰安婦を繊細に描いた映画「鬼郷」の主人公を演じたのは著者の孫娘だった。公表していなかったのにネトウヨから攻撃される。映画監督が四・三の犠牲者遺族を訪ねて済州島から大阪まで回ってその声を集めた「ピニョム」。朝鮮戦争時の米軍による民間人集団虐殺を描いた「小さな池」等々。たんなるレビューとしてではなく、田舎での生活の中に溶け込む知性の輝きとして書かれている。
 その文体は著者の人柄そのままに真面目でユーモアに溢れているのにけれんがない。先に逝った夫を慕う哀愁の表現にも笑いを誘おうとするのは大阪人の性だろうか。とっても真似の出来ない行動力に敬服するのみだ。

2017年4月14日 (金)

金哲『植民地の腹話術師たち─朝鮮の近代小説を読む』

植民地出身者として近代と対峙しながら生み出した  近代文学
                      金哲著、渡辺直紀訳『植民地の腹話術師たち─朝鮮の近代小説を読む』

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 曺泳日(ジョ・ヨンイル)は『世界文学の構造』において、韓国は近代文学が発展することのできる歴史的条件を備えていない。〈近代文学が発達した国と、そうでない国の違いは〉〈その国がナショナリズムを経て帝国主義までを経験したかどうかによります。〉と書いている。〈近代文学とは、本質的に「戦後文学」だ〉というのだ。日本に当て嵌めれば日清・日露戦争を経てこそ夏目漱石という国民作家の誕生を得た。曺泳日の、近代文学は近代国家になる「国民戦争」を経験して成立した長編小説を示しものであり、韓国に近代文学は成立しなかった、とする論は些か飛躍がすぎる。曺泳日自身も使っているように韓国の文学史においても「近代文学」という言葉は生きている。「韓国近代文学」あるいは「朝鮮近代文学」ということばが普遍的に使われている事実をおいて、その存在自体を抹消するのは度が過ぎている。今さら李光洙の作品は近代文学ではないと言っても始まらない。しかしヨーロッパ諸国や日本など先進資本主義国家における近代文学と、朝鮮近代文学との違いという意味でなら曺泳日の論は正当だ。
 金哲(キム・チョル)『植民地の腹話術師たち─朝鮮の近代小説を読む』は朝鮮近代文学の特殊性について、朝鮮の近代小説に具体例を取りながら解読している。金哲の前提としたのは、〈朝鮮近代文学の建設──それがすべての植民地作家たちの目標であり存在理由であった。〉という理念だ。
 朝鮮近代文学の草創期の作家らは「構想は日本語で、描くのは朝鮮語で」という植民地出身者として近代と対峙する煩悶を持った。近代とは何か。近代社会を決定づける要素とは何か。金哲は〈近代国家建設の最も重要な要素は、鉄道や電信、電話、郵便などのような新しい交通と通信の手段である。〉と書いている。近代小説はエロティシズムと不可分の関係にある近代的個人を描く様式であり、19世紀末以来韓国社会は「英語=アメリカ=文明=世界」という表象構造を一つの強迫として受け止めながらも、韓国小説はこのような社会現象を反映したが、それは同時に「民族」を発見することに繋がった。
 そして、韓国(朝鮮)語の近代化は、植民地宗主国の言語である日本語との混成を通じて成立している。しかも朝鮮語・朝鮮近代文学草創期の言語確立の死闘の末に驚くべき創造の結実を見た。日本語が侵入し、朝鮮語が圧迫され、やがて使用が禁止される1930年代後半から1945年の解放に至る期間は「暗黒期」「空白期」ではなく、むしろ「韓国語」(朝鮮語)と「韓国(朝鮮)文学」の他の可能性が模索され遂行される、躍動的かつ活力に満ちた時期でもあったと規定する。こうした金哲の逆転の発想は意外に画期的だ。
 金哲は「韓国文学とは何か」という根本的問いを自明のものとしなかった。
 1917年に発表された李光洙の『無情』は純ハングル文体で書かれている。純ハングル文体でのエクリチュールはきわめてはやく定着した。純ハングル体の小説エクリチュールこそ、植民地における最も明白かつ確実な自律的領域だ。韓国語が外国語に匹敵する、いわば韓国語による近代文学は成立しうるものだと論証して見せたと言えよう。
 本書は、李光洙・金東仁・李孝石・蔡萬植・金南天・朴泰遠・李箕永・張赫宙・金史良など多くの朝鮮人作家を取り扱い、13篇の短篇評論を13章に組んで一冊としている。表題作「第12章 植民地の腹話術師たち」には、本書の副題とは異なる「朝鮮作家の日本語小説創作」が付いている。この主題はこれまでにも多くの研究者が論じてきているが、本書では余りに短文過ぎて議論としては物足りない感じが残るのがやや残念だ。
「日本の読者に」に書かれた著者の次の言葉が、意識の高さ深さ、民族主義に囚われない新しさを示している。

  特定の集団への帰属を自らの根拠としない人たち、自分だけのことばで語ることに邁進するすべての人々に、深い連帯の気持ちを込めて本書を捧げたい。

2017年4月 8日 (土)

三浦正輝と聖人たちの領域

三浦正輝「消せぬ風音」
──新日本文学賞受賞その後

Photo 日本に数ある新人文学賞のなかでも新日本文学賞は特異な位置を占めていた。新日本文学賞を受賞したとしても商業文壇で成功する確率は低いと分かっていた。受賞者には土方鐵や佐木隆三、波佐間義之、評論の高野斗志美らがいたが、佳作がやたら多いのに受賞者は非常に少なかった。1982年に永山則夫が「木橋」で受賞して話題になったが、獄中の殺人犯が文学賞を受賞というゴシップ性が世間ウケしたものだった。殆どの受賞作は世間の耳目を集めることがなかった。
 私にとって最も記憶に残る受賞者は、1994年受賞の三浦正輝だ。この年の授賞は三浦正輝「消せぬ風音」と古岡孝信「夏の家」の二篇の小説だった。しかし注目されたのは佳作に残った見沢知廉「天皇ごっこ」だった。右翼活動家だった見沢が殺人罪で投獄中に書いた小説を応募した。永山則夫に続いてまた殺人犯に文学賞を、ということで小さな炎が上がった。佳作の見沢知廉は作家としての名を残し新潮文庫にも収録されたが、本当の受賞者は忘れられた。それでも古岡孝信はそれなりに地方作家として活躍しているらしいが、三浦正輝の名を聞くことは今はない。
 三浦正輝「消せぬ風音」は、北海道の地方都市に住む親しい関係の中学生たちが、それぞれの如何ともしがたい理由によって別々の町に分かれていく。シゲは学校に来なくなり夜遊び回って喧嘩で怪我したことをきっかけに札幌の親戚に預けられることになる。宮田は隠していた精神障害のある妹が入院した江別に引越する。ぼくは打ち込んでいた剣道部も辞め夜遊びも止め、勉強して地元の高校に進学するが心は虚無が支配している。〈道東のさびれた港町〉で36歳になったぼくは今でも、あの頃と同じ風の音を聞いている。選者の中で「消せぬ風の音」の評価が一番高かったのは針生一郎だった。

   青年の屈折に満ちた心情を柔軟に、こまやかにとらえる文体が、このような虚無感をさぐりだしたのだが、それは自己のアイデンティティあるいは生きがいに対する疑問であるとともに、このような虚無に直面し、それをつきぬけてこそ真の創造がはじまるという意味で、作者にとって文学の原点でもあるだろう。

 シラケ世代の主人公は「あの人達が希望や理想を持って生きていたことは確かだよ。例えそれがどんな終わり方をしたとしても、自分たちの(敵)があの人たちには見えていたんだ」と語る。あの人たちというのは全共闘世代のことだ。理想に向かって闘った人々が羨ましいが自分は虚しい存在だという子どもっぽい逃避気味の虚無感を中学生に語らせた。
 三浦は翌年『新日本文学』1995年6月号に蝦夷地に住む侵略者ニッポン人の末裔としての心情を綴った「侵略者体験ツアー」を書いた。
 その後私が編集していた文芸同人誌『愚行』(第10号 1996年11月)に寄稿してもらっている。このときは筆名として「アラズ マサキ」を使った。作品は「聖人たちの領域」で400字詰め130枚ほどで「消せぬ風音」より長い。
 美大に通うMは個展会場のギャラリーで小学校の友人と出会う。佐々木友彦の絵は迫力に満ちていた。佐々木は警備員をやりながら絵を描いていた。佐々木の絵は評価され美術雑誌に掲載され、公募展に出品された絵も強烈な何かを周囲に発散し人々の視線を集めていた。Mと恋人の美智子と佐々木の歪な関係のなかで、Mは自身の存在の意味が分からなくなっていた。Mはそれまでの抽象画を止め、卒業制作には精神に障害を持った人々を描いた。〈僕は生まれて初めて自分というものをさらけ出そうと考えているのだと思う。そして、そう考えた僕は作品の中で芸術性を否定しなければならないと考え始めていた。〉無価値な存在である自分の葬送曲を作り出し、自分にとって無価値な自分の一生という小説のための「挿絵」として、精神障害者という「聖人」たちを描いた。一方、佐々木は技術を向上させながらむしろ個性的な可能性を落とし、無惨にも光を失った作品しか書けなくなっていった。
 卒業して美智子と生きていくことに決めたMは父に紹介された会社を蹴って札幌の運送会社に配送助手として就職し、毎日ぼろぼろに疲れてアパートに帰り泥のように眠る毎日を過ごした。
 佐々木の死を知り、聖人たちの絵を海に投げ捨てたMに、美智子は「お別れね……」と呟くが、Mは「……始まりだ……」と言う。希望で終わるラストに救いがあって高慢な芸術青年を描いた暗い小説に仄かな灯りを見せる。
 三浦はその後『新日本文学』1997年9月号に「消せぬ風音」同様中学生を主人公とした掌篇「壁」を発表した。続けて10月号に短篇「トイチ」を発表、心的傷害のある男が町の有力者から差別され「浄化」と称して病院に収容されるまでを描いた。(この小説は手元に掲載誌が見つからず再読できていない。)1998年9月号に「翼の影」というカラスを隠喩的に使った短篇を発表した。その外の作品については分からない。知らないものや忘却したものがあるかも知れない。
 三浦正輝が今どこで何をしているのか分からない。虚無を突き抜けた表現者として生きているのか。あるいはまだ根室で美術教師をしているのか分からないままだ。

2017年3月16日 (木)

温又柔「真ん中の子どもたち」のことなど

軽快なステップを踏む多国籍文学

 欲しい本があって海外文学のコーナーを探していたところ、思いがけなく温又柔の『来福の家』 があった。温又柔は同書に併載されている「好去好来歌」ですばる文学賞佳作に選ばれた作家で、『台湾生まれ日本語育ち』で日本エッセイストクラブ賞を受賞している。1980年生まれの若い作家で台湾国籍だが、作品は日本語で書いている。もともと日本語育ちなのだ。金鶴泳や李恢成の本が海外文学扱いされたのは40年も前のことで、温又柔が日本文学か外国文学か、といった設定はもはや古いと思っていたのだが、作家の知名度のせいもあるのか。柳美里は一般の女性作家コーナーに並んでいる。釈然としない。
 それにしても長く在日朝鮮人の文学を読んできた者にとって、同じ旧植民地出身作家と言っても温又柔は軽快だ。これは世代の違いもあるだろうが、時代の差も大きいのか。他言語作家温又柔には日本語に対する恨みも反発も憂鬱も劣等感もない。なめらかだ。
 戦前、日本帝国主義の植民地・半植民地支配された地域、朝鮮・台湾・満州などでは日本語で書く作家たちが輩出された。日本敗戦後、日本に残らざるを得なかった旧植民地出身者たちやその後裔の日本語文学は戦前の強制された日本語の流れをくんでいる。1972年に李恢成が外国籍作家として初めて芥川賞を受賞すると「在日朝鮮人文学」はにわかに注目された。文芸学者西郷竹彦は、李恢成文学に対して、日本の文学伝統のなかに生い立ちながら朝鮮の音楽を響かせ、それがつなぎ合わさってイメージの流れを作っている(「民族・ことば・文芸」『李恢成対話集 参加する言葉』1974年 所収対談)、というふうに評価した。作家自身の意識とは逆に、日本人文学者は「在日朝鮮人文学」を日本文学に巾を持たせ、豊かにする要素として評価していた。しかし在日朝鮮人文学は多様な議論を生み、最も重要な作家である金石範は『ことばの呪縛』(1972年)、『口あるものは語れ』(1975年)などで独自の文学論を展開した。在日朝鮮人としての主体意識と、自らの言葉である朝鮮語を表現手段として持たぬ内実の空虚との不断の闘いこそ、在日朝鮮人の日本語表現なのだと論じた。つまり戦後在日外国人の日本語文学として代表的位置にあった「在日朝鮮人文学」は帝国主義言語としての日本語と闘い続けることによってのみ可能だった。勿論異論はあり金泰生の作品に見える文体は日本文学の獲得に向かったと読むこともでき、李恢成などはむしろその流れに沿っていた。しかしどの作家にも母語ではない母国語に対する忸怩たる拘りが重くのしかかる。
 この拘りが温又柔の場合奇妙に軽快なのだ。同じ旧植民地出身作家として一つに括ることはできない。20174_2
 温又柔は『すばる』4月号に小説「真ん中の子どもたち」を発表している。中国語が話せる父と台湾人の母を持つ琴子ことミーミーは、複数言語の狭間で根っこを探し彷徨う。台湾人の母は台湾語と中国語(普通語)をチャンポンにして日本語も混ぜて話す。琴子の家では複数の言語が飛び交っている。琴子は漢語学院で中国語を学び上海に語学留学し、父親が台湾人のリンリンや、両親が日本国籍を持つ中国人で関西弁を喋る舜哉と親しくなる。ここで初めて上海語を覚え、台湾語をやや侮蔑的な「南方口音」と呼ばれたり、先生からは厳しく普通語の発音を指導される。ミーミーは時計台から響き渡る「東方紅」のメロディーにうっとりするが、小学生のとき「君が代」を自慢げに歌っていた自分を思い出す。「東方紅」は毛沢東を讃える歌だ。「君が代」と「東方紅」をあっさり並列できてしまう感じが、例えば李良枝が富士山を美しいと思えるに至る経緯と比べると、いかにも簡単だ。ミーミーやリンリンにとって毛沢東と蒋介石も対等に歴史上の人物に過ぎないようだ。
 この小説は一種の根っこ探し、ルーツものではあるのだが、ルーツに拘らなくっても良いのじゃないかという提起もしている。〈根っこばかり凝視して、幹や枝や葉っぱのすばらしさを見逃すなんてもったいない。〉という言葉はとても新鮮だ。言語も日本語を含めて複数併用が普通な社会であれば気が楽だろう。
 今やグローバル化した経済体制の日本へ、新しく流入してきた外国籍の人々による日本語文学は例外として文学史の欄外に書き記す程度の質量ではない。ユダヤ系アメリカ人のリービ英雄、スイス生まれでイタリア系だが純粋な混血を自称するデビット・ゾペティ、イラン人のシリン・ネザマフィ、中国人である楊逸、アメリカ国籍の詩人アーサー・ビナード、それに台湾系の温又柔など多様で良質だ。日本社会が門戸を開き日本語が閉鎖性を解き放てば、日本語以外を母語とする人々やその子孫による文学作品の数はまだまだ増えるだろう。日本は台湾と国交を持たないから日本にとって台湾は一つの地域に過ぎないが、温又柔の国籍がどうであれ、他言語・多国籍の文学の今後に期待しながら見守りたい。

2017年3月 1日 (水)

多胡吉郎『生命の詩人・尹東柱』(影書房)

若き民族詩人の生を追った意欲的評伝

Photo 今年は詩人尹東柱生誕100年だ。韓国ではもちろん日本でも様々な催しが企画されていると聞く。
 私が尹東柱に初めて出会ったのは1977年頃、大村益夫先生の教室だった。読んだのは「序詞」「星を数える夜」「たやすく書かれた詩」「また違う故郷」だった。1970年台まだ尹東柱の翻訳は殆ど無かった。金学鉉が『季刊三千里』に韓国詩人群像を紹介した連載の一つとして1977年5月夏号に書いたものがあった。これは1980年11月に柘植書房から発行された『荒野に叫ぶ声』に収められた。もう一つ『詩学』1977年12月に呉世栄が書いたものがあったと思うが雑誌が見つからないので確認できない。大村先生は1985年には尹東柱の墓を発見するなど、尹東柱とは浅からぬ因縁を結んでおられた。因みに大村益夫編訳で解放前後に渡る対訳現代詩アンソロジー『詩で学ぶ朝鮮の心』が1998年に発行されている。
 韓国で国民詩人と呼ばれる尹東柱とは誰か。尹東柱は1917年12月30日中国東北部のキリスト教信者の家に生まれた。朝鮮はすでに日本の植民地に組み込まれていた。詩を書く青年であった尹東柱は1942年渡日し立教大学に入学、秋には京都の同志社大学に転学した。翌年7月独立運動をしたとして治安維持法で逮捕される。そして1946年2月16日、収容されていた福岡刑務所で衰弱した詩人は帰らぬ人となった。27歳の若い命だった。尹東柱は本当に独立運動をしたのだろうか。彼は朝鮮語で詩を書いていた。それだけだ。『生命(いのち)の詩人・尹東柱』を読んでも独立運動らしい動きは見つからない。尹東柱は詩人に過ぎなかった。
 尹東柱の初の作品集である伊吹郷訳『空と風と星と詩』が出版されたのは1984年11月だった。それをきっかけに日本でも尹東柱を知る人びとが増えた。『生命の詩人・尹東柱』の作者多胡吉郎(たごきちろう)も伊吹訳『空と風と星と詩』で尹東柱詩人に魅了された一人だ。多胡吉郎は1995年にNHKのディレクターとして尹東柱のドキュメント番組を制作した経験を持つ。多胡はその後も尹東柱に拘りその生涯を追っていた。尹東柱の詩友上本正夫や同志社大学の同窓生たちの証言を探し出し、詩人の人となりを辿ることに成功した。特に同志社大学の級友たちと尹の送別会を兼ねた宇治川ピクニックの写真を発見したことはそれだけでも賞賛に値する。初夏の川辺に遊ぶ若者の姿は政治とは無縁な幸せなものだ。逮捕される直前のことだった。
 多胡の追究は尹東柱を巡る事実調べとリンクしながら詩の解釈にも進む。英国生活の長い多胡は英詩との比較によって朝鮮語単語を分析し、また蔵書に遺された尹東柱のメモや痕跡まで丹念に調べて詩人の実像に迫った。多胡は自分の翻訳を一点だけ紹介している。

     「序詞」
   
    逝く日まで空を仰ぎ
    一点の恥のないことを
    葉合いに起こる風にも
    わたしは心痛んだ
    星を歌う心で
    すべての逝く身なる生命(いのち)を愛さなければ
    そして わたしに与えられた道を歩み行くのだ
    今宵も 星が 風に瞬いている

多胡がなぜこう訳したかは本書を参照されたい。多胡自身の尹東柱の詩引用は殆どが伊吹郷訳に依っている。
 尹東柱の詩を読んで分かることは、尹東柱は決して独立運動や民族主義を高らかに歌うような詩人ではなかったということだ。あくまでも抒情詩人だった。それもキリスト教精神に則(のっと)った詩人だった。しかし尹東柱が書いたのは死んでいく民族の復活の願いが込められた抒情詩だった。これは日本語で書けるはずがなかった。尹東柱の直接の死因がなんだったのかは分からないが、大日本帝国の治安維持法によって殺されたのは間違いない。
 いつも控えめに恥じ入りながら佇んだ詩人の死を、われわれはどう受け止めようか。尹東柱は最期のきわに何かを叫んだと、遺体を引き取りに来た両親に看守が伝えた。朝鮮語であったため、日本人の看守にはその意味がわからなかった。

   今となっては、その言葉を確かめようもない。
   それはもはや、私たちひとりひとり、尹東柱と向き合う者のそれぞれの胸に、こだまするものなのだろう。

 日本語で読める尹東柱の詩集や評伝などについては「あとがき」に紹介されている。

*韓国の人気作家イ・ジョンミョンに囚われた尹東柱を描いた『星を掠める風』があるが、監獄の生活はイ・ジョンミョンの想像をはるかに越えていたようだ。

2017年2月20日 (月)

死六臣公園を歩く

麗羅の『山河哀号』の主人公成文英は死六臣の一人成三問の子孫だという設定だった。私はかつて死六臣が祀られた死六臣公園を訪ねたことがある。前回記事の付録的意味で死六臣公園を訪ねた際の記憶を写真など見ながら辿って見ようと思う。因みに現在はこの時よりだいぶ整備が進んでいるらしい、写真も古いので悪しからず。
Dsc00067 死六臣公園はソウル市銅雀区(ドンジャング)鷺梁津(ノリャンジン)にある。地下鉄1号線鷺梁津駅を下りると瞬間生臭ささが漂ってくる。近くにソウル一番の水産市場があるのだ。鷺梁津は漢江の南、国会のある汝矣島(ナジド)を東に出た側に位置する。この辺りは鍾路や明洞などの中心街とは趣を異にして郊外の感すらある。けたたましく車が走り抜けていく幹線道路の両側にはずらっと予備校が並んでいる。Dsc00069
 五・六分も歩くと鬱蒼とした林のようなところが見えてくる。整備された公園入り口の巨大な門柱に銅板に刻まれた「死六臣公園」という文字が見える。舗装されてL字溝まで設えた意外と広い道を上がっていくと、通りの喧噪を木々が塞いでくれる。大きな赤い鳥居状のものの下を通る。これは紅サル門(홍살문)とか、紅箭門(홍전문)とか、たんに紅門(홍문)と言われ、いわば神聖な地への入り口である。陵などの前に建てられている。日本の鳥居の親戚のようなものだろう。もともとこの辺り一帯の堂山として祀られている地域なのだと思われる。山頂の広場に置かれた四阿で笛の練習をしている若い人がいた。夏だったのでポプラからアメリカシロヒトリが墜ちてきた。鵲(カチ)が低空飛行して目の前を過ぎる。近隣の住人や学生の憩いの場となっているらしい。Dsc00071
 街を見下ろそうとすると、目の前を巨大なアパート群が塞ぐ。反対側に出る道の途中から松林の中の小径に足を踏み入れると、ほどなく緑の広場が目の前に開けこんもりまるい墳墓がいくつか見える。墓地の裏側から入ってきたのだ。墳墓は横から見ると正円ではなく、オタマジャクシの尻尾のようなものがついている。緑の墓地は松林で囲まれている。松の木は「トリソル(도리솔)」と言って霊魂が天に昇るときに乗る媒体なのだそうだ。墓地周囲の土手をぐるりと回ると、墳墓の正面にはそれぞれ小さな碑が置かれて姓が刻まれている。「成氏之墓」「柳氏之墓」……と。しかし、数えてみると墓は七つあった。正面から右の端の方に「金氏之墓」というのがあるが、六死臣には金某という人はいない。Dsc00079
 そもそも死六臣とは誰かというと、成三問・朴彭年・河緯地・李塏・兪應孚・柳誠源を言う。彼らは、朝鮮朝第四代の世宗の信任が厚く、病弱な五代文宗からは幼い嗣子(端宗)を良く補弼するよう顧命を受けた者たちだった。ところが、文宗が死に端宗が11歳で即位すると、叔父の首陽大君は勢力を拡大してついに1453年、端宗の後見だった皇甫仁・金宗瑞と実弟の安平大君を粛正して権力を握る。これが世に言う「癸酉靖難」だ。首陽大君は1455年端宗から王位を剥奪し自らが即位した。これが第七代世祖である。Dsc00082_2
 上記の6名はすぐさま端宗の復位を企て、同調者を糾合して機会を待った。彼らは1456年6月明国使臣の歓送の宴において世祖一派を処断しようとしたのだったが、事前に漏洩して挫折する。
 同志の一人であった金綢(김질)らが裏切って世祖に端宗復位陰謀の全貌を密告し、世祖は関連者をすべて捕まえ自ら彼らを問責した。成三問は真っ赤に焼けた鉄で脚を突き刺し、腕を切り落とされる残酷な拷問にも屈せず世祖を「전하(殿下)」と呼ばず「ナリ(나리)」と呼んで、王として対することはなかった。残った人々も真相を自白すれば許すという言葉を拒否して刑罰を受けた。成三問・朴彭年・兪應孚・李塏は灼刑で処刑、河緯地は惨殺され、柳誠源は捕まる前に妻とともに自殺した。
 また、死六臣の家族も男は皆殺害され女は奴碑として連れて行かれた。死六臣以外にも金文起・權自愼ら七十余名が謀反嫌疑で禍を被った。この金文起という人が死六臣墓地に死六臣とともに奉られていた7人目である。公園内に設置された説明文によると、墳墓はもともと朴彭年・成三問・兪應孚・李塏のものがあって、後に河緯地・柳誠源・金文起のものが祀られたという。この金文起を忠臣死六臣に加えるべきかどうかで近年論争があるそうだ。
 死六臣は1691年、粛宗によって官職が復帰され、愍節という賜額が下されたことによって鷺梁津堂山墓所の下に愍節書院を建て神位を奉って祭祀を行うようになった。
 私が訪ねたとき、五六人の老人が書院に続く石畳から上がってきた。みな体格良く、杖をついてよぼよぼ歩いているようには見えるが、どことなく殺気を押し殺したような雰囲気がある。一人は「テジャンニム(隊長)」と呼ばれていたので、退役軍人だろうか。忠臣の墓参りだ。
 墓所から木槿咲く垣根を巡って雨に濡れた石畳を踏み、愍節書院の裏側の小径に降りていった。小門を入ると「義節祠」と額のかかった書院の横にでた。書院の中には木製の位牌のようなものが、これも七つ並んでいる。振り返って石段を降りると庭園には芝生が広がる。六角の石塔は死六臣碑である。これは1955年に建てられたそうだ。Dsc00096
 大きく緑豊かな柿の木を右斜め背後にして不二門から外に出ると、公園の木々の間を白黒の鵲が歩き回っている。不二門も丹青(단청)と呼ばれるカラフル彩色だ。陰陽五行説に基づいて方位や位置など一定の秩序に基づいて五色の原色で彩られている。緑豊かな公園にマッチしている。韓国人の美意識や思想が凝縮されているようですらある。
 入ってきた坂を下っていくと梢の間から下の幹線道路を隔てた向かいに旅館が見える。祭祀のときには賑わったのだろうか。公園の外は喧噪のソウルだ。
 「死六臣」は死後230年以上復位することもなかったのだから歴史的には敗者と呼べる。死六臣が敗者なら世祖と世祖に与した輩は勝者であろうか。世祖が権力を握る過程で、これを助けた功臣たちは、その後も世祖の側近として批判勢力を弾圧し世祖に優遇された。彼らは後に「勲旧派」と呼ばれるようになる。しかし韓国で勲旧派といえば悪役らしい。日本でも流行った韓流ドラマ「大長今」(日本版タイトル「宮廷女官チャングムの誓い」)に出てくる悪役「オギョモ」も勲旧派の末裔である。
 崔碩義氏の『韓国歴史紀行』(影書房)によれば、どうやら嫌われ者勲旧派の代表選手は、韓明澮(ハン・ミョンフェ)だったようだ。この人物は世祖に従って権勢を振るった。風流人を気取って漢江のほとりに別荘を建てて「狎鷗亭」と名付けた。狎鷗亭洞(アックチョンドン)といえば現在韓国では高級なファッションストリートということになっている。死六臣公園のある鷺梁津は水産市場と学習塾の街であり死六臣を祀る堂山のある街である。最先端のファッショナブルシティ狎鷗亭洞とは対照的だ。しかし歴史に敗者と勝者の区別はないかも知れない。麗羅の『山河哀号』のもう一人の準主役である韓哲相は韓明澮の末裔ということになっていた。

2017年2月18日 (土)

麗羅『山河哀号』

「学徒兵世代」の描いた朝鮮民族の傷痕

 大日本帝国はPhoto_2富国強兵のスローガンの下、台湾・朝鮮を植民地とし、1931年からは中国で侵略戦争を展開し偽満州国を建て、1937年からは中国との全面戦争に突入した。1941年からは太平洋まで戦線を広げたが戦争は完全に行き詰まっていた。弾薬不足、食糧不足に加え兵隊が不足し、徴兵が免除されていた学生も戦線へ駆り出されるようになった。1943年10月21日の明治神宮外苑での出陣学徒壮行会の映像は度々TVでも放映されている。しかし朝鮮出身者に対する徴兵は翌年まで始まらない。その代わり特別志願兵制度に志願させられる朝鮮人青年は多かった。『石枕(トルペゲ)』の張俊河(チャン・ジュナ)『凍土の青春』の尹在賢(ユン・ジェヒョン)は特別志願兵制度で学徒出陣し中国で兵営を脱出して朝鮮独立のための光復軍に合流している。
 1924年慶尚南道咸陽郡に生まれ東京の工科学校で学んだ鄭埈汶(チョン・サムン)も、1943年日本陸軍に特別志願兵入隊した。後のミステリー作家麗羅だ。麗羅は『わが屍に石を積め』(1980年)や『桜子は帰ってきたか』(1983年)の作者として知られる。しかし麗羅の原点的作品は『山河哀号』だ。『山河哀号』は1949年に書き始め、1952年に初稿を上げたが出版されたのは1979年集英社だった。(1986年に徳間文庫版が発行されている。)

   祖国と民族が不幸に沈淪していた時代を、私は水に流される泥舟のように生きた。ただただ風向きに逆らうまいと心がけ、ひたすら沈まないことを願っただけだった。
   …略…
   私は、自分が作家になったら、まっ先にその悔恨を書こうと思った。いや、それが書きたいから作家を志望したと言える。

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 麗羅は韓国で言う「学徒兵世代」李炳注より3歳下、在日では金泰生や金石範と同世代だ。1943年明治大学講堂で開催された在東京朝鮮人学徒出陣決起大会には麗羅自身も参加しただろうと思われる。この大会に出席した青年たちの行く末は悲惨だ。『山河哀号』の主人公成文英も朝鮮人青年に出陣を強要する大会に主席させられていた。演台には当時朝鮮の最高の知識人と言われた崔南善、李光洙らが立った。彼らの演説は余りにも稚拙な論理で出陣を促すものであるのはもとよりだが、朝鮮民族を辱める内容だった。東京帝大生で朝鮮史を勉強していた成文英は思わず立ち上がり李光洙を批判してしまう。
 波田野節子はその著書『李光洙』(中公新書)で〈志願しなかった留学生は「非国民」の烙印を押されて休退学や除籍になり、あるいは遅まきながら志願に応じて軍隊で悲惨な待遇を受け、あるいは朝鮮総督府に送還され、あるいは日本で労働に従事して監視処分を受けた。〉と書いている。波田野は李光洙の学徒兵志願勧誘について同情的だ。『山河哀号』でも立ち上がった成文英を諫めようとする李光洙が描かれている。しかしこの小説の主人公はあまりにも潔癖だった。結果成文英は逮捕され拷問の末禁固十年の刑を受け秋田刑務所に送られた。
 一方、李光洙の演説に感激した者もいた。出陣決起大会には前列に第一陣に志願した学生たちが日の丸襷を掛けて座っている。その内の一人が北村哲也こと韓哲相だった。徴兵されるよりは志願したほうが待遇が良いだろうと自ら志願した麗羅自身は、この北村に近い立場だったと思われる。出征した北村は京城郊外の特別志願兵訓練所で優秀な成績を送っていたが、所内は支給される筈の糧食が中間搾取されるなど不正がはびこっており、訓練生たちは暴力で押さえつけられていた。北村の同僚のなかには逃亡する者もあった。
 日本の敗戦、朝鮮の解放を迎え成文英はようやく帰国できたが、アメリカ統治下の南朝鮮で様々な政治勢力の台頭に翻弄される。一方、8月14日に形だけの反乱を起こして独立運動家になった韓哲相は政治的野心を大きくする。左右の対立は民族を統一から遠ざける。人々は植民地時代に親日行為をした負い目から激しく反日を旗幟とした政治運動へと導かれていた。一方学究として生きたい成文英は京城帝大に転学し、できるだけ目立たないようにしているが状況が許してくれない。また資産を持つ名家出身の成文英は結婚相手も自由には選べない立場だった。解放後親日派から左翼に転身した若者たちからは嫌悪される立場でもあった。親日とは何か、民族とはどうあるべきものか。歴史にいたぶられる成文英の姿はそういった問いを読者に投げかける。
 小説の背景には実在の人物や事件が配色される。李光洙らの文化人だけでなく、呂運享などの政治運動家も登場し歴史小説的リアリティーを持たせている。筆者としては「始原の光」と呼ばれた作家金史良が連座した朝鮮芸術座事件の逸話には心そそられた。あらゆる歴史が丹念に調査され描かれている。主人公成文英の設定が死六臣の一人成三問の隠された子孫ということになっている点も朝鮮の民族性を感じさせる。成三問はあらゆる拷問に耐えて殺された忠君と言われる人物だ。死六臣を扱った李光洙の『端宗哀史』は『山河哀号』中にも紹介されている。近年ではテレビドラマ「王と妃」にも出てくる。
 『山河哀号』は虚構に依って歴史の真実を追った小説であり、民族史に託された作家の精神の痕跡でもあった。

*この小説に主人公成文英は死六臣の一人成三問であるが、死六臣を祀った公園がソウルにある。その死六臣公園の紹介記事も書いておいた。http://kghayashi.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-5c82.html

2017年2月 9日 (木)

李炳注『関釜連絡船』のぎりぎり

学徒兵世代の文学再評価を

 第二次世界大戦末期つまり日中15年戦争末期、学徒動員以後も朝鮮人学徒は徴兵されなかった。しかし「志願」させられ大陸へ出兵していった。朝鮮人学徒の強制的出兵志願について、韓国では張俊河の『石枕』などが有名だ。張俊河は兵舎を脱走し重慶へ向かい大韓民国臨時政府の光復軍に加わった。戦後は雑誌『思想界』を創刊するなど活躍したが登山中に謎の死を遂げる。李承晩、朴正煕と続く軍事政権に批判的だったことと無関係ではないと言われる。
 朝鮮人志願兵の実際をモチーフにした作品として日本語で書かれた作品としては、尹在賢『凍土の青春』麗羅『山河哀号』などがある。麗羅『山河哀号』は戦中から戦後にわたる青年の苦闘そのものが朝鮮の近代史として読者の前に立ちはだかる。これらの作品はほぼ忘れかけられていたが、『凍土の青春』は2014年3月に韓国で翻訳出版されている。『世界文学の構造』などの著書を持つ韓国の評論家ジョ・ヨンイルも『すばる』2月号のインタビューで『凍土の青春』に触れ〈学徒兵はこれまで歴史学からはもちろん、文学界からも疎外視されてきました。〉と言っている。克服すべき対象だったのだと。
 ジョ・ヨンイルは、〈近代文学は戦後文学と同義語なのです。近代国家になる「国民戦争」という共通の経験を通して成立するものなのです。〉と言い、また長編小説を指すとも言う。「国民戦争」という民族統一の経験を持たず、ろくな長編小説もないから韓国には近代文学は成立しなかったと言いたいようだ。長編小説が近代文学の前提であるかどうかは疑義を挟む余地があるがここではさておいても、私たちが李光洙を「朝鮮近代文学の祖」と呼ぶのは間違っているのだろうか? 『林巨正』の洪命憙や韓雪野や李箕永など北朝鮮に行った作家たちをまるっきり無視して良いものだろうか。確かに日本の近代文学史に比べれば李光洙からプロレタリア文学までの期間が極端に短い。だからといって近代文学の規定を、柄谷行人に任せて朝鮮の民族文学に当て嵌めて解釈するのが妥当だろうか。因みに大村益夫は北は中国の朝鮮族自治区から南は済州島までを朝鮮文学の地理的範囲としている。最近在日朝鮮人作家金石範の『火山島』が韓国で翻訳出版されたことが民族文学理解に投じた意味も小さくない。Photo
 さて韓国の作家李炳注(1921-1992)も朝鮮人学徒兵としての経験を持つ一人だった。作者死後25年も経って今年『関釜連絡船』が日本語訳された。『関釜連絡船』の主人公たちも学徒兵として出兵している。物語は、1966年「私」であり「李先生」である語り手に日本留学時代の友人から手紙が届くところから始まる。柳泰林を探して欲しいという。柳泰林がこの小説の実質的主人公と言える。語り手である李先生が反共右翼としての立場を明確にしているのに比して、柳泰林は政治に対して超然としたいという立場ながら、思考の端々に容共的発想を表し、左翼的独立運動家であった呂運享に対する尊敬を隠さない。訳者あとがきによると、『関釜連絡船』は1968年4月から1970年3月まで雑誌『月刊中央』に連載された。朴正煕軍事独裁政権の時代だ。自由に語れない時代の文学作品をどう読み解くかは難しい。独裁政権下での文学に制限があるのは仕方ないとしても、文学を支える精神が阿てはいけない。李炳注『関釜連絡船』はぎりぎりのところではないだろうか、というのが筆者の見解だ。
 小説は「柳泰林の手記」をあいだに挟みながら、朝鮮が日本に植民地支配されていた1930年台から朝鮮戦争が始まる1950年までと現在である1966年を往来する。私や柳の日本でのややデカダンだが知的でもある学生時代の描写のなかにも、常に官憲の目にさらされている朝鮮人としての苦悶が表れる。日本と朝鮮が平行に描かれるが、朝鮮の舞台は主に「C市」として表記される晋州だ。解放後、私や柳泰林はC市高校の教師として左右政治勢力の闘争に巻き込まれ悪戦苦闘し、柳泰林は朝鮮戦争時に消息を失う。
 戦前戦後の混乱の中で朝鮮民族が味わった苦渋のどれほどを、我々は知っているだろうか。しかしその抵抗と苦渋のなかに民族の文学は身悶えしていなかったか。帝国主義戦争を闘った側だけに近代文学は成立したのだろうか。否、植民地支配された側にも近代文学は成立した。ただその成立過程と性格が異なるため朝鮮近代文学には多分に抵抗的要素があり、また見かけ上はいくつにも分断されている。柳泰林や登場人物たちと同様、作者も朝鮮の特権階級出身、日本で知的教養を身に付け日本の軍人とし出兵した学徒兵世代だ。学徒兵世代の知的教養に関して翻訳した橋本智保はこう書いている。

  李炳注にとって日本(語)を媒介に接した近代文学とは、人類普遍の価値を体現するものであり、植民地になった朝鮮の運命や、学徒兵になった自分の運命を、親日・反日という図式を超えたところで説明してくれる根拠になっていると考えられる。
                                         (訳者あとがき)

 林鍾国が『親日文学論』を書き、金允植は『傷痕と克服』を書いた。韓国文学は一旦強制された日本語、帝国主義言語としての日本語を徹底的に批判しなければならなかった。文学に於ける帝国主義の克服は、韓国文学に於いても日本に於ける朝鮮人の文学に於いても必須だった。だから訳者あとがきの当たり前の言説も新鮮なのだ。最近、韓国では学徒兵世代の教養が見直されているようだ。同時に独裁政権時代の文学も見直されなければならない。植民地支配や軍事独裁とせめぎあいながら書かれた文学の再評価の時が来たのかも知れない。

2017年1月26日 (木)

柳美里『人生にはやらなくていいことがある』

柳美里文学の旋回─孤独から連帯へ

 柳美里と鷺沢萠が2日違いという近い年齢で親しい関係だったということは知らなかった。(私とは띠동갑だ。)そもそも私のなかで柳美里と鷺沢萠は結びつかない。柳美里は在日韓国人家庭に生まれ育ち、その崩壊した家族との格闘からアイデンティティを築いた作家だった。在日朝鮮人である実存性ゆえの誹謗中傷を受け続け闘い続けた。(愚銀のブログ「『貧乏の神様』を読んで『仮面の国』を再読する」 を参照されたい)つまり柳美里のアイデンティティは否応なく在日朝鮮人として存在し、柳美里の文学はそうした実存からいかに飛びだすかという藻掻きだった。
Photo_2 逆に鷺沢萠は常に自分の依るべきアイデンティティを探していた。鷺沢の初期の作品は、経済発展する資本主義日本において、帰るべき故郷を失った人々の彷徨を描き、ついには東京大森界隈に根っことすべき場を発見したかに錯覚した。しかし所詮せんない空理で心を満たすことなく、次には祖母の出身地である韓国にアイデンティティを探す。鷺沢萠は朝鮮人の血が4分の1混じるクオーターだ。韓国に自分の根っこを探し、留学して韓国語を勉強した。鷺沢萠が、どうしようも無く在日朝鮮人である柳美里にシンパシーを感じようとしたのは自然な成り行きだった。しかし柳美里は鷺沢萠が〈朝鮮半島にルーツを持つ同胞だからという理由で親しくしていたわけではなかった。〉探しに探して書いた鷺沢萠に対して、柳美里は〈多くのことを諦め、行き場を失ったわたしに残された唯一のもの、それが「書くこと」だった〉と言う。二人の方向性は真逆なのだ。
 しかし柳美里は仲違いした鷺沢萠に謝罪したかったと言う。柳美里は10数年前自らの出自への旅と深く関わる『8月の果て』(2004年8月)を書いている。北朝鮮に行くと『ピョンヤンの夏休み』(2011年12月)を書いた。鷺沢萠が自殺したのは2004年4月だった。

    人は、物語がないと生きられないのではないでしょうか。
   生まれてから死ぬまで、自分が生きてきた物語はもちろんですが、自分が生まれる前のファミリーヒストリーを求めているのではないか。それは、自分は何故ここに居るのか?というアイデンティティの問題にも関わってくるわけです。自分はこれからどこへ行くのか、その行き先を知るためにも、物語は必要なのです。

  2011年の3月11日、東日本大震災は柳美里の生を変えた。柳美里は居住する鎌倉から福島まで通って臨時災害放送局「南相馬ひばりエフエム」に無料で出演していたが、2015年4月からは南相馬市原町区に移住して現在に至っている。18歳で書くことで生きると決め、書くことだけで生活費を稼いで来た柳美里にとって、お金にならない「書く」行為の意味はなんだろうか。それは名誉でもない。社会的地位の確立でもない。〈本を読む人は「消費者」ではなく「読者」なのです。〉読者は、柳美里が泥臭く地を這うように書いてきたことを知っている。道徳行為の受け手としての生き方から担い手としての苦闘を生きていきたいという発想は、高1で中退した彼女が高卒認定試験に合格して大学で学びたいという指標にも結びついている。絶望の文学から希望の文学へ。孤独から連帯へ。柳美里文学は緩やかに旋回していた。
 『人生にはやらなくていいことがある』は柳美里の近況と思考を書いただけのものではない。熱心な読者であれば文章読本とも読める。ようやく小説の頂きが見えてきたような気がすると言う柳美里の「書く」方法論としても読み逃せない本だ。

2017年1月15日 (日)

梁英聖『日本型ヘイトスピーチとは何か』(影書房)

レイシストヘブン差別の王国 日本を撃て

Photo 崔実『ジニのパズル』で表出された在日朝鮮人を覆う日本の現実は、読者の一部がいかに曲解しようとも、悪の北朝鮮教育をする朝鮮学校などではなく、レイシズムに犯され傷つく少女の姿であり、朝鮮学校は彼女を懸命に支えようとしながらも力足りず、ジニの同級生の心さえ痛めてしまうものだった。ジニや朝鮮学校の同級生たちが安んじて学べるほどには、日本の市民社会は成長していない。梁英聖(リャン・ヨンソン)の言葉を借りれば〈日本社会に反レイシズム(反民族差別)という社会規範が成立していない〉のだ。
 朝鮮学校は高校無償化の対象から外されている。このようなあからさまな上からのレイシズムがヘイトスピーチ、ヘイトクライムを生んでいることは言うまでもないだろう。
 在日朝鮮人はなぜ日本に住みながら日本国籍を持たないのか。そして朝鮮学校は制度的に差別され続けるのか。1952年法一二六によって〈無理やり国籍を失わせた在日に対し、当面は日本にいてよいとする、極めて場あたり的で差別的な措置〉が行われた。かつて帝国臣民として労働や売春を強制した朝鮮人から日本国籍を奪い、一般の外国人と同じ扱いにするという見事な歴史抹消がなされた。つまり歴史否定主義政府にとって、侵略も植民地支配もしなかったがアメリカとの正々堂々とした戦にたまたま負けた日本なのであって、不名誉な歴史を証明する朝鮮人や朝鮮学校はそもそもあってはならないものなのだ。だから安倍政権は慰安婦を象徴する小さな少女像の設置に血眼になって抗議し対抗処置まで講ずる。
 日本では政治空間からの差別煽動(上からに差別煽動)が公然と行われ、朝鮮人従軍「慰安婦」の否定、南京大虐殺の否定などの歴史否定がまかり通っている。これは人種差別撤廃条約を批准している欧米各国とは根本的に異なり、欧米極右勢力の目指す見本・目標とさえ思える。もともと安倍晋三は塩崎泰久、菅義偉
(スガヨシヒデ)、高市早苗、下村博文らの現官僚たちとともに、従軍「慰安婦」関係の教科書記述の撤廃や日本の戦争犯罪の歴史否定を進める政治家グループに属していた。彼らは歴史否定を主眼とする国家主義者政権を運営し、ヘイトスピーチに力を与えている。しかし在日朝鮮人に対するレイシズムは今に始まったことではない。戦後すぐに戦前の体制を受け継ぎ、旧植民地出身者の日本国籍が剥奪された1952年体制の成立とともに差別構造は確立された。
 梁英聖は日本に於ける在日朝鮮人差別の実態の歴史を追い、その根源を明らかにしながら、欧米と比較しながら民主主義の行くべき道を明らかにしようとした。その視線は日本の資本主義的構造にまで及ぶ。新自由主義的市場原理及び日本型雇用システムが生む差別構造だ。
 黄英治の小説『前夜』では製パン工場で非正規労働者として働く在日朝鮮人青年を通して、工場での重層的な差別体制内での絶望的な労働に焦点を当てた。彼はやがてヘイト団体に加わって活動していくようになる。日本型雇用システムが生み出したものは単純に貧困労働者だけではなく、それを赦し補完する思想だった。〈市場原理にゆがめられた「戦後日本的人間らしさ」は、人権侵害に奇妙なほど寛容であり、場合によってはそれを「美徳」とみなし助長さえしてきた。……吹き荒れる生活保護者への異常なバッシングは、むしろ市場原理に侵食された「人間らしさ」から正当化されてこなかっただろうか。〉
 反レイシズム規範の確立を妨げる日本型資本主義に、私たちは充分に対抗できていなかった。労働運動が盛んな頃でさえ、運動内部に女性差別や民族差別は蔓延していた。民主市民派の選挙運動のさなかでも同じだった。レイシズムに対抗し、これを規制する連続した闘いこそあらゆる民主主義運動に通底しなければならないのではなかろうか。そのための指針としてこの本は間違いなく役に立つ。
 *『日本型ヘイトスピーチとは何か』は在日朝鮮人に対するレイシズムを中心に論じているので、
岡和田晃 マーク・ウィンチェスター編『アイヌ民族否定論に抗する』なども併読されたい。

2016年12月16日 (金)

ハン・ガン『少年が来る』雑感

霊魂の言葉に耳を傾けよ!

 2000年5月、光州ビエンナーレの帰り、終点の道庁前でシャトルバスを降りると運転手も降りてきて尚武館(サンムガァン)を教えてくれた。1980年の民衆抗争時に犠牲者の遺体が安置された建物だ。ハン・ガンの小説『少年が来る』の冒頭、二人称で語られる少年はこの尚武館の入口階段に座っている。この小説は光州事件をモチーフにしている。
Photo_3 光州事件とは光州民衆抗争とも呼ばれる。朴正煕暗殺後に芽生えた短い民主化の春を踏みにじる全斗煥による所謂「粛軍クーデター」に始まる軍事独裁政治に対峙した光州市民の民主化運動と、それを徹底的に弾圧した軍との凄惨な抗争だった。光州事件は1987年の6月民衆抗争で結実する韓国民主化運動の原点とも言われる。歴史的事実については文京洙『新・韓国現代史』(岩波新書)などに譲るが、空挺部隊による残虐は臨月の妊婦の腹を銃剣で切り裂くほどの非道に至っていて、韓国の表現者は小説、詩、映画など数多くの芸術作品を生んだ。『少年が来る』もその中に加えられる。
 今年(2016年)作家
ハン・ガンは『菜食主義者』でブッカー国際賞を受賞したので、日本でも知る人が増えたと思う。ハン・ガンは光州市生まれで事件の時は満9歳だった。父親は韓国の大物作家、韓勝源(ハン・スンウォン)だ。
 『少年が来る』は二人称の「きみ」で語られる少年の視線を通して、無惨に殺された人々を描きながら、少年の周囲の人々の時間的経緯をも複数の始点から描いていった。
 まだ中学三年生だったトンホ少年は、ソンジュ姉さんや女子高生のウンスク姉さん(血のつながりのある姉ではなくとも親しい年上の女性を「누나」姉さんと呼ぶ)らとともに尚武館で遺体の管理を手伝った。民主化運動に参加して軍人に殺された人々の遺体だ。少年の知っていたイム・ソンジュは忠壮路にあるブティックの裁縫師だった。しかしその前、ソンジュはソウルの紡績工場で働いていた。そして労組員として仲間とともに闘い、私服刑事に蹴られ踏まれて腸破裂し、入院中に解雇され、光州に帰って裁縫師見習いとして働いていた。
 戒厳軍によって鎮圧された市民軍の中に彼らはいた。幼く無抵抗の少年たちにさえ銃弾は撃たれ、銃剣は無惨に刺し込まれた。きみを語る僕であるもう一人の少年チョンデとともに、この小説は文字通り魂の小説、殺された霊魂が語る文学でもある。

   彼らの顔を見てみたい、寝入った彼らのまぶたの上でゆらゆらしてみたい、夢の中にすっと入り込んでみたい、その額、そのまぶたの上をゆらゆら飛び回ってみたい。彼らが悪夢の中で血を流している僕の目を見るまで。僕の声を聞くまで。なぜ僕を撃ったんだ、僕をなぜ殺したんだ。

1282_08_12 光州闘争で逮捕収監されたソンジュは、アカと呼ばれ〈地方都市のブティックに四年間潜伏して、スパイの指令を受けてきたというシナリオを完成させるために〉毎日出血で気を失うまで拷問された。
 ウンスクは4年前に浪人してソウルの大学に入ったが、そこも全斗煥政権打倒を訴える学生たちと彼らを阻止しようとする私服警官たちの闘争の場であった。結局学費が払えず教授の勧める出版社に就職して働いた。指名手配中の翻訳者の本を担当したため当局に呼ばれ、頰から血を流してもびんたされ続け脅される。〈おまえみたいな女はここでどうなろうが誰も知らんぞ、薄汚いアマ。〉指名手配中の男の高校の同級生である出版社の社長兼編集長は警察署に呼ばれても、無傷で戻ってきている。取り調べの場にはミソジニー(misogyny)が満ちている。
 この小説には無論個々の名前のある人間が多数登場するが、実のところ固有名詞で語られない。主人公は「きみ」であり「僕」であり、「あなた」であり「私」である。普通名詞で呼ばれる大勢が犠牲になったという意味もあり、また彼らの犠牲は普遍性を持っているからとも言える。私は1982年に光州を訪問したさい知り合った同世代の青年にまだ17歳の幼い妹がいて、裁縫の修行をしていたのを思い出した。
2000年光州民衆抗争20周年記念集会に参加したとき、死んだ娘の顔写真の入った名刺をそのお母さんから貰った。明るい笑顔だ。今日光州は韓国民主化闘争の聖地と呼ばれる。韓国の民衆は光州でもソウルでも、勝ち取った民主主義を奪われまいと闘い続けている。
 光州事件の犠牲者が埋葬された旧望月洞墓地へ通じる小道に石碑が埋め込まれていて、人々が踏んで行くようになっている。それは近在の村に全斗煥大統領が立ち寄ったさいに記念して建てられた石碑だそうだ。私が見たときは전の字が見にくかった。地面に微かに浮かんだ「전두환」の三文字はまだ見えるだろうか。土に埋もれても石が削れても、この石碑を踏み続けて民主主義は守られるに違いない。

2016年11月26日 (土)

温又柔『来福の家』のことなど

多言語社会は楽しい
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 今年(2016年)韓国の作家ハン・ガンがブッカー国際賞を受賞して話題になった。ブッカー賞は日本では、1989年に日系のカズオ・イシグロが『日の名残り』で受賞したさいに知られるようになった。選考対象は、イギリス連邦およびアイルランド国籍の著者によって英語で書かれた長編小説だったのだが、ブッカー国際賞は翻訳作品を表彰するもので、2005年のアルバニアの作家イスマイル・カダレへの授賞に始まる。国際賞は将来はブッカー賞に統一される予定だそうだ。翻訳作品と英語での執筆作品との垣根を取り払おうという動きだ。日本語とドイツ語で執筆する日本人作家多和田葉子がドイツのクライスト賞を受賞したのも今年だ。社会のグローバル化(アメリカ一極支配という意味ではなく、経済や政治が国家の枠を超えて、一国一民族では成り立たなくなってきた事実を意味する。)に伴い、文学の世界も着実に世界化の道を歩んでいる。
 日本とは地政学的に緊密な関係にある朝鮮の近代が、帝国主義宗主国としての日本の植民地として被支配を強いられた事実は、当然ながら文学にも大きな影響をもたらした。明治・昭和帝国の終焉後朝鮮での生活の地盤を失ったまま日本で生きることになった朝鮮民族の子孫たちの文学は、今なお完全には日本文学に収斂されることなく生き続けている。ところがいかに日本が島国とは言っても現代は多くの国際交流と、政治的、経済的難民の流入を押しとどめることができないまま、新たな外国人日本語文学の発達を促している。リービ英雄やアーサー・ビナードのような欧米系の作家も出てきているし、中国人作家楊逸やイラン留学生だったシリン・ネザマフイも無視できない日本語作品を残した。彼らの多くは日本に於ける語学の習得の過程で文化の違いに葛藤し、煩悶し、壁にぶつかりながら、その鮮やかな生を表明していった。
 その表層的には逆の立場から、岩城ケイは『さよならオレンジ』『Masato』などの作品で、民族文化を持って生きることと、生活の場である社会の言語を修得して、多文化社会を生きることの統合を、困難さも含めながら見せてくれた。
 沖縄の作家目取真俊に対して大阪府警から派遣された若い機動隊員が「土人」と罵ったのも今年のことだった。自民党政権は差別発言ではないと取り繕りたいようだが、政権による引き続く犠牲の押しつけに異議を唱える沖縄人に対して、醸成された優越意識から発せられた言葉だった。
 リービ英雄の『模範郷』に「土語」という言葉が出てくる。広大な中国の田舎村で〈その村以外に通じないし、通じる必要もないと思われている方言〉を示す言葉だ。これは日本本土の警察官が「日本」にしがみついた虚栄心から沖縄人を「土人」と罵るのとは違う。標準語を意味する「普通話」に対置される言葉だ。作者は〈土語の声を聞き、理解できないときは黙り込み、理解できる分だけ普通語で答えた。〉リービの村人との会話は沈黙を挟みながら、村人の土語を尊重しつつ交わされた。それは平等な会話だ。
 『模範郷』には、土語、普通語の他に都市の方言や北京語、台湾の国語(グオユー)など多様な言い方で表わされる中国語が登場する。台湾に降り立ったアメリカ人日本語作家リービ英雄は、台湾生まれ日本育ちで日本語ネイティブな台湾人作家温又柔らと合流し、少年期を過ごした場所を探す。
 温又柔は今年『台湾生まれ日本語育ち』で日本エッセイストクラブ賞を受賞した。温又柔は2009年にすばる文学賞の佳作に入った作家で、受賞作を含む『来福の家』が今年白水社Uブックスの一冊として再版された。2011年発行の集英社版は知らなかったので読んでいない。収録作品はすばる文学賞佳作の「好去好来歌」と「来福の家」。
 「好去好来歌」の主人公縁珠は台湾生まれだが三歳のときから日本にずっと住んでいる。両親は1950年代生まれで幼児期は台湾語を遣っていたが、小学校では中国語を強制された。中国語が国語だった。祖父母は日本時代に覚えたので日本語が出来る。日本育ちの縁珠は日本語ネイティブで、中国語と台湾語の聞き取りは出来る。楊縁珠は自分の名前を「ようえんじゅ」と思っているが、パスポートには「YANG YUAN CHU」と表記されている。発音はYáng Yuán zhūとなるが、英語の時間に自分の名前をアルファベット表記するときYANG YUAN CHUと書いたらバツになってしまった。「ようえんじゅ」だから「You Enju」なのだろう。
 母のしゃべり方は、〈中国語になったり、台湾語がまじったり、接続詞だけは日本語だったり〉する。日本語も「どうして電気を開けないの?」などとピジン語化している。しかしそこに大きな否定感は見当たらない。在日朝鮮人文学に比べると、自己否定から始まる反社会性、体制に対する抵抗感のようなものが小さい。概ね屈託のない小説と言える。
 しかし主人公の日本人ボーイフレンドが中国語を勉強していて、中国への留学が決まると「日本人のくせに、どうして中国語を喋るの?」と言ってしまう。これは私も若き日に経験がある。言われた方だ。「なんで日本人なのに、朝鮮語勉強してるの?」と在日朝鮮人であり母国語を解しない友人に訊かれる。これは答えにくい。フランス語やドイツ語だったらこんな風には訊かれまい。これは、なんで自分は朝鮮人なのに朝鮮語が出来ないんだという、自分に対する反問なのだった。自己のアイデンティティに対する不安なのだ。
 「来福の家」の主人公である少女許笑笑は中国語専門学校に入学する。普段はエミちゃんと呼ばれているが「きょしょうしょう」であり、本当は「Xǔ Xiàoxiào」なのだが、カタカナで表そうとすると正確には表現できない。母は家で何語で会話しているのかと聞かれると「──おうちでは、適当適当!」と答える。大らかだ。おそらく母の母語は台湾語(福建省南部方言をルーツとした閩びん南なん語)で、母国語はリービ英雄の書いた「国語」なのだろう。そこに生活語である日本語が混じってくる。笑笑の姉歓歓は外国から日本に来て住んでいる子どもに日本語を教える仕事をしていて、日本人の小学校教師と結婚した。そしてタガログ語の勉強を始めようとしている。希望に満ちている。多文化共生社会を小説で先取りしたかのようだ。ここにはヘイトスピーチも、嫉みや憎悪をマイノリティーに向ける感情の起伏も描かれない。
 Uブックス『来福の家』の帯には〈台湾生まれ、日本育ちの主人公は、三つの母語の狭間で格闘する〉とあるが、格闘と言っても爽やかな青春の一頁ほどのもので嫌みが無い。在日朝鮮人の小説は李恢成も金鶴泳も、もっと若い柳美里もどこか暗い塊を抱えている。どろどろしているのだ。それらは現代史の現実と人間の実存を嫌というほど突きつけてきた。温又柔の小説は爽やかだ。台湾人の文学と言ってもまだ数少ないので比較するのは無理なので、この爽やかさは温又柔に限って言うのだが、多文化・他言語共生社会の未来の良さを象徴しているようで好感がもてる。多言語を押し出す、小説で表出する温又柔の態度は新鮮ですらある。
 なぜこれまで在日台湾人の文学は現れなかったのか。朝鮮に先駆けて、日清戦争後大日本帝国の植民地となった台湾は、朝鮮よりも日本化が進んで当然だったろう。日本の敗戦前、台湾人による日本語小説も登場している。楊逵、呂赫若、張文環らである。これらは現在は『〈外地〉の日本語文学選』(新宿書房)によって確認できる。黒川創編集の労作だ。戦後には邱永漢が頭角を現した。多くの小説を『文學界』『新潮』などの雑誌に書き残している。これらの作品は見直されて、1994年に『邱永漢短編小説傑作選 見えない国境線』(新潮社)として一冊にまとめられた。(邱永漢はその後金儲けの神様と呼ばれて一世を風靡したことがある。)しかし戦前戦後に渡る台湾人作家の系譜が温又柔まで続いているとは言いがたい。邱永漢以後めぼしい台湾人日本語作家は出ていなかった。李恢成や金鶴泳が各種文学賞を受賞して脚光を浴びた1970年台、日本は中華人民共和国と国交を回復し中華民国とは断交した。パンダが上野に来ると中国ブームが起きた。在日台湾人は日本人の目から遠ざかったし、在日中国人は日本語で日本文学に抵抗する意味を持たなかったということなのかも知れない。これは憶測に過ぎない。
 温又柔は今後中国語でも書くようになるだろうか。日本語に拘泥する必要はない。文学表現の手段は自由だ。でも取り敢えずは日本語か。

2016年11月 6日 (日)

柴田翔「地蔵千年、花百年」

生と死を巡る小説

69 『されどわれらが日々』の作家柴田翔が30年ぶりの長編「地蔵千年、花百年」を発表したと、東京新聞夕刊の文化面で知り、メジャーとは言えない雑誌『季刊文科』69号(2016年8月発行)を購入した。本屋で探すのが困難な雑誌でもネットでは簡単に注文できる点は今日の利点と言えるのかも知れない。
 初めは、東京郊外に暮らす男が昭和の歴史とともに自分の半生を振り返る私小説風のものかと思いながら読み進めたのだが、そこに込められたのは近代史的視点に加え、文化史的、人類学的、且つ広範囲な地域からの照射によって生と死の交差を魂の伝達として表そうという試みだった。無論私小説ではない。背景に政治史がしっかり敷かれているにも拘わらず、嫌みが無く読後感が爽やかだ。
 1975年頃の東京郊外の商店街と小住宅地の風景から始まった小説は、昭和の家族の物語を予測せしめた。しかし敗戦の年に10歳だった男の半生は長閑ではなかった。加見直行は、若き日山間の温泉宿で知り合った〈仮初めの男〉の誘いに乗って、我知らず赤道に近い海辺の小国で幸せな3年を過ごしていた。そこは〈南半球から赤道へ拡がる大陸の北端、わずかに赤道の北側に位置する海辺の国〉だ。実は逃亡中の過激派リーダーである〈仮初めの男〉に替わって現地で貿易を営み、ここでしかほぼ使われない古イタリア語方言を習得慣れ親しむうちに、淡い褐色の肌の女性グレティーナとの幸せな時間を過ごすことになる。しかしある日突然、政治の陥穽に落とされ急遽帰国せざるを得なくなる。日本に帰った直行は日本で貿易事務所を開き若い妻を得て息子を儲ける。
 直行と家族の生活は、昭和が終わりベルリンの壁が崩れるという歴史の変遷の中で商店街とともに変化していく。駅ビルの晴れやかな開業と対照的に商店街にもたらされる小さな事件の連鎖は、馴染みの歯科医師の死に象徴されるような繋ぎ目をいくつも持った。それぞれの戦後を生きた商店街店主たちの変転変遷に続き、妻晃子の若い死を迎える直行の生は〈骨の孤独を誰が癒すのか〉という問題に突き当たる。そしてやがて老いたる直行の生はハイブリッドな孫であるニカへと受け継がれていく。コーカソイド、モンゴロイド、ネグロイドの混血である南米出身の母と、日本人の混血性に自覚的である筈の父を持つニカの表出こそ希望だ。
Photo 加見直行を中心とする登場人物たちの会話は、日本語のほかアメリカ英語、日本式英語そして海辺の町で使われる古イタリア語方言と多様で、その世界も東京郊外の町、海辺の小国、直行の成人した息子夫妻が暮らすアメリカ南端の大学町と広がりながら繋がる。
〈文化も歴史も、死者たちと生者たちの思いの感応がなければ生まれない……。永遠無量の時空の片隅で、死者と生者の思いが重なって、そこから初めて文化や歴史が生まれてくる〉
 この小説では不穏なるもの、光を潰す陰湿なものが殆ど描かれないか、背景に押しやられて、生と死の理想形だけが追求されているようにも読めるが、この小説の美しさは、そうした構成が功を奏したものとも言えようか。若く過激な批評家であれば不満は残るだろうが、読後感として物足りなさはない。生と死を巡る魂の小説と言ったら大仰だろうか。グローバルでありながらも民族的な価値観の表出、あるいは狭隘な場(トポス)を表現しながら人類史に辿り着く表現だ。

2016年10月 9日 (日)

文学と映画 行ったり来たり 第12~31回――不急順不同、起承転結なし(主に韓流)

*愚銀のブログ開設の主な理由は、休刊したさいたま市のミニコミ紙『市民じゃ~なる』に連載していた「文学と映画 行ったり来たり」の続きが書きたかったからだ。ブログに書き始めると、元々縛りの少ない連載ではあったのだが「文学と映画」というタイトルから外れる書評や雑文が増えてきて、このタイトルを付けた文は第31回で止まってしまった。それで一応の区切りとしてまとめておくことにした。リンクを張っておくのでクリックすると該当ページに飛ぶ。

第1~11回 〈『市民じゃ~なる』に連載した分〉

 

第12回 海角七号 春が来れば 私の小さなピアニスト──名誉なんかいらない、音楽映画の楽しみ

第13回 そもそもの初めは「馬鹿宣言」だった

第14回 映画「ハピネス」「母なる証明」小説「楽しいわたしの家」──女性に犠牲を強いるマザコン男性社会を告発

第15回 「冬の小鳥」「わたしを離さないで」「母をお願い」──母は幻想かそれとも実存するのか!?

第16回 ハン・ガン『菜食主義者』──本は読むべし、映画観るべからず

第17回 『根の深い木(景福宮の秘密コード)』──権威主義者は堕落している

第18回 孔枝泳『トガニ』(コン・ジヨン「るつぼ」)──苦痛と悲愴の背後に、偽善と暴力の巨大な世界がある

第19回 ク・ヒョソ『長崎パパ』――アイデンティティは自分で決める 

第20回 「闇の子どもたち」「わたしの中のあなた」「わたしを離さないで」──臓器移植とは何か 

第21回 チョン・イヒョン『マイスウィートソウル』──現実は見えないところで歪んでいる

第22回 映画「詩」――詩はどうしたら書けるのか

第23回 キム・リョリョン『ワンドゥギ』 ――差別に負けない爽やか青春小説 

第24回、映画『道―白磁の人―』──朝鮮に慕われた日本人 

第25回 キム・ヨンス『波が海の業ならば』──文学の深淵に語りかける声なき声

第26回 三浦しをん『舟を編む』――言葉を生み出す心は自由だ

第27回 韓流ドラマ「済衆院」と大城立裕の『小説琉球処分』──偏執的なナショナリズムを克服せよ!!

第28回 イ・ジョンミョン『星を掠める風』──詩人尹東柱の死

第29回 「明日、ママがいない」「バービー」──醜い現実に子役たちは煩悶する

第30回 佐藤泰志『そこのみにて光輝く』──生きる価値を問い直す文学

第31回 キム・リョリョン『優しい嘘』──誰によって誰が救われるのか!!

2016年10月 5日 (水)

パク・ミンギュ『亡き王女のためのパヴァーヌ』

愛には想像力が必要かも知れない

Photo 第1回日本翻訳大賞大賞を受賞して少し話題になった『カステラ』の作者パク・ミンギュの長編『亡き王女のためのパヴァーヌ』は、1985年の韓国ソウルが主な舞台になっている。そして意表を突く恋愛小説だ。
 1985年、韓国はどんな社会だったか。一口で言えば「民主化の時代」だ。全斗煥が第五共和国を率いた軍事独裁国家に対して学生運動などの民主化運動が復興していた。労働運動も台頭した。申京淑『離れ部屋』にも描かれた九老工団のストライキは有名だ。もう一面では88年のオリンピックに向けてインフラ整備が進んでいた。
 1985年、ぼくは何をしていたか? 李良枝、金鶴泳、金石範、桐山襲、山代巴、黄晳暎などを読んでいた。「鯨取り」などの韓国映画を観た。在日朝鮮人文学を読む会に参加していた。韓国にも行った。ソウル―光州―木浦―伽倻山―河回とまわった。金準泰の詩など韓国文学の原文読解にも挑んでいた。
 『亡き王女のためのパヴァーヌ』という小説は、もしかするとこうした時代設定を無効にするものかも知れないと訝る気持ちが少し蟠る。
 学歴社会の韓国で女子商業高校出身だというだけで目の前に大きな壁を置かれたような状況だってことは、映画「子猫をお願い」を観ても分かる。この小説は日本以上に見た目を重視する差別社会において、商業高校出で「ブス」というレッテルを貼られた女性を巡る恋愛の物語だ。まだ携帯電話もなく家の電話で互いの所在を確認しなければならなかった時代だ。これは日本でも同じ。今ならすれ違わないで繋がる思いが、空中で交差して交わらずに落ちる。地下鉄も整備されていないソウルではバスを何回も乗り換えて会いに行く。〈中風の父親と幼い弟、行商に出る母……描写するまでもなく世の中の過酷さが光を放っていた。〉チェ・ジウ主演のドラマのように貧しいけれど美人で頭の良いヒロインという設定が韓国ドラマの王道だろう。正直、容姿のために生きていくのが大変なんだ、あの子は弱者なんだと断言される(しかもシンパシーから)ほどのヒロインなんて想像がつかなかった。
 〈人間は果たして失敗作なんだろうか、人間は果たして……成功作だろうか?〉〈失敗作か成功作かという以前に、ただ「作品」としてだけでも価値があるのではないか、〉という主人公の煩悶は読者の煩悶でもある。1985年、開発独裁が末期に近づいている年、オリンピックを3年後に控えて益々豊かさを社会が追究していた時代。彼と彼女とヨハン先輩の3人はそれぞれ傷を持ち闇を抱えて、お互いを必要としていた。
 パク・ミンギュの小説は意表を突く改行で驚かせる。既成の概念に囚われることをよしとしないのだろう。我々を覆い尽くす社会の常識、資本主義の足枷を一旦すべて取り外せないものかと足掻いた文体だ。〈二十歳の男なんてAMラジオみたいなものだ…どんなにチャンネルを回しても、女という電波をとらえられない。〉しかし、こんな斬新に見える比喩も金融資本主義の枠の中に収まっているということを作者は知っている。
 想像力を持たない者は人を貶(おとし)め辱め見下す。資本の論理に従って豊かさを奪い合う。パク・ミンギュが「自分だけの想像力」を持っているかどうかは分からない。しかし「自分だけの想像力」を持とうとしていることは確かなようだ。

2016年9月27日 (火)

平野啓一郎『マチネの終わりに』

「過去は変えられるか」問いかける世界文学

 感想をまとめるのは難しい。小説と言っても主題が音楽であり知識の乏しい私の理解がどこまで到達し得ているのか疑問だ。ギタリスト福田進一の同タイトルのCD発売(10月19日)を待つかと思ったが、聞いてからでも私の理解の至らなさは変わらないだろう。無知は音楽に関してだけではない。主人公二人の抱えているものが大きすぎて、簡単に触れられない思いだ。

Photo これは世界的ギタリスト蒔野聡史と国際ジャーナリスト小峰洋子の出会い(2006年)から別れ、そして再会(2012年5月)までの物語だ。この間に二人はほんの数回しか会っていない。40歳を前後して始まる大人の純愛小説だ。
 洋子はクロアチア系ユーゴスラビア人映画監督と長崎で被爆した母との子として生まれジャーナリストとして活躍し、派遣されたバクダッドで爆弾テロに巻き込まれる。舞台は東京─パリ─バクダッド─マドリード─ニューヨーク─長崎と広範囲だ。登場する言語も英語、フランス語、ドイツ語、ラテン語、ルーマニア語、アラビア語、クロアチア語そして日本語と多様で、その大半が洋子の駆使する言語に因んでいるが世界で活躍する蒔野も語学が達者だ。作者平野啓一郎の語学力や音楽に関する広い知識と深い洞察力がこの物語を支えている。この小説はもはや国家や民族言語の枠に囚われていない。
 蒔野と洋子の芸術と政治にかかわる会話が魅力的で、知性で裏打ちされているためか衒学的な嫌みをまったく感じさせない。蒔野は「イラクで一体、俺の音楽に何の意味があるんだろう」と語る。バクダッドで心を傷めPTSD(心的外傷後ストレス障害)のカウンセリングを受けている洋子は、「わたしは、実際にバクダッドで蒔野さんのバッハの美に救われた人間よ。」と応える。洋子はバッハを30年戦争後の荒廃した世界で人々を慰めたのだと譬えた。こういった会話は現実の戦争を肌で感じ蒔野の音楽から信念を得る洋子という理解者と、自分の音楽を模索し苦悶する蒔野という芸術家との良き関係を見事に表出した。それは蒔野を支える年若いマネージャー三谷早苗には理解出来ないものだった。
 パリの洋子の部屋での蒔野の演奏は楽しげで美しい。バクダッドから逃げてきて洋子に助けられたイラク人難民ジャリーラのために洋子が朗読するリルケの詩と、それに合わせて蒔野がギターを奏でる場面は心を打つ。この共感こそ救いなのだと感じさせる。ギタリストとして行き詰まりつつあるためか、蒔野聡史のギター演奏が楽しげである場面は多くない。この場面は後のCD発売時のクレジットに繋がり、愛が確認される遠いきっかけになる。
 更に洋子による蒔野の音楽の正当づけは、芸術家として苦闘する蒔野にとって必須だ。洋子が対峙し同時に内包する世界は、戦争と民族対立そしてテロの恐怖に満ちた現実である。そうした現実を抱える洋子に、あなたの音楽は人類的に愛されているのだと励まされることが、どれだけ蒔野の芸術家としての矜持を立てただろうか。この一夜があってこそ、後に蒔野は東日本大震災後の公演を成功させたはずだ。実はそうした芸術の意味(力)を確認することは、洋子にとっても《ヴェニスに死す》症候群(中高年になって突然現実社会への適応に嫌気が差して、本来の自分へと立ち返るべく、破滅的な行動にでる)からの解放という意味を持った。
「美しい一夜が終わろうとしていた。あとに一体、何があるというのだろう?……」読者への問いかけに、今になって読者である私は肯
(がえ)んじるのだ。
 しかし運命は好転しないことの方が多い。裏切りが二人を分断し、二人は別々の愛の形を求める。洋子の別の愛の破綻はやはり世界に対する価値観の相違が根本にある。金融資本主義支配下における人間性喪失の問題を洋子は看過出来ない。一方、蒔野が早苗を赦し煩悶しながらも寛容な態度を選ぶのは何故か? そこには平野啓一郎が『空白を満たしなさい』で表現した「分人主義」が蒔野の無意識の底辺に横たわっているに違いない。
 洋子の父ソリッチ監督の映画「幸福の硬貨」の思索的背景をリルケの詩「ドゥイノの悲歌」が飾っている。「誰の、誰の歓心を買おうとしてでしょう、決して満足することのない意志に、その身を絞らせるとは。」
 ソリッチが娘洋子に語る言葉は肉親に対する愛情だけではなく、過去を持つすべての読者に差し出されたものだ。「自由意志というのは、未来に対してなくてはならない希望だ。自分には何かが出来るはずだと、人間は信じる必要がある。」
 読者はマチネの終わりに再会する二人の運命をそれぞれに予測し、自身に問い返す。過去は変えられるか?

2016年9月15日 (木)

津島佑子『狩りの時代』

「美しい日本」に対峙する文学的営為

Photo 津島佑子の死後発見された最後の小説『狩りの時代』は、障害者や性的あるいは民族的マイノリティーに共感し続けた彼女らしい作品だ。
 読んでいて相模原の障害者殺人事件を想起させられた。犯人はBeautiful Japanなどと、為政者のよく言うキャッチフレーズ「美しい日本」に連動した合い言葉に自らを誘ってヘイトクライムを実行した。26歳の植松聖容疑者は、2016年7月26日未明に神奈川県相模原市にある障害者福祉施設に潜入し、刃物によって施設の利用者である障害者19人を殺害し26人に重軽傷を負わせた。植松は障害者は生きている資格がない、国家のお荷物であり、彼らに死を与えるという自らの社会的役割を果たすことによって自分が国家政府に認められると考えた。
 『狩りの時代』は、戦前日本がナチスドイツと同盟関係にあった時代から現代に渡って、ある大家族の記憶を行き来しながら、日本人の差別意識に切り込んだ小説だ。絵美子は幼い時に耳元で囁かれた「フテキカクシャ」という言葉に怯え続けた。絵美子には障害者の兄耕一郎がいて、その言葉が耕一郎の存在を脅かすものに感じられたからだ。絵美子の母カズミたちの世代の兄弟、創、達、ヒロミらは戦中の少年期に、来日したヒットラー・ユーゲントに遭遇した。そして実際とはやや異なる記憶の中で、少年たちは金髪に青い瞳の少年たちに見とれひれ伏し、戦意高揚のポスターのように醜い敵を殺せという悪を集約した記号に囚われた。
 肺がんから腎臓と肝臓へと転移していた病状の津島佑子渾身の遺作は「差別の話になったわ。」と語られた。差別の話は原子力とリンクしている。家族史は原子力発電所の爆発にまで至る。絵美子のおじである永一郎は、敗戦後の日本からアメリカに渡って核エネルギーの研究に携わったが、晩年に原発事故を受けて、〈わたしはいま、この狭い地球で原子力と人類は共存できないだろう、と思うようになっております。〉と発言するようになる。
 役に立たないものを容赦なく切り捨て、逆に役に立つものは奪い尽くして、ナチス・ドイツとかつての日本帝国は繁栄した。ファシズム同盟が反ファッショ統一戦線によって敗れると、ドイツは近隣諸国の理解を求めて変わる努力を重ね、日本は変えようとせず今も復活を企んでいる。原発は大日本帝国復活の象徴的存在だった。役に立たないものの対極にあると思われ、争奪の対象である原子力は実は人類も地球も滅ぼす悪の力だったと、作家は気付いていた。
 今度は負けないためにアメリカと同じ夢を見たくて仕方がないアベ政権は、沖縄では辺野古での新基地建設を急ぎ、また高江の森を切り裂いて住民の抗議を暴力で排除しながらヘリパッドを建設している。本土から派遣された機動隊の暴力は目に余る。沖縄では法の下の平等がないかのごとくである。差別は政治に利用される。

 描かれているのは、差別とはなにか、いや、人間とはなにかという問いだ。どうしたら差別を乗り越えられるかと言っているだけで差別をわかったつもりになっていた。目をそらしていた心のなかを突きつけられて、人間の複雑さを思い知らされた。この作品をいま、差別のなかで生きる人々に届けなくてはいけない。

 作者の娘津島香以の言葉を、力強いと言ったら本人は嫌がるかも知れない。

2016年9月 2日 (金)

キム・グァンソク김광석/アン・チファン안치환

とりとめもなく音楽について語る

 私は将棋も囲碁もさせないのに棋士の書いた本について書いたし、将棋が題材になった小説についても書いた。今回は音楽に関連して書こうかと思う。音楽の知識がないので、これまで音楽の事を書いたことはほぼない。音楽そのものについては好きか嫌いかしか言えないし、若い韓流ファンの支持する新しいミュージシャンについては本当に知らない。昔カラオケなどでチョー・ヨンピルを歌ったことぐらいの経験はあるが、だいたい聞くのが専門だ。韓流歌謡に関する知識と言っても若い方ではBoAくらいで止まっている。
 映画好きなので挿入歌には気持ちが傾く。「その年の冬は暖かかった」のオープニングで童謡「오빠 생각(兄さんを思う)」が流れたとき、それだけでも涙が流れそうになった。ペ・ドゥナ主演の「子猫をお願い」の主題歌はCherry Filterの「浪漫子猫」だった。「幼い花嫁(日本版タイトル「マイ・リトル・ブライド」)」で主演のムン・グニョンがカラオケで踊りながら熱唱していた。
 BoAは2004年「太極旗を翻して(日本版タイトル「ブラザーフッド」)」の主題歌「우리 We」を歌った。感動的なバラードだ。
 「JSA」の挿入歌「二等兵の手紙」の哀切は象徴的だった。南北の兵士が仲良く語り会う場面が話題になったが、北側の兵士が「キム・グァンソクて良いよな」と嘆息する場面があった。「JSA」は38度線の南北共同警備区域での殺人事件の深層が明らかになっていく過程で、当事者たちの複雑な心情が民族の置かれた立場と重なって切ない。「二等兵の手紙」はキム・グァンソクが歌った曲だ。

  家を出て列車に乗り、訓練所に行く日
  両親に挨拶して門の外に佇ったとき
  胸の中になんとなく未練が残るけれど
  草一本 友の顔 すべてが新しい
  いまもういちど始まる 若き日の生よ
                            (「二等兵の手紙」部分)

 キム・グァンソクは若者の苦悩を切々と美しく歌った歌手で、韓国でいう「民衆歌謡」の代表格だった。映画は2000年公開だったがキム・グァンソクは1996年に32歳の若い死を選んでいる。
Kimgaongsok_anthology 私もキム・グァンソクのCDを何枚か持っているが、2000年11月発行の「김광석 ANTHOLOGY」が好きだ。このCDには彼を慕う友人や後輩歌手たちが参加している。イ・ソラ、カン・サネ、ユン・ドヒョン、アン・チファン、キム・ゴンモなどそうそうたるメンバーだ。彼らが死んだキム・グァンソクの歌声に合わせてデュエットしたり合唱している。アルバムに付属した冊子には参加者の声も掲載された。

  夜明けにブルースハウスに行けば、
  あなたが煙草を吸いながらお酒を飲んでいる姿を 今も思い出します。
  会いたい……
        イ・ソラ
 
  兄貴 今も曇った秋の空に手紙を書いているんですか。兄貴、これからは澄んだ空にだけ手紙を書いて。いつも澄み切った高くて青い空のようだった兄貴の心に、僕たちみんなが出会えるように。
        ヨヘンスケッチ

 死後も愛され続けるキム・グァンソクは、没20周年の今年追悼イベントが各地で催されたようだ。
 70・80年代の民衆歌謡といえば、「朝露」やキムジハの「金冠のイエス」などで日本でも知られるキム・ミンギが有名だが、韓国ではキム・グァンソクやアン・チファンも愛される歌手だ。私がアン・チファンを知ったのは、2000年5月光州民衆抗争20周年集会でのことで、記憶に間違いが無ければ、台湾の飛魚雲豹音楽工団と、沖縄の喜納昌吉が共演した。飛魚雲豹音楽工団は少数民族のグループでこれも凄かった。
Anchifang6_5_3 さてアン・チファンはキム・グァンソクの繊細さと対照的に、骨太な力強い歌声だ。この年の新作が「An chi hwan Vol.6.5─Remember」だ。「Vol.6.5」というのは「Vol.6」と「Vol.7」の間ということで、完全オリジナルのアルバムではなく、故金南柱詩人の詩を歌ったものだからだろう。金南柱は南民戦事件で逮捕された光州の詩人で、ドラマティックで喜怒哀楽烈しく、欺瞞に対する痛烈な罵倒と、同志に対する厚い信頼を歌った。アン・チファンの激しいが優しい声は金南柱の詩に合っている。
 冒頭の一曲は「糞蠅と人間」だ。

  糞蝿は、糞がたくさん積もったところに行って
  ぶんぶんいって、群れて生きる
  そこが どこだろうが、汚水溜でも汚物の山でも
  かまわない かまわない
  見ろ
  人間は金がたくさん積まれたところに行って
  勢い盛んに 群がって生きる
  そこが何処だろうが、生き地獄だろうが、戦場だろうが
  かまわない かまわない
  糞がない綺麗で清潔なところ 泉のようなところ
  そこで群れて生きる糞蝿どもを見ることがあるか
  見ろ
  つきつめてみると おれたち人間なんて
  たいしたことはない そりゃたいしたこたぁない
  糞蝿どもと違いがない 違いがない
  糞蝿には もっと糞を
  人間には もっと金を
                                    (これは愚銀の試訳)

 凄まじいロックだ。金南柱の詩をアン・チファンは自分の歌にしている。それは彼の生き方に反映しているのだと思う。

  万人のために私が努力するとき
  わたしは 自由だ
  汗を流して精一杯働かないで どうして
  わたしが自由だといえるだろうか
  万人のためにわたしが闘うとき
  わたしは 自由だ
  血を流してともに闘わないで どうして
  わたしが自由であるといえるだろうか
      (「自由」より部分 金南柱詩集『農夫の夜』1987年 凱風社)

Photo 引用した金南柱詩集『農夫の夜』は、発行当時売れなかったに違いないが貴重な本だ。金南柱の詩65編に合わせ、民衆芸術運動を牽引した作家黄晳暎(ファン・ソギョン)や尹東柱(ユン・トンジュ)と親しかった文益煥(ムン・イカァン)牧師らの文が載り、南民戦事件の解説を歴史家の梶村秀樹が書いている。詩人の年譜も附いている。

Photo_4 さてさて、ここではキム・グァンソクとアン・チファン、二人の二枚のCDしか紹介しなかったし、今後音楽について書くことはないかも知れないが、韓流ブームに乗らなかったけれど素晴らしい音楽家は少なくない。例えば、リー・サンユンとか、トゥーボンチェタル(二番目の月)とか。SOL FLOWERも良い。紫雨林(チャウリム)は日本でも知られたが、ボーカルのキム・ユナのソロアルバム「Shadow of your smile」が20001年に発売されたのはそれほど知られていないだろう。甲午農民戦争の英雄全琫準を讃えた民謡「青い鳥」を切々と歌ってもの悲しい。これは冊子附きだ。
Photo_2 わたしは音楽も温泉卓球なみの素人だが、やはり良い音楽は心を打つ。文学とは切っても切れない仲ではないだろうか。

2016年8月26日 (金)

金重明『幻の大国手』再読

将棋の小説も面白く読める

 『世界最強の囲碁棋士、曺薫鉉の考え方』を読んで、囲碁ではないが将棋にかかわる金重明『幻の大国手』(新幹社)を再読した。1990年の出版である。金重明は『算学武芸帳』で1997年朝日新人文学賞を受賞して文壇デビュー、『皐(みぎわ)の民』(2000年講談社)、『抗蒙の丘』(歴史文学賞受賞、2006年新人物往来社)など東アジアを視野に入れた力のある歴史小説を書いた作家で、岩波新書『物語 朝鮮王朝の滅亡』(2013年)などの著書もある。──ついでに言えば、『13歳の娘に語るガロアの数学』で2014年度日本数学会出版賞を受賞している。翻訳も多い。
Photo 『幻の大国手』は金重明の原点的作品と言える。
 朝鮮と日本の将棋が重要なモチーフになっているので、将棋を知っているとより面白く読めるかも知れないが、私のようなまったくの無知でも、文学と近代史に興味があれば魅了されること間違いない。
 戦中「七段殺し」の異名をとりながら、ある日忽然と行方不明になった新進気鋭の将棋指し金相鎬の行方を、1980年台に生きる在日朝鮮人で日本将棋の学生チャンピオンである金民石が追跡していく。金相鎬は、強制連行されて日本に来たチャンギ(朝鮮将棋)指しであった。金相鎬は北海道の炭鉱から必死で脱出しアイヌに助けられる。最果ての森に追いやられたアイヌの生活が美しく描かれるのは、神に感謝しながら自然の恵みを受け取るアイヌの生活に、作者が強いシンパシーを持ったからに外ならない。反対にシャモ(日本人に対する蔑称)は、自然を「資源」と呼んで破壊し収奪する。作者の資本主義文明に対する嫌悪も読み取れる。
 朝鮮に帰りたい金相鎬はアイヌ部落での生活に終わりを告げ、本州に渡って日本将棋の真剣師とよばれる賭け将棋師として転戦した後、東京で将棋の名人に弟子入りして専任将棋指しになった。将棋界ですぐに頭角を現した金相鎬だったが、心の中では朝鮮へ帰ってチャンギの名人とチャンギを打つことだけを願っていた。金相鎬は将棋の修行の間にも、チャンギの新しい定跡の研究に余念無くその成果を書き綴っていた。
 現代(1980年台)の金民石は、金相鎬が遺したチャンギ研究の原稿を手に入れ、書き写して韓国へ行く。金民石は韓国でチャンギ指しの女子大生と親しくなり一緒に金相鎬を追うが、北朝鮮のスパイとして保安司令部に逮捕されてしまう。
 戦中の金相鎬はチャンギ一筋で他のことに関心を持たなかったが、日本の朝鮮支配という歴史に翻弄され、最後は同胞の裏切りにあい、大国手(チャンギの名人)白基徳と自宅で対戦中に、特高警察によって殺されてしまう。
 将棋とチャンギの天才金相鎬に魅かれて、チャンギの世界に入って行く金民石の姿には金相鎬が重なって見えてくる。金相鎬が日本の憲兵に捕まって受ける拷問と、金民石が韓国の保安司令部で受ける拷問の様子も時代を超えて二人を結び付ける。
 『幻の大国手』は日韓の近代史を将棋とチャンギを題材にダイナミックに描いた傑作だ。文体にまだ荒さがあり誤植も残っているが、作品の文学的価値を損ねるものではない。改訂版の再版を期待したい。
            (金重明『幻の大国手』1990年 新幹社発行 草風館発売 本体2000円)

2016年8月19日 (金)

曺薫鉉『世界最強の囲碁棋士、曺薫鉉の考え方──考えれば、必ず答えは見つかる』(アルク)

「考え」は時代も国境も遙かに超える
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 私は、卓球はまったく分からない。経験も殆どない。温泉卓球でも低レベルだ。オリンピックで観る卓球の解説もさっぱりだが、それでも面白いと思って観ている。囲碁番組はさすがに見たことがない。囲碁・将棋・麻雀及び賭け事に興味がないからだ。
 韓国語勉強のために賭博師を主人公にした韓国ドラマ「オールイン」は観た。イ・ビョンホン主演で、ソン・ヘギョ、パク・ソルミも出ていた。ソン・ヘギョの子ども時代を同い年のハン・ジミンが演じた。出演者だけ見ても面白いに決まっている。このドラマのモデルになった実在の人物は囲碁の世界でも活躍したことをこの本を読んで知った。私が棋士が書いた本を読むことになるとは思わなかった。『世界最強の囲碁棋士、曺薫鉉の考え方──考えれば、必ず答えは見つかる』は、温泉卓球レベル以下の囲碁知識の者にも読める。囲碁知識は有った方が良いかも知れないが無くっても差し支えない。では人材育成のハウツー本かと思いきやそうでもない。ハウツー本の持つ(あるいはそういうセミナーの持つ)単純明快な一貫した論理性にかけている。矛盾に満ちた本だ。
 曺薫鉉(チョ・フンヒョン)は貧しい家庭に生まれたが囲碁の才能に恵まれ満10歳の時に日本に留学して、80歳を越えた瀬越憲作の内弟子になる。瀬越は知る人ぞ知る日本囲碁の立役者だ。瀬越は生涯で呉清源、橋本宇太郎、曺薫鉉の三人しか弟子を取らなかった。呉清源という名は門外漢の私でも聞いたことがある。中国、日本、韓国から一人ずつ弟子を育てた瀬越憲作ににわかに興味が湧く。
 瀬越は言う「答えはないが、答えを探そうと努力するのが囲碁だ」
 瀬越は囲碁の打ち方を一切教えず放任した。自分でもがき苦しむ環境を与えただけだった。曺薫鉉は〈本当の幸せはしっかりとした自我から来るのだ〉と言う。しっかりした自我を植え付けることが瀬越の教育なのだった。
 曺薫鉉はもう一人藤沢秀行の研究会にも参加した。この二人が曺薫鉉の師である。藤沢秀行が破天荒な棋士であるということは聞いたことがある。曺薫鉉という棋士は、囲碁を芸術として道を究めた瀬越と、人情家の酔っ払いである藤沢の影響を同時に受けた。その人生は最初から矛盾の中にあったと言えよう。
 2014年に「未生(ミセン)」というドラマが韓国でヒットした。人生を囲碁にかけていた若い棋士がサラリーマンになり囲碁になぞられて人生が語られる。このドラマが大ヒットしたこともあって、囲碁は一寸したブームになったらしく、この本もベストセラーになった。「未生」は日本でもこの1月からBSで放映されたらしいが、私は観ていない。日本版リメイクのドラマ「HOPE─期待ゼロの新入社員』も放映されている。
 曺薫鉉の哲学は副題にもあるように考え抜くことだ。考えに考えて疑問を持ち質問し、共同して検討する。その考えの根本に人格を置く。なんだかビジネスシーンにおけるPDCA(Plan Do Check Action)みたいだと鼻白むことなかれ。中田英寿も「何をやったかといえば、考えること。考えて考えて準備した」と言っていた。でもこの本は人生の勝ち方指南の書ではない。確かに〈高い年棒をもらうのは、それに見合う能力を認められたということ…自慢すべきことだ。〉とも書いているが、「勝利を貪れば得ることはできない」とも言う。矛盾に満ちているが、人生を知っている者の言葉だ。
 曺薫鉉はドラマ「オールイン」のモデルとなった車敏洙(チャ・ミンス)とも親しい。「オールイン」は車敏洙をモデルとしてその半生を描いたのだが、実話の方が余りにもドラマチック過ぎて嘘っぽいので、ドラマではリアルに見られるように脚色したという話題のドラマだった。
 車敏洙は囲碁の実力も大したものなのだ。アメリカでも成功した車は、1980年台まだ韓国と中国に国交がない時に、中国棋院との関係をつくり中国囲碁の発展に力を尽くした。世界の囲碁が発展するためには中国の囲碁の成長が必要だと思ったからだ。家元とか民族といった狭い枠の中に止まっていてはならない。
 曺薫鉉は幼いときから囲碁という狭い世界に囚われ、運転免許もクレジットカードも持たず、スマホどころか携帯電話も使わない。それなのに彼の「考え」は一人の勝敗より世界への囲碁の広がりへ発展していった。囲碁は時代も国境も遙かに超えていた。人生なんて短いがけっこう奥が深いのだ。
 この本には結論はない。小説ではないのでまとまりもない。途中に著者の「無心」と書いた書が挿入されている。無心なんて書く人間は無心になれないから書くのだろう。曺薫鉉は今年国会議員になった。翻訳した戸田郁子さんに尋ねたら「悪手と知りつつ打ったのでは…」と返ってきた。曺薫鉉はオンラインゲームに参戦したこともある。囲碁人口を広げるための悪手だった。なりふり構っていないなと思う。藤沢秀行なら笑うだろうが、瀬越憲作には叱り飛ばされるのでなかろうか?
 そうそう囲碁・将棋に興味がないと冒頭に書いたが、一作だけ韓国将棋指しのことを書いた傑作小説を読んだことがある。金重明『幻の大国手』だ。この作品については別途書くことにする。

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